4.鏡像
怖い、怖い、怖い、怖い!
今すぐこの場から逃げ出したかった。
今まさに自分の上に覆い被さらんと上から覗き込むその姿に、それでも少年の足は動かなかった。
いや、正確には動いているのだがそれは無意味に地面を擦るばかりで、座り込んだ体はまるで後ろに下がらない。笑って使い物にならない膝で立ち上がろうとして失敗して、また足が無意味に地面を擦る、そんなことを繰り返していた。
身体が自分のものじゃないみたいだ。全身から力が抜けていて、口が開いたままそこから震える呼吸だけが漏れていく。
「はーっ……はーっ……」
落ちている小石か、レンガの亀裂で傷が付いたのだろうか?地面に付いた掌がじわじわ熱と痛みを伝えてくるが、目の前の異形から目を背けることはできなかった。
黒いモヤのような身体は大人ほどの大きさをした球体で、デタラメに幾つもの目がついている。大きさも瞳の色もバラバラだが、唯一少年を見ているという一点に関しては一致していた。不定形に見える身体に対して、左右から伸びる手は細く虫の手足のように硬そうに見える。節くれ立つ関節を持つ手の先には人間に似た指が付いており、それがゆるりと伸ばされて、使い物にならない少年の足に触れる。
鏡に触れた時のような硬質的な冷たさに、一瞬で頭が真っ白になった。
「あ、ああああ!!!!」
大きく開いた口から絶叫が迸る。
呼応するように球体の真ん中に横一本の亀裂が入り、そのまま縦にがぱり、と開いた。少年に負けず劣らず大きく開いた"口"の中に、びっしりと生えた黄色い歯が透明な粘液で光り、赤黒い舌が
「は……なれろぉおお!!」
舌が頭に触れるその直前、少年の体は強い力で後ろへ引っ張られる。その勢いのままならば間違いなく地面に叩きつけられるだろう。
思わず目を瞑る。
しかしその体は地面よりも柔らかいものに抱き止められ、覚悟した痛みは来なかった。
「ギ、えッ」
潰された小動物のような、金属の擦れ合いのような、不快な声が一瞬だけ聞こえた。声は瞬時に遠くなり、少年の耳には離れた場所で何かがぶつかる音だけが届く。足に触れていた冷たい感触も消えてしまった。代わりに感じるのは体を包む温かさだ。
何が起こったのか、自分は生きているのか、さっきの化け物は何なのか。
目を開けるのは怖かった。それでも混乱する頭が今1番に感じることが出来たのは、身を包む温かさに対してのこれ以上ない安心感。
「大丈夫?」
恐る恐る目を開けた少年の瞳に飛び込んできたのは、
思わず細めてしまった目に、柔らかく優しい微笑みが映る。身体中に安堵が広がっていくと同時に、少年の目からは止めどない涙が溢れ始めた。
大きく開いた異形の口を真横から殴り飛ばし、シリスは抱きかかえた少年が無事であることにホッと胸を撫で下ろした。
7、8歳ほどだろうか?まだ年端もいかない小さな体は、緊張からか恐怖からかとても冷たい。涙を流す顔もまだ強張っていた。
その様子を見て、シリスは安心させるように微笑む。
「大丈夫、大丈夫だよ。助けに来たから安心してね」
その言葉を聞いてようやく少しだけ強張りが解けたのか、少年の口がぎこちなく動く。
「あっ、ぼく、今っ……食べ……」
「大丈夫だからここに居てね、動いちゃダメだよ」
大丈夫、大丈夫と何度も繰り返して少年を落ち着かせる。ボロボロ泣きながら震え始める小さな体を一度強く抱きしめて、そっと離した。
少年を背にし、シリスは路地の奥へと鋭い目を向ける。
あれくらいで異形───鏡像が倒せないことくらい理解していた。
吹き飛んで路地脇の建物に叩きつけられた黒い塊が、道の上でジタバタと
縦横左右に付いた瞳が周囲を確認してぐるぐる動き、1つが自身を睨んで立つシリスに気が付くとその他の瞳も一斉にそちらを向いた。
全ての目が細められ、中央に開いた口の端が上に向かって持ち上がった。ヒトとは思えない造形をしているのに、そのパーツがヒトのそれと同じであるがゆえに理解する。
攻撃されたはずなのに、その鏡像は嗤っていたのだ。
げらげらげらげら
口から高く、低く、幾つもの声音の笑い声が響いた。まるで大勢が一斉に笑っているようだ。
思わず小さく悲鳴を上げた少年が、自分の体を抱きしめる。それが合図だった。
硬く見えていた腕が大きくしなり、力強くレンガ板の道を"蹴った"。勢いよく飛び出した体はさながら弾丸のように一気にシリスの目前まで迫る。再び大きく開けられた口が目の前の餌を噛み砕かんとする直前、赤い軌跡が刹那に閃いた。
「ギィイイぁあアア!!」
幾重にも重なる絶叫が、路地に響いた。
鏡像の突進は止まり、代わりに地面をのたうち回りながら片腕をバタバタと暴れさせる。もう片方は口の右端を押さえているが、ヒトの指に見えるその隙間から赤黒い液体がわずかな粘り気を帯びて滴っていた。目という目が驚愕に大きく見開かれていて、その全てが混乱にグルグルと回っている。
いつのまにか身の丈ほどのある赤い大剣を構えながら、シリスは叫んだ。
「ヴェル!!」
「はいよ!」
それはまさに一瞬の事だった。
シリスの後ろから飛び出したヴェルが、蒼い軌跡を描きながら鏡像の頭上へ浮かぶ。そのまま
ドッッ
鈍い音を立てて、蒼い細身の刀身が鏡像の体躯の中心を寸分違わず貫いた。
「ェ"ッ……」
蹴り飛ばされたとき同様に潰れた呻きを上げた鏡像は、一度だけ痙攣を起こすとそのまま動きを止めた。
大きく見開いたままの目から力が失われ、虚空を眺めながら色を失っていく。
「……よ、っと」
暫くの間、足の下で鏡像がもう動かないことを確認してから、ヴェルが軽い掛け声と共に剣を抜いた。
抜いた場所から僅かに飛沫が上がり彼の頬に付着する。それを気にも止めず、ヴェルは右手の剣を一振りしてレンガにさらなる赤を散らした。
ただの転がる塊となった鏡像の
みしり、みしり
亀裂の入る音。
ぱきり、ぱきり
少しずつ砕けていく音。
黒い身体が目に見えて光沢を持ち、それに伴い明らかにヒビを広げていくのがわかる。暫くそんな様子が続いた後───
ぱりんっ。
甲高い、鏡の悲鳴。
ガラスが割れたかのようなその音が鳴り響いた直後、大人ほどもあった大きさの姿は粉々に砕け散った。同時に、ヴェルの頬や道に付着した液体も同じように粉々になり、その場には塵ひとつ、何ひとつ残らなかった。
───シリスの後ろで事の成り行きを眺めていただけだった少年は、現実離れしたその光景から目を逸らせずにいた。襲ってきた黒い化け物も、自分が生きていることも、見知らぬ男女がそれをあっという間に倒してしまったことも、跡形もなく化け物が消えてしまったことも、全てが全て現実感のない夢の出来事のようだった。
「……あれ、なに……?」
唖然としたまま呟いた少年。
その後ろで、道を踏みしだく音が聞こえた。
「ヴェル、お前!急に脇道飛び込んだらお前ともはぐれるだろうが!」
まるで熊のような大柄な体躯。
誰も彼が座学を得意とする知能派だとは思うまい。そしてそれとは全く関係ないが、少年の頭の中では"新たに現れた熊のような大男"という存在が思考にトドメを刺したことだけは間違いなかった。
急速に暗くなる視界、身体にはもう少したりとも力は入らない。
「……あ!?おい、少年!少年!?」
「あっ、これグレゴリーさんが怖すぎてトドメ刺しちゃったやつ?」
最後に聞こえたのは大男の焦る声と、的のド真ん中を射た言葉だった。
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