51.泥中 -後-
何かが潰れたような鈍く、重い音がした。
「───で?」
突然のことに、誰も反応ができなかった。
この状況を巻き起こしたる本人以外は。
「それがどうかした?って話なんだけど」
静かに。ただ静かにシリスはレッセを見下ろす。
シリスの渾身の頭突きを喰らった彼女は、鼻と口を押さえながら尻餅をつき俯いている。押さえた指の隙間からは赤い雫が筋を作って滴り、白が基調の制服の胸元を徐々に染め上げていた。
、
同時にシリスの額からも一筋血が流れる。彼女は目にかかる直前のそれを無造作に拭った。
「悪いけど、あたしだっていつまでも言われっぱなしの子どものままじゃないんで」
レッセが髪の隙間からシリスを睨みあげた。小刻みに震える手を口元から引き剥がし、確かめるように視線を落とす。
掌を真っ赤に染め上げるそれを認識した瞬間、茫然としていた彼女の顔が憤怒の表情に変わった。
「こ……んの、石頭……!」
「痛いっしょ?まぁ、先輩の言葉であたしも痛かったし、これでおあいこにしてあげる」
腰に手を当ててさも恩着せがましく言えば、前が一本欠けたレッセの歯がぎりぎりと音を立てた。怒りが爆発する前だと察することはできたが、宣言通りシリスはもう言われっぱなしの子どもではないのだ。
「嫌なこと言われようが嫌な目で見られようが、余計な争いするくらいならへらへら笑っててあげる。でもそれと傷付いてないってことは同義じゃないんで」
「だったら言われないように見られないようにもっと努力しなさいよ!」
「あたしが?先輩たちみたいなヒトたちが性根叩き直す努力するべきじゃん?」
「生意気な口を……!」
「こちとらサンドバッグじゃない、れっきとしたヒトなもんで」
口を挟む隙を与えず、捲し立てる。
レッセも同様に何かを言おうとしているが、今まで彼女に圧され気味だったシリスの突然の勢いに怯んでいた。
「もしかして、殴り返されることはないって思ってた?」
「っ、ぐ」
図星のようだった。そこはシリスも理解し、反省している部分でもある。のらりくらりと交わしているだけでは、相手に自分の痛みなど到底伝わらない。無駄な争いをしたくないという気持ちだけが先行して、逆に事をややこしくしてしまった……そういう意味での反省だ。
決して物理的にやり返したことへの反省ではない。
半目で見下ろすシリスに、圧されていたレッセも負けずに声を張り上げた。
「ビッチにビッチっていうことがそんなに気に入らなかった!?そうよねぇ、浅ましさ曝け出されるなんて恥ずかしいったらありゃしないもんねぇ!?」
もはや取り繕うこともせず、言葉も選ばずに繰り出されるただの口撃。
それに対してシリスが次に返したのは、拳でも頭突きでもない。ただの、ため息だった。
「…….はぁ」
「何よ……何よ!偉そうに見下してんじゃないわよ!!ヒトに媚びて生きてるくせに!なんで堂々としてんの?意味わかんない!もっと卑屈に生きるか、好きに生きるのを諦めるかしなさいよ!!」
「あ、あの、守護者様……!」
「うるさい、劣等種が!アナタたちだって劣等種らしく、もっと大人しく相手の顔色伺って生きなさいよ!
通路に響いたレッセの叫びは、数回壁に反響して消える。
残ったのは、顔を赤く染め上げながら肩を震わせるレッセの息遣いの音だけ。アーリィはその剣幕に口を引き結び、シリスは相変わらずの目で彼女を見下ろしながら無言だった。
やがて、
「らしく、って何?」
静かな声が沈黙の通路に落とされた。
「何よ……。そのままの意味でしょうが」
「だから、その"らしく"っていうのはどういうモノ?誰が決めるの?いま先輩が言ったその定義って、先輩たちの価値観と偏見っしょ?」
突き放す冷たさでなく、穏やかでいて熱の灯る声音。今度は自分から一歩レッセに近付き、シリスは瞳にその姿を映した。
翡翠を睨め上げる、青。
くすんだ色の奥深くに浮かぶ感情は複雑で、きっと他人には知り得ないものなのだ。
「ヒトに媚びてるつもりもない。何と言われようがこれがあたし。たとえ誰かのいう"らしさ"にそぐわなくても───あたしがあたしだってことに対して、文句を言う権利なんて誰にもない」
しゃがんで目線を合わせると、レッセの顔がますます歪んだ。
風を切る音と、息を呑む音。
躊躇いなく瞳に向かって突き出されたダガーは、しかしシリスがレッセの手首をつかむことで止まる。
刃先と眼球まで僅か数センチの距離。シリスが瞬くこともなく掴んだ手に力を込めると、レッセが苦悶の声を漏らして凶器を手放した。
小さなダガーにしては、存外に重たい金属音が鳴る。
「そんな目で私を見てんじゃないわよ!このクソビッチ!」
「まだ言うのそれ……。だからあたしはクロやディクと友達なワケ。まず性別違ったらぜーんぶ色恋沙汰に直結させようとする、その価値観のアップデートでもしたらどう?」
「アナタが来なきゃこんなクソみたいな気持ちになんなかったわ!それとアナタにくっ付いてるようなクソみたいな男どもも───ぇぐ」
タチの悪い恨み節が、潰れた蛙の悲鳴に変わる。
「次はわかりやすいように言ってあげる」
掴み上げたレッセの襟元を自分の方に引き寄せ、シリスは目と鼻の先にある彼女の顔を真上から覗き込んだ。
いつの間にか再び滲んで流れた血がレッセの額に一雫、落ちる。
「あたしに関することは適度に笑って受けてあげる。でも、あたしの友達と弟を侮辱するのは絶対に赦さない……歯の1本で済ませると思わないで」
低く、静かな怒りを乗せた警告にとうとうレッセが押し黙った。表情は忌々しげに歪んでいるものの顔からは血の気が失われ、その肩を震わせるのは先ほどまでの怒りとはまた違う。
掴まれていた襟首が離されると、彼女の身体は項垂れるように前のめる。倒れ込みはしない。ただ、明らかに気力を失った様は追い詰めた本人の心を酷く波立たせた。
「───これだからヘラヘラしてる方が楽なのにさ……もー……」
怒りは炎に似ている。
燃やし続けるためにはエネルギーが必要だ。
投下される燃料が多ければ多いほど激しく燃え上がるが、その炎は一瞬のもので、劫火を保つためにはそれだけのエネルギーを要する。
返される悪意もなく、消沈した姿を見せられれば水をかけられたも同義と言って過言でない。胸の奥に燻る熱はあるものの、もはやそれは燃え上がることもできない不快さだけをダイレクトに感じさせる。
スッキリとはしないが、これでレッセが少しでも自身の言動を鑑みてくれたら良い。おそらく、そう簡単なことではないのだろうが。
シリスはアーリィを振り返る。口を開いては閉じ、何か言いたげにしていた彼女はビクリと肩を跳ねさせた。
「嫌なもの見せちゃってごめんね」
「い、いいの。でも、血が……」
恐々とした指摘に、シリスは思い出したかのように額に手を当てた。グローブ越しにざらり、とした感触。パラパラ細かな破片が鼻頭を掠めていく。
レッセの歯でもぶつけたのだろう傷は、半ば乾きかけているようだ。
相手は歯を失ったのに、つくづく己の丈夫さに笑いが漏れてしまいそうになった。
「大丈夫、それより先に───」
先に進もう。
そう言おうとした言葉は通路の奥から聞こえてきた音に掻き消された。
「───え"ぇエエえエ"ア"ぁアア"ア"アァァァ"ア!!!!」
咆哮。
びりびりと空気を震わせる音。
獣ともヒトとも似つかぬ複数の音階による不協和音。言葉として表せないこの"声"を、シリスは知っている。
「鏡像……!」
近くはない、しかし決して遠くでもない。
「アリィは先輩をお願い!何もない限りはここで待ってて!!」
「わ、わかった……!」
置いていくことに懸念は残るが、明らかに何かがあるだろう場所へ連れて行くよりは良い。
未だ鼓膜を振動させる声に向かって、シリスは迷いなく駆け出した。
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