第27話 知らないということ

 彼は私を抱き込んだまま、突然糸が切れた人形のように倒れこんで、眠りについてしまった。私は身動きの取れないまま、ぼんやりと顔の近くに置いていた裁縫箱を見ている。

 絹の布団の上に転がっている、古びた箱。いつのものかよくわからないようなものが多いこの世界の中で、この箱だけは古びていた。それ以外は、時の流れから切り離されている――思えば彼の顔と髪の年齢さえ、一致していないのだ。鏡の中で年月が正しく積もっているのは、この箱だけではないかとさえ思うほどだった。もちろん、それは私の狭い世界の中での話なのだろうけれど。


「……静かに、眠っておられますね」


 すぅすぅと寝息を立てる彼の顔は、幸いにも悪夢に歪んではいなかった。その頬を撫でると、私と違って生きているはずなのに、ひんやりとしている。心臓の鼓動とかぬくもりといったものを彼から感じる時と、感じない時の差はわからなかった。


「あなた様は、私に、何をお望みなんでしょうか?」


 きっと彼は柔らかく笑って、私が沢山の物を受け取り彼を愛して妻となることだと言うのだろうけれど。私が彼にどうしてこうもよくしてもらっているのか、理由をわかっていないということを――彼は知っているはずなのに、意地悪だ。


「私は、名前も知らない人に、こんなに良くしてもらっていることに、罪悪感があるのに。それとも、思い出せないことが、罪なのでしょうか」


 顔も名前も思い出せない、婚約者のことも気になる。絵姿を見ていた記憶がぼんやりとあるのに、この人が婚約者になったという父や兄の声は、覚えているのに。


『—―結婚、嫌なの? 親が決めてきた相手が嫌とか?』


 突然、思い出した声があった。少し生意気そうな、少年の声が私にそう言っている記憶。私より確か、年下だった人のはずだ。窓枠に腰かけている少年が、部屋の中にいる私に話しかけている光景。閃光のように浮かんだその記憶の、少年の顔はわからなかった。髪が黒かったことだけは、確かだった気がする。


『私、私ね。ちょっと怖いけれど、楽しみなのよ』


『とんでもない男だったら、僕がぶっ飛ばしておこうか?』


 それを慌てて止めたはずだったけれど、何故かは思い出せない。私が案外乗り気だったからと、彼は少し呆れて帰っていったんだったけ。あの少年は、どうなったのだろうか。一族が滅ぼされたときに巻き込まれて、殺されていないといいな。

 —―そもそも、私が死んでから長い時間が経っている。彼も死んでいて、この世界のどこかに魂の姿でいるのかもしれない。父さんと母さんと兄さんに、会いたかった。誰か私を知る人の魂に会って、私の婚約者や今の夫である彼のことを聞きたかった。

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