44.羨望

 空を飛ぶ、というのは誰しもが憧れることではないだろうか?



 もとより翼のある種族はさておき、ない者たちからすれば、重力をものともせず空を自由に飛び回れることは羨望の的でもある。


 鳥のように翼を広げ、悠々と羽ばたくのはどれだけ素晴らしい経験なのだろう。


 ───と、つい先程までのシリスはそう思っていた。





「怖い、怖い、怖い、これめちゃくちゃ怖い。地に足つかないっていうのめちゃくちゃ怖い」

「じきに慣れるよ。だって、浮石車エアモーバーにだって気にせず乗れたんでしょ?」

「高度も違うし、何より生身ってのが違うじゃん!なんか安定感が……、全然不安定ではないけど、安定感が違うんだよ!!」


 シリスは冷えた背筋に身を震わせながら、アーリィの返答に声を荒げる。


 はるか眼下にルフトヘイヴンの街並みが見える。もはや街並みというよりも、浮遊島全てが見渡せるほどだ。

 新たなの関係で、目立たない場所から出立して早数分。人目を完全に避けることは出来ないが、特に絡まれることもなく概ね順調に彼女らは高度を上げていた。

 問題は高さに対する圧倒的な不慣れである。


「君、あの浮いてる足場を渡ってこれたんだろう?鏡像に対峙したときだってへりからぶら下がってたじゃないか」

「あ、あああ足場とか寄る辺がないのとでは全然違うよ!だって落ちない自信あるんだから!」



 特殊な条件ではあるが、高いところが苦手なのかもしれない……と、シリスが自覚した瞬間である。


 ディクシアは平気な顔で羽をはためかせている。飛行術を使える彼のことだ。もしかすると今いる守護者の中では1番と言って良いほど、飛ぶことに対してのポテンシャルは高いかもしれない。


「なぁに?ビッ……シリスちゃん、高いとこ嫌なのにこの世界来てるワケ?」

「まさか生身で飛ぶとか……思ってもなかったんで」


 小馬鹿にしたようにレッセが笑う。気にしたら負けだと、震える声を何とか抑えてシリスは彼女の嘲笑を流した。


「何がそんなに怖いんだか。もし仮にあのチビちゃんのがダメになっても、落ちたら落ちたでぶつかる直前に風魔術か何かで衝撃吸収すれば良いじゃない。ま、その場合は次こそ勝手に頑張ってって感じだけど」

「た……たしかに。それは……そう、ですね」


 彼女にしては、意外にも建設的な意見だ。

 高ければ高いほど落ちた場合の致死率は上がる。しかし逆を言えば地面までの激突の時間は伸びる。

 これだけ高ければ浮遊術を使えるまではいかなくても、風を起こす魔術を放つする時間さえ稼げばなんとか無事に済むだろう。


 言いたいことだけ言って、レッセは鼻歌混じりに大きく宙返りした。

 クロスタがガードしているのでディクシアになかなか近付けていないが、思った以上に飛ぶことを楽しんでいるらしい。


よく見ればクロスタも平然とした顔で飛んでいる。飛行に問題があるのはシリスだけのようだった。


「半分は過ぎたわ。もう少し昇れば目的地だよ」

「そっか、よかっ───あれ……」


 正確にはシリスとあと1人だけ、だ。

 

「ディランさん?」


 さらに高度を上げ、ルフトヘイヴンがもはや豆粒ほどの大きさにしか見えなくなった頃。

 まだ恐怖は抜けないながら、その怖さ自体に少しずつ慣れ始めたシリスは荒い呼吸を繰り返すディランに気付いた。


「はぁっ……はぁっ……」


 表情は険しく、額には玉の汗が浮かんでいる。心なしか羽ばたきも最初に比べて力ない。

 アーリィも彼の様子に気づいて慌ててディランの横に並んだ。


「ディラン、疲れた?そろそろゲルダの羽を使ったら?」

「……そう、だな。オマエ、は……先導、しろ」

「でも……」

「いいから───ほら。これで、いいだろ?」


 どこか悔しそうな顔をしながらも、息を切らせたディランが器用にベルトのボタンを押した。

 シリスたちのものよりも僅かに小さめの翼が展開され、ゆっくりと羽ばたきを始める。彼が自らの翼を休めても体は落ちることなく、アーリィはその様子を確認すると「わかった」と言って、心配そうに眉を下げながらも上空へと戻っていった。


「……くそっ……」

「辛いんですか?大丈夫です?」

「っ!」


 俯いて歯軋りしたディランが、シリスの問いにびくりと肩を振るわせる。


「……はは、見苦しいところをお見せしました。もう大丈夫です」


 呼吸は少し落ち着き、その腕はダラリと脱力していた。情けなさそうに力ない笑みを浮かべながら、ディランが頷く。


「見ての通り、ボクは金鷲人ハーピーですが翼が弱いのです」

「翼が弱い、ですか」

金鷲人ハーピーは基本的に頑強な翼を持っています。長く飛ぶための持久力も、高く飛ぶための筋力も、風をより多く受けるための大きさも、他の有翼種より優れています。ですがボクは……一般の金鷲人ハーピーよりも翼が弱く、小さい」


 ディランが示すように翼を広げた。

 言われてみれば彼の翼はアーリィよりも薄くて小さい。上腕の太さはそう変わらないようにも見えるが、おそらくポイントはそこではないのだろう。


金鷲人ハーピーならもっと高くまで飛べるはずです。ボクは翼が弱いせいでここまでが限界で。……他の有翼種だってもう少し高く飛んだ上で浮遊石を使えば、母なる島エンブリオスに行けるヒトもいる。でもボクはそのスタート地点にすら到達できない」


 ディランの金の瞳が上空を見上げる。つられてシリスも視線を上げれば、友人たちの更なる上を悠々と羽ばたくアーリィの姿が見えた。

 はるか上の天井の島。そのさらに上に位置しているだろう陽の光。


「……その点、アリィは凄い。彼女とヴィクターおじさんは誰よりも身軽に、誰よりも高く、誰よりも長く空を飛ぶことができる。血は繋がっているはずなのに、ボクは彼女の足元にも及ばない」


 眩しそうに目を細め、ディランは従妹の姿を仰ぎ見ている。

 羨望、憧憬。

 瞳に浮かぶ色の名前は明確に定義できるものではないが、シリスはその色を知っている。


「ディランさんって、副祭司長なんでしたっけ?なろうと思ってなれるものじゃないですよね」

「これでも人心掌握は得意な方なんです。無翼種のヒトの気持ちは他の有翼種より理解できるつもりですし───種族間の仲介を担っているうちに、自然とこうなったという方が正しいでしょうか」


 そう言ってディランは苦笑いをひとつ溢す。


「飛ぶことは苦手なので、祭司のくせに今まで奉納の儀レンダに選ばれることはありませんでした……情けない話ですよね。ボクがアリィくらい強い翼を持っていれば、こうやって気を遣わせることもなかったはずです」

「それでも」


 笑いを含まない声の温度に、ディランの瞳がシリスの方を向いた。


「それでも、その立場はディランさんの行動の結果で得たものじゃないですか」


 翡翠と金色が絡む。鷲のような鋭さもあるその色の中に、怯えにも似た感情が隠されている気がした。


「飛ぶのが苦手なのも、家族の中で得意なことが違うのも個性です。その個性があるからいまの立場を得られてるんでしょ?」

「……」

「アリィとは違う───ディランさんはディランさんのままでいいんじゃないでしょうか」


 自分の在り方を、否定することなんてない。


 傍から聞けば薄い言葉に聞こえるかもしれなかった。けれど、それはシリスが自分自身にいつも言い聞かせている言葉で───かつて救われた言葉でもある。


 ヒトからの偏見と自己評価では、根本的に抱えた問題は違うかもしれない。それでも、


 "他者の求める姿とは違っても、自分は自分のままでいい"


 と、認められたいのはきっと同じなのだ。


「……なんて、今日会ったばかりの奴が偉そうに言うことじゃないですけど」


 言ってしまってから取り繕っても後の祭りだった。自らの気持ちを前面に出し過ぎてしまったと、シリスは慌てて体の前で両手を振る。

 ディランは、直ぐには何も反応をしなかった。笑みで返すわけでもなく、怒るわけでもなく、ただ金の眼を大きく開いてシリスを見ていた。


「───いえ」


 やがて、


「少し気持ちが楽になったかもしれません。ありがとうございます」


 彼は薄く微笑んだ。


 嘘だ、と、シリスは思う。

 彼の瞳には未だ苦痛が宿り、その表情は曇り空を抱えている。楽になったという言葉は社交辞令か、そうでなければ彼の優しさだ。


 それでも、ほんの僅かばかりでいい。心の片隅に片鱗として残すことができたのであれば……。



 きっとそれはシリス自身の救いにもなるのではないかと、そんな狡いことを考えてしまうのだ。






「見えてきた!あれが母なる島エンブリオスだよ!」


 上空からアーリィの大声が降ってくる。

 再度見上げれば、まだまだ遠くはあるものの浮遊島の影が見えた。ルフトヘイヴンを上空から見たときの大きさを考えれば、それよりも少し小さいくらいの島だろうか。


 シリスは気を取り直し、ディランに笑顔を向けた。彼の表情の影はすでに見えない。


「あと一踏ん張り、向かいましょうか」

「ええ、そうですね」


 気合いを入れ直すと忘れかけていた恐怖が少しずつ顔を見せ始める。

 シリスはそれを振り払うかのように、母なる島エンブリオスだけを見据えて羽を大きく羽ばたかせた。

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