第31話 秀頼 日向に現る

空想時代小説

今までのあらすじ 

 天下が治まり、日の本は諸大名の元、安寧の世の中になると思われた。

 朝廷より武家監察取締役に任じられた秀頼は真田大助と上田で知り合った僧兵の義慶それに影の存在である草の者の太一と元山賊の春馬を伴って諸国巡見の旅にでた。越後からいっしょだったお糸は琉球で火事にあい、亡くなってしまった。徳川家光は後継ぎとして駿府にもどって、先日本多忠刻が亡くなり、徳川家再興となった。


 秋が深まったころ、秀頼らは高千穂にいた。神話の里であり、風光明媚な景色は見応えがある。だが、人々の表情は暗い。2年続けて日照りにあい、飢饉が続いているのである。飢饉だというのに延岡藩はあいもかわらず年貢の徴収にやってきて、前年どおりの量をもっていく。飢饉で不作だというのにである。

 秀頼は、収穫量に応じた年貢を取り立てるように、番所に訴えたが、取り合ってもらえなかった。上の指示でやっているというだけである。秀頼は藩主に直談判せねばと延岡城に足を向けた。

 途中、国見村というところにやってきたら、村人は一人としていなかった。家はそのままである。山賊におそわれた形跡もない。

「村を捨てたのですな。それも最近のことのようです」

 と大助が言う。たしかにそんな感じである。

「村を捨てて、どこへ行ったのだろうか?」

 と秀頼が聞くがだれもわからない。このことも藩主の有馬直純に言わねばと思った。

 

 延岡に着くと、早速、藩主に会いたいという文を大助に託した。しかし、藩からは「しばし待っていただきたい」

 という返事がきたが、呼び出しがこないまま数日が過ぎた。

「延岡藩で何か問題が起きているのでしょうか」

 と大助が言うと、

「うむ、我々が来ると都合が悪いのでしょうか」

 と義慶がつづく。そこで秀頼が

「大助、太一にさぐるように伝えてくれぬか」

「わかり申した」

 ということで、太一が延岡城にさぐりに入った。


 翌朝、太一がやってきた。

「城内は混乱しております。各地の村で民百姓が離村しており、その対応で大変のようです」

「やはりな。これではいつまでたってもお呼びはこないな。こちらから出向くか」

 と判断し、その日のうちに延岡城の門をたたいた。しばらくして、目付の者が客間に案内してくれた。その目付が

「急に来られるとは思っておりませんでした。いかがされましたか?」

「前に訪問したいという文を出したのだが、さっぱりお呼びがかからないので、出向いた次第」

 と応えると、

「そうでござったか。ご家老は多忙で余裕がなかったのでしょう」

「そんなに多忙なのか? 離村者のことかな」

「ご存じでしたか? 我々もまいっております。もうじきご家老がくると思いますので、しばしお待ちください」

 と言われて客間で待ったが一刻(2時間)ほどたって、やっと憔悴しきった家老の森山五郎左がやってきた。

「秀頼公、お待たせ申した。まことにもうしわけない」

「なかなか大変でござるな。高千穂から延岡までくる間に、一人もいない村を見たがあれはどういうことかな?」

「見られましたか? 今、そういう村が増えて、その対処であたふたしております。今日もそのことで殿からお叱りを受けたところです」

「それで、藩としてはどうするのですか?」

「今は、逃げ出した民百姓を見つけ、村にもどすことをやっております」

「それで見つかったのですか?」

「何人かは見つけました。しかし、ほとんどは山へ隠れたり、他国へ行ってしまいました」

「でしょうな。年貢を免除するとでもいわないともどってこないでしょう」

「年貢の免除をしたら、藩の財政が破綻します」

「今のままでも破綻するのは目に見えているのでは・・・それよりは人を集めて、豊作になったら歩合制で年貢を徴収することにすればいいのでは・・?」

「歩合制にすると、収穫量をごまかす輩がでてきます。よって、定量の年貢の方が取りやすいのです」

「それはわかるが、今の飢饉の時のように収穫量が少ない時に定量で年貢を徴収したら民百姓は食っていけんではないか」

「歩合制でごまかす輩をなくすにはどうしたらよいですか?」

「それは見本の田畑を作ればいいのじゃ。標準の収穫量を決めて、その年の収穫量がどの程度なのかを見定める。そこで8割の収穫量であれば、年貢も8割にすればいいのだ。地域差があるならば、地域ごとに見本の田畑を作ればいいだけのこと。それぐらいのことは直轄地でできるであろう」

「たしかにそうでござるな。では、今、村を離れた者たちを戻すいい策はございませぬか」

「そうだな。離村は罪として問わない。5年間は年貢を免除する。とでも言えば、自然とかえってくるであろう。他国へいっても食うに困るのは同じ。それよりは年貢免除の自分の土地にもどってこれるならば、そちらを選ぶはずでござる」

「でしょうな。それでは早速、殿に具申して、そのように高札をたてまする。今日は城に泊まっていってくだされ」

 と、来た時とは大きな違いの態度であった。


 翌日、城主有馬直純(36才)と会うことができた。父有馬晴信は島原領主だった時に、ローマ教皇に領地を寄進しようとした大名である。それで家康の怒りをかい、キリシタンは禁教になり、有馬藩は延岡に移封されたのである。領地は5万石なので、先日の諸侯会議には参加していない。直純は家康の側近として駿府にいたことがあるくらい旧徳川家臣であるが、九州探題加藤清正に逡巡したので、そのまま延岡藩を任されている。しかし、今後も離村者が増えれば、また移封もしくは改易となるやもしれぬ。ちなみに直純はミゲルというクリスチャンであった。家康の禁教令で一度は捨てたが、九州探題の加藤忠之がキリシタンを認めたのでもどりたいと思っている。しかし、大名のキリシタンは認められていないので、いわば隠れキリシタン大名である。

「秀頼公、今回はいい策を授けていただき、ありがとうございます。わが家臣のいたらぬところ、まことに恥ずかしいかぎりでござる」

「直純殿、家臣のせいにするのは感心せんな。治世の責任はすべて領主がおうべきもの。家臣をうまく導くのが領主の仕事。うまくいかない時は、家臣を励ますのが領主のつとめではないか。われが見てきた領主の方々はそうであったぞ。直純殿にもそうであってほしい。家臣を叱るだけが領主ではないはずだぞ」

「分かり申した。今後は家臣への対応を改めたいと存じる」


 秀頼の日向滞在は春まで続いた。離村した民百姓がもどってくるのを見届けたからである。年貢免除で減った年貢のかわりに、有馬藩では地域振興策で高千穂峡の整備を始めた。旅籠を作ったり、峡谷を遊覧する船を浮かべたりした。今までは神様の地だということで、不入の地であったがそれを公開したのだ。今でいう観光政策である。高千穂は信仰のおかげもあって、大いににぎわったということである。

 

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