55.劣等感の行き着く先

「あ……?」


 ぽつり、困惑した声と共にレッセの口から溢れる、赤。


 大した力を入れたように見えなかったのに、ディランが押すと彼より小さな身体はたたらを踏んで数歩下がる。

 彼を追い詰めた時と逆だった。


 レッセの膝が崩れ、地面にぶつかりそうになった身体は瞬時に駆けつけたシリスによって支えられた。


「さ……わんじゃ、ない、わよ!こんの……ビッ、チ……がぁ……!!」

「今そんな話持ち出してんじゃないっての!黙ってて!!ディク、治癒術できるよね!?」

「お、応急処置程度なら!」


 腹に風穴を開けながらも、シリスを振り払おうとするレッセ。遅くて躱すまでもないその手をあしらい、シリスはディクシアを呼んだ。

 慌てて駆けつけたディクシアが素早くレッセに杖を翳すと、淡い光が流れ出る赤を止めようと彼女の傷口に纏わり付いた。


 酷い出血ではない。風穴といっても傷自体は大きくない。───守護者は丈夫だ。血を失い過ぎなければ、命に関わる可能性は低いだろう。

 レッセはディクシアに任せると判断を下し、直ぐにこの騒動の原因に向かい合おうとしたシリスが顔を上げる。


「おい……!」


クロスタの焦燥を滲ませた声が彼女の耳に届いたのは同時だった。


「ディラン、何してるの!?」


 次いで、アーリィの非難の声。


「どういう事!?どうして守護者様に攻撃なんて…」

「アリィ、駄目!」


 彼女がディランへ詰め寄るのとシリスの叱責もまた、同時。ほんの数秒もない差。しかし、アーリィを止めるにはその差が致命的な遅れとなった。


「きゃ……」

「動くな!!」


 猛禽を思わせる脚がアーリィの細い首にかかり、そのまま押し倒すようにしてもつれ込む。仰向けに倒れた彼女を抑え込み、強圧的な声でディランが吼えた。


「撃てるなら撃てよ!ただ、死ぬ瞬間のボクの爪がどう喰い込むかは知らないけどな!」

「クロ、待って」

「……ちっ」


 直ぐに引き金に指をかけたクロスタをシリスが制する。

 ディランの言うとおりだった。アーリィの首筋に食い込む強靭な爪が、既に僅かばかり彼女の皮膚を裂いて血を滲ませている。撃つのは簡単だ。しかし、命失くす瞬間に硬直した筋肉がアーリィの命までも奪うことは目に見えていた。


「ディ、ラン」

「黙ってろ!」


 さっき声を上げて笑った人物とは思えないほど顔も声も強張っている。その口角は笑みというより、引き攣っていると言っても過言ではないだろう。


 自身を奮い立たせるための無理矢理な虚勢。


 シリスには、微かに震えるディランの様子がそんな風に見えた。


「"目に映るものだけを視よ、愚かしきその傲慢がお前たちの灯火を掻き消すまで"!」


 詠唱に伴ってディランの周りにエーテルが渦を巻き、彼の魔力と混じり合い風を起こす。肉眼で見えることはないが、その風が矛となりこちらを牽制していることは理解ができた。

 クロスタが小さく舌打ちをする。


「……戦えないってのは、嘘か」


 レッセを貫いたのも、恐らくは似たような攻撃だったのだろう。だとすれば、口篭っていたのは言い訳ではなく詠唱のためか。


「動くなよ……頼むから動かないでくれ、ボクは無駄に誰かを傷付けたいわけじゃない」

「……その割には、容赦なく先輩を攻撃したように思えたけど?」

「あれはあいつが悪いんだ!いつもみたいに面倒がって口を出さずにいたなら、ボクだってこんな事しなかった!」


 ディランが叫ぶ。震えや虚勢を見れば、彼が望んで敵対の構図を作り上げたのではない事は明らかだ。

 強く怯えを宿す瞳は、金に染まったまま。彼の持つ黒いモノはシリスにリンデンベルグを思い出させたが、ディランはヒト型ではないようだ。だからといって、今この状況が好転したわけではないのだが。


「みんなそうだ。ボクは誰も傷付けるつもりはなかったのに……!それを、それを、ヴィクターおじさんが邪魔をしたから全部おかしくなったんだ!」

「───パパが、何?」


 唐突に彼の口から出てきた父親の名前に、アーリィがぽつりと声を漏らす。


 その声にハッと我に返るディランだったが、次の瞬間には彼女へ顔を近付けて引き攣ったままの口角を更に歪ませる。


「そうだよ、全部彼が悪いんだ!ボクの願いを聞いてくれていたら、話は去年で終わったのに……!」

「なんの話……?去年?ディランの願い……?」

「全部喋れって?ははは、そうだよな。"良い子で優秀で親から愛された"アリィには、想像もできないだろうさ。


悪意の行き着く先も、ボクの劣等感も……!!」


 ディランが顔を上げる。

 歪みはついに、笑みの形を崩した。


 筆舌に尽くし難いほど妬みと嫉みと怒り、そしてどうしようもないやるせ無さにも満ち満ちた顔貌かお。初めてシリスたちの前に姿を現したときの深沈たる様はもはや跡形もない。


「翼がなんだ?みんなよりも飛べなければボクは恥晒しのままなのか?」

「ディランは凄いよ!だって、副祭司にまでなったんだから!」

「……そう言ってくれるのはアリィとおじさんだけだ。金鷲人ハーピィの中じゃ、地落ちに媚を売って得た地位に何の価値があるって言われるのさ」

「そんな酷いこと言うヒトなんて、気にしなくていいじゃない!」

「お前たちは持つ者だからそうやって言えるんだ!持たざる者がどれだけ長く苦しんだか知らないくせに!!」


 絞り出すような声。

 どれだけ力を込めた叫びだったのだろう。短い激白に関わらずディランの頬は紅潮し、少し離れた位置で動けずにいるシリスたちにまで乱れた息遣いが聞こえるほどだ。


 彼は荒い息を無理に押し込めるように大きく息を吸い、再びアーリィへと視線を落とした。


「おじさんも同じように言ってくれたよ。結局ボクの苦痛なんて何も理解してない様子でね───だから、殺した」




 地獄へ誘うように、ワントーン落とした低い声がそう告げた。




「……え?」


 アーリィが時を止める。

 その目はこれ以上ないほど見開かれ、ディランの浮かべた薄ら笑いをただ見つめていた。


「何度も言うけど、殺すつもりなんてなかったんだ。だけど、浮遊石の力を貰いたいと言っただけなのに……拒絶するから───!」

「……狙いは、浮遊石の力ってことね」

「ただの浮遊石の力じゃない。1年、溜めに溜めた力が必要なんだ。なのに、おじさんが死ぬ間際に鏡に映った所為で鏡像が沸いてね……去年は逃げざるを得なかった」


 確かめるようにシリスが呟けば、ギラギラとした瞳だけが向けられる。血走ってもいない、理性は留めたまま、それでも溢れんばかりの負が込められた輝きだった。


「死んだっていう祭司のヒトも、君が殺したの?」

「ボクじゃない、あいつも娘のために協力するって言ったんだ!それなのに、おじさんを刺した途端に"話が違う"ってビビって逃げたのはあいつの方だ」

「口封じをしたわけじゃなくて?」

「知るかよ、ボクはただあいつに言っただけさ。他の奴に話すなら絶対娘も道連れにしてやるって」


 ───悪びれなく言う彼は、果たして罪悪感など抱えていないのだろうか。

 シリスたちが聞いた話を合わせて考えるならば、去年の祭司はやはり罪悪感に耐えかねて自死したのだろうか。そこにディランからの圧力が関係なかったと言えるだろうか。


 それなのに彼は、「知るか」と一蹴出来るのか。




 がんっ、と激しい音が鳴り響く。


「シリス」

「分かってる……!」


 クロスタの硬い声がシリスの耳朶を打つ。彼の銃口は、結界に齧り付き始める鏡像の群れへ向いていた。


 とうとう、ここまで追いついてしまったのだ。もはや、出来ることといえば離脱くらいか。


「せめて鏡、割ってった方がいい?」

「解放してない。何が起こるかわからん」

「そういうことね」


 素早くディクシアを確認すると、彼はまだレッセの傷に苦戦している。応急処置といえ、特に専門的な技術を要求される治癒術は彼にも困難なのだろう。


 時間が経つにつれ、取れる選択肢の幅が狭くなる。ありありと突きつけられる現実に歯噛みするシリスの前で、アーリィが一縷の望みをディランに向けていた。


「ディラン、嘘だよね?だって、貴方はここまで飛べないでしょ?」

「そうさ。そうだよ。お前が侮るように、ボク自身じゃここまで来れない。だけど、飛べない奴のために色々考えてるって……お前たちが去年ボクに教えてくれたんじゃないか」

「あ……あ……」


 だが、現実は非常だ。

 ゲルダが言っていた、昨年盗まれた一つのの話。


 全てが繋がり、無常に断たれる望み。


「ここに来る手段が見つからなかったら、ボクだってもっと違う方法を探したかもしれない。だから……」

「やだ、ディラン……やめて……」

「───ヴィクターおじさんが死んだのは、お前の所為でもあるんだよ。アリィ!」

「いやぁぁぁああああ!!」



 絶望に満ちた絶叫が響き渡る。


 ディランの爪が、身を捩って耳を塞ぐアーリィの首に更に食い込んだ。


「ちっ……!」


 当の本人は、彼女が茫然自失して固まるとでも思っていたのか。

 もがき出すアーリィからディランが慌てて爪を離す、その瞬間が好機だった。


 あらん限りの勢いを込めて、シリスは地を蹴った。この期に及んで、ディランがどう反応してくるかなど考えてはいられなかった。

 手が届き、アーリィを引き寄せる瞬間、出方を警戒してディランを一瞥する。




 憎々しそうな、悔しそうな───悲しそうな。

 絡み、混ざり合い、濁った色。



 他人へ向ける羨望、他人から向けられる悪意。


 母なる島エンブリオスに至る前、ディランにわずかな共感を確かに感じたはずなのだ。だからこそ、シリスの胸は微かに痛みを訴える。それでも、かち合ったその瞳から無理矢理に視線を引き剥がした。


 そして、それはおそらく相手も同じ。

 僅かな迷いを振り払うように、彼はを頭上に掲げた。



「クロ……!!」


 再び背筋を走る空寒さ。

 咄嗟に友人へ援護を求める言葉が口を突く。


 間髪入れず響き渡る銃声。



 しかしその標的はディランではなく、結界の一部を噛み千切った、一体の鏡像。


「くっそ」


 噛み合わなかったタイミングに、悪態をついたのはどちらだったのか。クロスタがすぐに次弾を装填するが、間に合わない。



「ボクに……、ボクにこんな世界から飛び立てる力を!!さあ!!」



 高らかに言い放ったディランに呼応するように、爆発的に弾けた黒が世界を満たした。

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