第29話 模様を決める
彼は私の手にもう一度裁縫箱を握らせて、仕事に戻って行った。念入りに私の手を取って何度も何度も、彼は私の手に裁縫箱を押し付ける。
「僕、これで、きみが手巾を縫ってくれるのを、楽しみにしているから。糸が足りなくなったら、夫人に言うんだよ」
「ええ……あの、後ろの方が待ちかねております」
普段は私の前に姿を現さない霊の一人が、部屋の戸の前から所在なさげに霧と裾を覗かせていた。彼はため息をついてから、名残惜しげに立ち上がる。
「あーあ、早くいろんなことを片付けてきみとずーっと一緒にいたいよ」
彼はそう言って、渋々部屋を出た。私は一人で残って、また図鑑を見る。しばらくどうするかを悩んでいたけれど、彼の白い髪と肌に赤い花がいいだろう、と思えた。だから、椿を刺し始める。真っ赤な、綺麗な椿の絵を軽く手巾に描く。絹に下絵を描くのは、結婚の衣装に刺繍をしていた時以来だ。
「皇后さまは刺繍がお上手だと、貴女様が眠られている間にも皇帝陛下が仰っていたんですよ。だからみんな、皇后さまの手技を見られるのが楽しみだったんです」
「待ってください、期待を上げられると緊張するんですが……!」
緊張はしているけれど、刺繍はやっぱり好きだ。さまざまに染められた糸を指先で踊らせて、布の上に模様を浮かび上がらせるのが大好き。生前のあれこれを思い出しながら、少しずつ勝手を思い出すように針を動かし始めた。
「懐かしい……布も針も糸も、とても上等なものよね」
裁縫箱に入っていた針を使って刺繍をするのは、きっと彼がそうしてほしがっていると思ってのことだった。私の予想が正しければ、間違ってはいないだろう。
「椿に、葉と……他も何か、刺してもいいかもしれないわね。どういうのがいいかしら」
色々と気になることはあった。あったけれど、無心で針を動かしたり刺繍をどう作り上げるか考えるのが楽しかった。まっすぐに糸を何度も渡して、触り心地のいい刺繍になるように心を砕く。生前には婚礼の衣装でしか見たことがないような、鮮やかな赤い糸。少し薄い赤の糸。がくにするための何種類かの黄色に、葉や茎にするための緑。裁縫箱の中には沢山の色糸が入っていて、さらに気づけば葉夫人が色糸を追加していた。
「まあ、丁寧な仕事ですこと! これは、皇帝陛下もさぞお気に召すに違いありませんわ」
葉夫人がそう言うけれど、まだほとんど模様は出来上がっていない。下絵のない状態では、誰もこれが椿だとは思わないだろう。でも、葉夫人は私の刺繍をすでに褒めていた。
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