36.レッセという女

 階段を登ればすぐに半円状の広いホールに繋がっていた。辺りでは幾人もが見たこともない道具を抱え、忙しなく行き交っている。


「あれ、思ったより全然早く着いたのねぇ」


 後ろから聞こえてきたのは、鼻にかかったような高く甘やかな声。間延びした口調も手伝って、この場の慌ただしい様子からは一層浮いたように聞こえる。振り返ればたった今上ってきた階段脇の椅子に座る女が居た。簡素な机に頬杖を付きながら、シリスたちに向かって右手を振っている。


「最近はなかなか浮石車エモバ飛ばないし、もっとギリギリに着くと思ってたのに……。すごぉい。優秀な子たちが来た感じ?」


 左目を隠すように伸ばされた淡い栗色の前髪が、女の気怠げな様子を一層に強調する。

 シリスよりも小さく、一見すれば成人女性というよりは少女に見えなくもない身長。にもかかわらず、彼女の胸は身体に対して不釣り合いなほど豊かに存在感を放っている。その身が纏う制服は、個々で僅かな差異があるといえシリスたちが身に纏うものと同じものであることは一目でわかった。

 ならば、彼女こそが例の"クセの強い先任者"なのだろう。


 少し離れているはずなのに、声に劣らぬ甘い香りが漂ってくる。ディクシアは一瞬顔を引き攣らせたが、短く息を吐くと極めて事務的な挨拶を口にした。


「はじめまして、ディクシア・イノウィズならびにクロスタ・アルガス、シリス・シュヴァルツの3名が此度こたびの任を拝命いたしました」

「そんな堅苦しい挨拶はいいじゃない」


 先任者の女は口の端を軽く上げて椅子から立ち上がる。足先だけで跳ねる、踊るような足取りで彼女はディクシアの目と鼻の先に歩み寄った。シリスとあまり身長の変わらないディクシアだが、一般女性よりも小柄に見える女と並べばほんのりと長身に見える。


「それよりアナタ、ディクシアくん?話は聞いたことあったけど、とぉっても綺麗な顔してるのね。できれば仲良くしたいな?」

「は、話……?」


 見上げる形で女がなまめかしく指を伸ばした。鼻を突く厚い匂い。シリスの視線の先で、服の襟から覗く彼の首筋に鳥肌が一気に広がったのが見える。


「どうせすぐ終わるの仕事なんだし、もっと気楽に行きましょお?」


 丁寧にネイルが施された爪に、ディクシアの細く柔らかな髪が絡め取られ───。


「ご、ごごごごめんなさい!!」

「ほら、息しろ。息」


 瞬時に開いた距離。

 シリスがディクシアを庇うように前に出た。当の本人はクロスタに襟首を掴まれ、無遠慮に後ろに引かれて仰け反る。


「げほっ、げほ!!」

「悪い、勢いつけ過ぎた」


 息を止めていたからか、首が締まったからか。赤い顔をして咳き込むディクシアの背をクロスタがこれまた無遠慮に叩いている。これでは介抱も何もないだろう。

 そんな友人たちの様子を横目で確認しつつ、シリスは目の前の女に素早く一礼した。


「ごめんなさい、彼、色気に耐性ないんです!女のヒトにグイグイ来られると、ぶっ倒れちゃうんで……!!」


 きょとんと目を見張る女は暫く状況を把握しきれない、といった顔で固まっていたが。


「……ふはッ、あははっ!あは!もぉー、冗談に決まってるじゃない、初々しいわねぇ」


 艶っぽい表情から一転、ケラケラと笑い始めた。あまり冗談には見えない雰囲気だったが、人柄なのだろうか。

 暫く笑い声が響き、ようやく落ち着いた頃。女は片手で腹を押さえながら目尻に溜まった涙を指先で掬った。


「でも残念ねぇ、折角だからこの期間のうちに仲良くなっておきたいわ。私はと違って見境なしじゃないから、もっと警戒しないで欲しいなぁ?」


 どこか、他意のある言葉だ。


「私はレッセ・フェール。レッセでもセンパイでもいいわよぉ」


 そう言って女───レッセは再び一歩近づいた。今度はディクシアの前に出たシリスの方へ。

 近付くと一層よくわかる、鼻に皺がよりそうな甘ったるい香水のにおい。

 ぽってりとした唇が紅い孤をえがいた。


「よろしくねぇ尻軽ビッチちゃん」

「ビッ……!?」


 唐突に罵倒にも似た───むしろ罵倒以外の何物でもない呼びかけに思わずシリスは固まった。


「あ、怒っちゃった?それとも図星で困っちゃった?」


  会って間もない相手にそんなことを言われれば怒ってもいいものだが、罵った本人のレッセは全く悪びれた顔をしていない。外に広がる青空とは違う、くすんだ藍色がシリスを映してニィ、と三日月に細められた。


 単なる気さくな呼びかけだと言わんばかりの""。


 養成所を出てから久しく触れてこなかった"それ"に、心の奥でふつり、と小さな火種が灯る。


「何を言いた───」

「それも冗談か?」


 燃え広がろうと舌を伸ばした火が、静かな声に打たれて一瞬で鎮火した。


「……クロ」


 肩を引かれたシリスが後ろを見やれば、いつの間にかそこに立っていたクロスタが眉を顰めながらレッセを見下ろしている。普段気怠きだるげな鳶色には剣呑な色が仄かに灯っていた。

 彼のさらに後ろでは、ディクシアが触れられた髪をしきりに袖口で擦っていた。

 シリスよりも頭ひとつ分高いクロスタの身長は、つまりレッセにとっては殊更に威圧感を与えるほどに差がある。にも関わらず、見上げる顔は気後れすることもなく、寧ろ楽しそうに笑みを深める。


「そうよ〜。女同士ならよくある揶揄からかい文句じゃない。だからそんなにこわぁい顔しないで?」


 そんな風にうそぶきながら、シリスの顔を覗き込む瞳には愉快そうな表情しか浮かんでいない。


「気を悪くしたならごめんねぇ。私、アナタの同期の子と仲良くて。ちょっとした話を聞いたことあったから、ふざけ合いの一種だと思ってさぁ……もう言わないから、ね?」


 だから仲良くしましょ、と続けてレッセはシリスの手を取った。はたから見ると、これで仲良くしているように見えるのだろうか?


 背後からヒリつく空気を感じる。再び顔を見なくても、普段表情をあまり浮かべない顔が徐々に険しさを増していくのが目に浮かぶようだ。謝罪の形を取りながらも、謝る気のない軽薄な言動が彼の神経を逆撫でしているのは明白で。


 それでも、これ以上彼女のペースに飲まれるべきでないとシリスはひとつ大きく息を吐いた。

 クロスタの声で彼女の頭は冷えている、切り替えるのは難しくない。

肩に乗る重みを指先で叩き言外に「もういい」と伝え、シリスは無理矢理に笑顔を浮かべるとレッセの手を握り返した。


「……勿論。明日までよろしくお願いしますね、


 握る手に込められた力は、お互いにとても緩い。それこそ簡単に離れてしまうくらいに


「そんじゃ、じゃれ合うのはここまでにして、今から私たちがやらなきゃダメな流れを確認するかしらねぇ」


 明らかにヒトを不快にさせる言葉を吐いたくせして、目の前で広がる満足げな笑み。まるで反応を予測していたかのように、その態度は最初から一貫して飄々ひょうひょう太々ふてぶてしかった。

 パッと、レッセから手をほどいた。


「っても特別な事はなーんも無いのよねぇ。私たちはただ近くに控えて、進行を見守るだけ。待機場所はこっちなんだけど───」


 今まで詰めた距離がなんなのかと言わんばかりに、清々しく離れていく。鼻奥にこびりつく残り香が疎ましく、シリスはまだ素直にその背を追いかける気になれなかった。


「気にしてるのか?」


 クロスタの問い。

 シリスは小さく首を振った。


「腹立っただけ。あんなの気にしてちゃ、ディクのチクチクにも耐えられないっしょ」

「あれとは違うだろ」

「……いいよ。言ってる間に落ち着いちゃった」


 クロスタの言うとおり、本質的にレッセの罵倒とディクシアの小言は悪意の有無からして違う。だが、第三者から見れば似たようなものだ。それでも後者をシリスが許せてしまうのは、ひとえにディクシアとの付き合いの長さゆえのもの。

 その彼はようやく気が済んだのか、擦るのをやめてチリチリと乱れた髪を整え直していた。げっそり萎れた顔がなんとも痛ましい。


「相当やられてるね、あれ」

「……そうみたいだな」

「あたしよりもディクの心配したほうが良さそうだよ。触られるの、めちゃくちゃ嫌いだっはずじゃん」


 腑に落ちないと瞳で語るクロスタに向かって、シリスは本当に気にしてないと笑顔を浮かべて見せた。


「───わかった」


 釈然としない表情ながらも頷くクロスタを確認して、シリスはそこで話題を切り上げた。

 ディクシアの側へ近寄れば、未だその顔は優れない。


「ディク、大丈夫?」

「……任務期間が短くて本当に助かった。あの女性ヒトとずっと顔合わせしてるのは、僕には無理だ、本当に無理だ……」

「ねぇ〜!せっかく説明してるんだからちゃんとついてきて聞いてよねぇ!」


 既に部屋の奥まで歩を進めているレッセから催促が届く。ディクシアは一度肩をビクつかせたが、2、3度深呼吸を繰り返し落ち着きを取り戻そうとしていた。


「いけるか?」

「大丈夫、これからもこうやって色んな先達せんだちに会うんだ。最初から躓いているわけにもいかない」


 まるで自分に言い聞かせるかのような答え。

 気遣ったクロスタに向けてしっかり頷くと、ディクシアは最後に大きく息を吐いて顔を上げた。

 そうして3人はそれぞれがそれぞれささやかなわだかまりを抱えたまま、面倒くさそうに腕組みするレッセをようやく追い始めたのだった。

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