第二県 混沌なる魔境、神奈川
第一市 箱根の山脈にて
私たちは山越えをしていた。
丹沢。あるいは、箱根の山と呼ばれる地域だ。その難所から州都である横浜を目指していた。遥かなる道筋だ。
チリンチリンっ
鈴の音を鳴らす。害獣除けだ。
意外に思われるかもしれないが、人間は巨大な動物だ。この日本(と呼べる地域が本当にあるかは半信半疑だが)においては、人間よりも明確に大きな野生動物は熊くらいしかいない。個体差によって、鹿やカモシカが大きいかもしれないというくらいだ。
そのため、人間がいると知らせれば、ほとんどの動物が逃げていく。最大級の熊でさえ、人間と真正面から渡り合いたいとは思っていない。
だが、鈴の音を聞きつけて、現れたものがあった。
グチャリと草を踏む音が聞こえる。現れたのはイノシシだった。四足で地面を踏んでいる状態だというのに、二メートルは超えた巨体だ。その毛は金属のように硬質化している。
いや、話が違う。こんなデカい野生動物はいないんじゃないのかよ。
「魔獣だな。東京を離れた証拠だ。鉄のイノシシだろう」
落ち着いた声でイチロー兄さんが言うと、スーツの内側から拳銃を取り出した。そして、その頭蓋に銃弾を打ち込む。
ダンダンダンダンダンダンダンダンっ
連続で銃撃を叩き込んだ。その射撃は正確で、動き続ける巨大イノシシの頭蓋の一点に打ち込み続けている。
野生動物と比べて人間は弱い。人間であれば銃弾の一撃で死ぬだろうが、野生動物は違う。その毛皮を打ち抜き、骨を貫き、肉を引き裂かなくてはいけない。そのため、何発もの弾丸を撃たなくてはならないのだ。
というか、これだけの射撃はのび太並じゃないのか。人間業じゃないだろ。
「魔獣といえど、脳天を打ち抜けば死ぬ。当たり前のことだ」
当然のように語り、フゥーッと息を吹いて熱を帯びた銃身を冷ます。
「今日の晩御飯ゲットですね。すぐに解体を始めます」
鉄のイノシシが死んだのを確認すると、モモちゃんが発言した。有能な秘書というのは精肉までできるというのか。
「ゴロちゃん、手伝ってよ」
モモちゃんの俺を見る目が冷たい。というか、なんだ、この目? 妙に険しい目つき。じとーっとした三白眼になっている。
俺とイチロー兄さんとで、態度が違いすぎないか。
鉄のイノシシを解体する。
まずは血抜きをするべきだが、弾丸によりすでに血はだいぶ流れていた。首筋にナイフを突き立て、さらに血を流す。
腹を裁き、内臓を露出させた。それは穴を掘って、埋めた。内臓までは食べる余裕がない。だが、
「このイノシシ、妊娠してたのね」
モモちゃんが呟く。その体内には無数の箱根のうり坊が詰まっていた。
ついつい手が伸びる。箱根のうり坊の皮は薄い。その皮も甘いが、その中身はもっと甘い。ミルクの甘さの中に、バターの香ばしさがある。何ともいえない美味しさだった。
「こっちはチョコバナナ味だな。東京から近いからか? 東京の名産であるバナナと近い味だな」
イチロー兄さんが別の味の箱根のうり坊を食べていた。
「どっちも美味しいよ。可愛いし、甘いし、あー、もう、幸せっ」
モモちゃんは二つの味の箱根のうり坊を齧っていた。そんなんありなのか。俺はチョコバナナ味の箱根のうり坊を探し、パクついた。
しばし、和やかな時間を過ごす。その後、解体を再開した。
脚部を切り、背中を切る。各部位ごとに、肉を切り分けていく。
やったぜ、今夜はバーベキューパーティだ。
……無理やりテンションを上げてみたが、それも長くは続かない。こんな山の中を何日、さ迷っているというのだ。
一体、どうしてこんなルートを選んでしまったのか。
◇ ◇ ◇
「さあ、まずは神奈川県に向かうぞ」
イチロー兄さんが宣言した。選択としては無難なものといえよう。東京の隣県としては、神奈川と埼玉はまだマシな場所だという認識があった。海底に沈んだ千葉、天井の蓋により暗闇に閉ざされた山梨と比べれば、まだ生還の可能性がある。
しかし、一体どこから、神奈川に入るというのだろう。
「まず、川崎口ですが、論外ですね。長年、東京都と戦争状態にある蛮族の地。生きて神奈川の地を踏めるとは思えません。
それならば、海からと言いたいところですが……」
モモちゃんが状況を説明する。
東京の海、東京湾は汚染されていた。敵対する県からの攻撃であろうか、海は濃硫酸と化し、航行する船はすべて朽ち果てた。海路から他県への移動は絶望的だ。
「だったら決まっている。山からだ。単純なことだろう」
イチロー兄さんが宣言する。俺は耳を疑った。
「神奈川の三分の一は山で占められているんだ。そこを進むっていうの!? 正気なのかよ」
俺の疑問にイチロー兄さんが涼しい顔で答える。
「正気にて大業はならずだ。狂えよ、ゴロー。まともであろうとするな」
なんだよ、それ。イチロー兄さんが無茶苦茶やるから、こっちはどうにかフォローしようとしているんじゃないか。
そんな言葉は口には出さない。声に出しても、聞き入れるイチロー兄さんではない。言っても無駄だ。
「ゴロちゃん、後ろ向きになっても仕方ないよ。山歩き、楽しもうよ。
あたし、山歩きの装備を買いにいくから、ゴロちゃんも行かない?」
モモちゃんが声をかけてくる。これは、荷物持ちをせよという指令であろうか。
仕方ない。モモちゃんに付き合って、準備をしてこよう。命に関わる山行だ。ちゃんとした道具を選ばなくてはならない。
こうして、俺たちは山を突破する道を選んだ。けれども、果たして山を抜けることはできるのだろうか。
◇ ◇ ◇
ひたすらに山道を歩く。腹はどうにかイノシシ肉と箱根のうり坊で満たしているが、それでも岩をよじ登り、木の根の道を降る道程は体力を削られた。
「イチロー兄さん、この道で本当に合っているんだよね? どのくらいで横浜につくのかな」
俺が疑問を口にする。俺たちの目的地は横浜だった。
モモちゃんの持つガイドブックによると、江戸(東京)が徳川三代で築かれた都市であることに対して、横浜は三日で作られたという。即席都市というべきだが、古い言い伝えでは、東京に次ぐ日本二位の都市なのだという。
それを知ったイチロー兄さんを止めることはできない。横浜に行くことになってしまった。
「ああ、合っている。これを見ろ。方位は南東を示している。その先にあるのが横浜だ」
は? 方角しかわかっていないのか。なんだそれ、そんなんでたどり着けると思っているのか。
「イチロー兄さんさあ……」
俺が言葉を出しかけると、後ろから袖を引っ張るものがいた。モモちゃんだ。
「道ならあたしが把握してるから大丈夫よ。GPS見て、イチローさんを誘導してるから」
ぼそぼそとした声でそう言う。イチロー兄さんには知られたくないようだった。どういうわけかは、わからないけれど。
「それに、今日で山に入って三日じゃない? 今さら、そんなことに気づいたの?」
ジトーとした目で私を見てくる。
うっ、また、モモちゃんポイントを損ねてしまったかもしれない。確かに、気にするのが遅すぎたよな。
「どうしたんだ、君たち、何を話しているんだ?
そんなことより見ろよ。ついに箱根の関所についたぞ」
巨大な関所が見えていた。それは鋼鉄の門だ。いや、よく見ると漆でつやを出した木製の門である。
しかし、それは鋼鉄以上の硬度に見えた。鍛え抜かれた良質の木材は、その柔軟性により、鋼鉄以上に難攻不落になるという。
「す、すごい。本当に着いたんだ。けど、どうやって先へ進むの?」
俺はその威容に圧倒され、呆気に取られていた。この場所より先に進むことはできない。ならば、ここで旅は終わりなのだろうか。
「そんなことは決まっている。空手だ」
そう言うと、イチロー兄さんは深呼吸しつつ、腰を据え、
「ハッ!」
「ハァッ!」
二人の声が重なり、その拳が門に叩き込まれる。ブオォンと音が鳴り、門が震えた。次の瞬間、力の振動が門に伝わり、木製の門は粉々に砕け散る。
まさか力づくで関所を突破したというのか。
「よし、進むぞ」
イチロー兄さんは涼しい顔のまま、砕けた門を通り過ぎた。
その時だった。ひゅぅぅぅぅぅんと空気を切る音が鳴る。そして、凄まじい地響きとともに何者かが落下した。
おかっぱに、剃られた頭頂部。
その肉体は筋骨隆々であり、何より驚くべく体躯であった。巨大なビルほどの大きさなのである。その巨体が巨大な
この男はまさか金太郎だろうか。素手で熊を屈服させ、従えさせるほどの剛のものである。
その物語の舞台は足柄山であり、箱根の山の一つであった。まさか、この男が関所の門番だというのか。あるいは関所を破った大罪人に天誅を与える処刑人か。
……お、怖ろしい。
私は身がすくんだ。伝説に語られるほどの巨漢が目の前にいるのである。
そんな私の腕をイチロー兄さんが掴む。そして、ハッキリと、堂々とした口調で宣言した。
「逃げるぞ。鎌倉まで行けば、大仏がある」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます