第71話 異様な存在①

 エイクはアズィーダを先に歩かせ、彼女を繋ぐロープを左手に持ってその後に続いた。右手には油断なく抜き身のクレイモアを手にしている。

 湖に近づくと、先ほどと様子が違っている事が感じられた。

 生物が明らかに少ないのだ。


(あのオドの主が近くにいるからだな)

 エイクはそう考えた。エイクが気にしている未知のオドは、随分前から動きを止めている。しかも、その場所はどうやら湖の中のようだ。そして、その形は人型であるようだった。

(人型の水棲生物か? それとも、呼吸を必要としない存在か……)

 エイクは更にその存在への関心を高め、いっそう気を引き締めた。


 前を行くアズィーダは、何度か首をかしげている。彼女も様子が違う事に気付いているらしい。

 やがて森が開け湖の直ぐ近くまで来たところで、アズィーダはエイクの方に振り返って告げた。

「どうも様子がおかしい」


「おかしいとは? どういう事だ?」

 エイクは一応そう問い返す。

「生き物の気配が少なすぎる」

「そうか、確かにそんな感じはするな」


「それだけではない。どこかから見られているような気がする」

 アズィーダはそう口にした。

 エイクも同じ感覚を覚えていた。

 むしろ、優れた野伏であるエイクの方が、アズィーダよりもずっとはっきりと何者かの視線を感じている。それは、湖の中からのものだった。

 あの奇妙なオドの持ち主がこちらを探っている。エイクはそう判断していた。


 そしてエイクには、その存在が潜む場所も正確に分かっていた。

 その存在は、湖の岸から少し離れた、水深1mほどの場所の湖底に身を横たえている。薄く土を被っているようで、岸からその姿は見えない。だが、エイクのオド感知能力はそこに存在する奇妙で強力なオドを、はっきりと感知していたのである。


 少し考えてから、エイクはアズィーダに声をかける。

「俺も、何となく視線を感じる気がする。どこから見られているか、お前には分かるか?」

「多分、湖の中。

 私はこの湖でよく水浴びをしているんだが、今はどことなく様子が違う。

 今のこの湖に身を浸ける気にはなれない。何かが潜んでいるような気がするんだ。

 実際、いつもより水が濁っている場所もある」


「それはどこらへんだ?」

 エイクがそう問いかける。

「あのあたりだな」

 そう言いながらアズィーダが指差したのは、エイクがその奇妙なオドを感知していた場所の近くだった。

 エイクにとっては、とても都合の良い展開だ。

 アズィーダの感覚に従った事にすれば、自分のオド感知能力を隠したまま、行動に移る事が出来る。


「そうか、分かった」

 エイクはそう告げてから、その方向に向かって大きな声を上げた。

「隠れているのは分かっている! こちらに敵意はない。そちらにも争う気がないなら姿を見せろ」

 そのオドの持ち主が、人語を解するとは限らないが、身を隠してこちらの様子を探っているのはまず間違いない。

 自分が探っている相手が、自分の方に向かって声をかけたて来たなら、何らかの反応をするだろう。

 そう考えた上での行動だ。


 返答はなかった。

 少し間をおいてからエイクは、更に大きな声をあげた。

「いつまでも隠れてこちらを盗み見るなら、敵対行為とみなすぞ!!」


 今度は反応があった。

 ゴボゴボ、という音を立てて、その場所から泡があがる。

 そして、ザバッ、という音を上げ、それが姿を現した。

 その存在が、その場で立ち上がったのだ。


 泥が流れ落ち、その体色が黒紫色である事が分かった。形はやはり人型、大きさも確かに人間大である。だが、両腕が長すぎるように見える。髪は生えていない。遠目には目鼻は普通にあるようだ。

 そして、体中のいたるところに赤く見える部分が無数にあった。遠目には体中に傷を負っているように見える。

 更にその存在からは奇妙は音が聞こえて来る。それはまるで、多くの者が声をあげている騒めきのような音だった。

 

 その存在は、ゆらりゆらりと体を左右に揺らしながら、ゆっくりとエイク達の方に歩き始めた。

 近づくにつれて、その姿がよりはっきりと見え始める。

 そして、そのものが発する音の正体も分かった。

 それは、正しく多くの口が発する声そのものだった。傷のように見えた無数の赤い部分は、その全てが口だったのだ。歯や舌もあり、いくつかの口からはだらりと長い舌が伸びている。

 そして、それぞれの口が、何事か声を発していた。


 エイクは、その存在に鋭い視線を向け、注意深く観察した。

 予想された事ではあるが、それはエイクが全く見たことも聞いたこともないものだった。







 その時、フィントリット・ファーンソンの城の一室で、目を閉じて椅子に座っていたセフォリエナが、突然立ち上がった。その勢いに弾かれて椅子が転がる。

「なッ!」

 セフォリエナは思わずそんな声をあげていた。

 目は閉じられたままだが、その顔には明らかな驚きが浮かんでいた。

 彼女は確かに、自分が“見た”ものに驚いていた。


 セフォリエナは、ヤルミオンの森の中の広範囲を“見る”能力を有していた。

 そして、その能力を用いてエイクを監視していた。エイクが予想していたとおり、監視者はやはりいたのである。

 直前までセフォリエナは、顔をゆがめ奥歯を噛み締めて、激烈な嫌悪感に身が震えそうになるのを懸命に堪えながら、エイクの行いを見ていた。

 だが、エイクが目にしたその異様な存在の姿を認めた瞬間、驚愕し、思わず立ち上がってしまったのである。


「いかがなさいました!?」

 側に控えていたエルフの侍女が、セフォリエナの突然の行動に驚き声をかける。

「フィンに直ぐ連絡してくれ。過誤者だ。過誤者が現れた。と」

 セフォリエナは目を閉じたまま、強い口調でそう告げた。

「畏まりました」

 エルフの侍女は、そう応えると慌てて部屋を出て行った。


(侵入を許してしまっていたとは……。だが、今、気付けてまだ良かった。途中で監視を止めずにいたのが幸いした)

 セフォリエナはそう思った。

 彼女はフィントリッドからエイクを監視するように命じられていた。だが、それはエイクが女オーガとの戦いを終えるまででよいとされており、その後の事まで監視する必要はないとも言われていた。

 しかし、セフォリエナは、その後に何か起こる事も懸念して、激烈な嫌悪感に耐えながらも、その後のエイクの振る舞いも監視していたのだった。

 その結果、重大な事態が発生している事を知る事が出来たのである。


(過誤者の様子を見定めなければならない。近くに他の過誤者がいるのかどうかも)

 そう考えて、セフォリエナはいっそう“見る”ことに集中する。

 今や監視の中心はエイクではなく、彼女が“過誤者”と呼ぶ存在、即ち黒紫の肌に無数の口を持つ、その異様な存在になっていた。

 そして、セフォリエナが“見る”なか、その存在はエイクの方に向かって更に歩みを進めた。

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