第29話 秀頼 鹿児島から京都へ

空想時代小説

今までのあらすじ 

 天下が治まり、日の本は諸大名の元、安寧の世の中になると思われた。

 朝廷より武家監察取締役に任じられた秀頼は真田大助と上田で知り合った僧兵の義慶それに影の存在である草の者の太一と元山賊の春馬を伴って諸国巡見の旅にでた。越後からは身請けをしたお糸もいっしょで、駿府からは徳川家光も同行している。


 琉球王国からの書簡をもった秀頼は、鹿児島へ向かった。

 船の上で新年を迎えた。海の上で見る初日の出はいつもと違う感がした。地球の丸さを感じることができる。もっとも陸地が見えるところを進むので全周丸いのを見ることはほとんどない。一度は大海原に出てみたいと思う秀頼であった。

 秀頼29才、大助22才、家光18才、義慶24才、春馬27才、太一21才、お糸17才の新春である。秀頼にとっては5年目の諸国巡りが始まる。

 琉球から3日で鹿児島へ着いた。着くと、早速島津家久に会うことができた。というかすぐに会いたいという申し出があったからである。

「秀頼公、明日の船で京都へ向かいます。いっしょに行きましょう」

「京都へ? どうして?」

「諸侯会議が7日後に行われます」

「諸侯会議? どなたが召集をかけたのですか?」

 駿府で日の本の分割統治を決めた時に、全国に関係することが発生した場合は、二人以上の探題が提案することで、諸侯会議を行うことができると定めていた。5年目で初めての諸侯会議である。

「政宗公と治房公の声がけです。どうやら本多家の後継ぎ問題のようです。全国に秀頼公の捜索が命じられ、秀頼公を連れてくるようにとのことです」

「本多家に何かあったのか?」

「それが・・千姫さまのお子が亡くなったそうです」

「姉千姫の子がなくなった! なんとも痛ましい」

 と家光が嗚咽をもらしていた。秀頼とて、形だけとはいえかつての妻である。かわいい千姫を知っているだけに、あわれに感じた。


 3日後に大坂・堺の港についた。大坂城には寄らずにまっすぐ京都へ向かう。大坂は最終地点と考えている。緊急事態とはいえ、大坂城に入るわけにはいかない。ここで母に会えば、諸国巡見の旅を止められるやもしれぬのだ。

 4日目に京都に入った。諸侯会議が行われる二条城に部屋があてがわれた。家光と同じ部屋ではなく、脇に武者どころの隠し部屋がある大名の部屋である。家光らは別の部屋をあてがわれている。お糸は女中頭の部屋になった。さすがにお城で大助と同室にはならなかった。

 5日目は朝廷へのあいさつである。京都守護職の細川忠利とともに参内した。こういう固ぐるしいのは苦手であるが、無事役目を果たした。その際、ポルトガルが交易を求めていることを伝え、九州と琉球内だけで認めるという宣旨を受けた。これで諸侯を納得させる手立てができた。

 6日目、諸侯会議を明日に控えて、召集をかけた政宗(56才)と治房(52才)が二条城にやってきた。政宗が声を発する。

「お久しうござる。息災のご様子、安心申した」

「こちらこそ、政宗公こそますますご壮健のようす。衰えを感じませぬな」

「いまは松島の瑞巌寺におります。すでに隠居の身でござるよ」

「そのわりには、奥羽の見回りにいそしんでおられるようですな」

「少しは秀頼公を見習いませんとな。ですが、この独眼竜は目立ってしょうがありませぬ」

「はっは、皆をびびらせてしまうな。ところで、今回の諸侯会議、本多家の後継ぎ問題と聞いたが、どういうことかな?」

「そのことでござるが、先年本多忠政殿が亡くなり、本多忠刻(ただとき)殿が後を継がれました。しかし、先日奥方千姫さまが産んだお子が病で亡くなりました。忠刻殿には他にお子はおりませぬ。そのお子が亡くなった後、千姫さまとともに忠刻殿も体調を崩し、今は伏せっております。どうやら肺病のようです」

「それはいかんの。それで後継ぎ問題か」

「それで忠刻殿が生存中に後継ぎを決めておきたいという申し出が本多家から治房公に参りました。その候補者が問題だったのです」

「だれじゃ?」

「家光殿です」

 その名を聞いて、秀頼は絶句してしまった。いっしょに旅をした家光のことはよくわかっている。家光に駿河一国を任せることは決してやぶさかではない。しかし、徳川宗家の後継ぎでもある。他の徳川方の武将が家光をたてて、また争乱が始まるのではないかとも危惧される。ここは迷いどころだ。

「わかった。明日までに考えさせてくれ。われの考えをまとめておく。ただ、諸侯会議は皆の決議による。われ一人の考えでは決められぬことだな」

「そうでござる。ただし、諸侯会議の話が割れた時は秀頼公のお考えで決まりまする。よくよくお考えのほどを」

 と言い残して、政宗と治房は去っていった。

 秀頼は大助を呼んだ。家光を呼ぶわけにはいかない。そこで二人で意見を言い合ってその夜が終わった。

 翌朝、秀頼はまだ悩んでいた。できれば諸侯会議で決めてくれればと思っていたぐらいである。自分の判断で決めることはすごく重かった。

 昼過ぎから二条城大広間にて諸侯会議が始まった。10万石以上の大名が集められ、その数30名ほど。旧徳川家勢力は本多家ら5大名が召集対象だが、今回は本多家は病で伏せっているということで参加していない。

 首座には秀頼が座り、その脇には探題である政宗、上杉、前田、真田、大野兄弟、加藤、長宗我部、毛利の各探題そして京都守護の細川が座っている。

 口出しは政宗である。儀礼的なあいさつの後、本題に入った。

「諸侯に問う。本多家から申し出のあった後継ぎの養子縁組に徳川家光殿の名があがった。これを認めるや否や、皆の意見を聞きたい。その上で、上座に座っている者たちの入れ札で決する。それが同数の場合は、武家監察取締役殿の決定に委ねる。それでよいか」

 の政宗の言葉に異論はでなかった。

 初めに、話を始めたのは佐竹義宣(53才)である。

「拙者は、反対でござる。家光殿は徳川宗家の跡取り。本来ならば神職として家康公の御霊を弔うべき方。いくら本多家が後継ぎを亡くしたとはいえ、格上の家から養子をもらうことはあってはならぬこと。実家の力が強くなりもうそう」

 続いたのが、福島正則(62才)である。体はだいぶ弱っている。岡山から籠でやってきたとのこと。

「拙者も反対でござる。家光殿は信長公なみのわんぱく大将で、東照宮を何度も抜け出し、近在のわるガキどもとつるんでいたとのこと。そういう者が、本多家を継いではまたもや争乱の種になりかねん」

 旧徳川家勢力の一角が反対の声明をだしたことで、皆が注目した。そこに黒田忠之(19才)が発言を申し出た。

「若輩者の拙者が申すのは、はなはだ恐縮でござるが、家光殿は拙者とほぼ同年代で、以前わが藩の騒動があった際に、秀頼公とともにお世話になり申した。その時に感じた家光殿の印象は清廉な若武者でござった。決してわんぱく大将ではなかった」

 島津家久(46才)も続けて言う。

「拙者も家光殿を知っておる。なかなかの好青年である。家光殿ならば一国を任せてもいいと拙者は思う」

 と、賛成・反対の意見が双方同じくらい出されていった。ひととおり大名の発言が尽きると、政宗が

「探題の中でどうしても発言されたい方はおられるか?」

 と聞くと、毛利輝元(70才)が申し出る。今回の諸侯会議の最長老である。病をおしてやってきたとのこと。

「ゴホッ、ゴホ。申しわけぬ。体を壊しておってな。さて、家光殿のことであるが、昨年、わが領内で不穏なことが起き、秀頼公らには迷惑をかけた。その時の家光殿の助力ぶりには頭が下がる思い。人間的にはわしが保証しても構わぬ」

 との声に、長宗我部盛親(57才)が声をあげた。

「人間的にはよくても、周りの旧徳川家臣がだまっておらん。本多家だけでなく、各地に旧徳川家臣が散らばっておる。その者たちが家光殿をかつぎあげて争乱を起こす可能性はあるのでは・・?」

 うなずく者が多かった。

 政宗が

「意見の出し合いは尽きたと思うが、いかがか?」

 ということで、10人の入れ札となった。結果は5対5の同数であった。諸侯会議の話し合いどおりの結果となった。政宗が続ける。

「同数となり申した。これで秀頼公の判断をお願いしたい」

 一同が姿勢をただし、秀頼に視線を向けた。5年前の駿府の際の秀頼の姿とは別人と思うほどのたくましさを感じさせるものだった。

「われは、この2年。家光殿とともに諸国を旅した。最初はただのわんぱく小僧であったが、旅をするとともに民百姓の生活を見たり触れたりして、しだいに情がわかる人間になってきたと思う。島原でのキリシタンのことで、一番心を痛めていたのは家光殿であった。祖父家康公がだした禁教令の廃止を訴えてきたのも家光殿である。また諸国をめぐって旧徳川家臣の者たちとも話すことがあった。斬りあいもしたことはあったが、それぞれに自分たちの生きる場を作っている。そして皆願っているのは日の本の平穏である。今の日の本に不満があれば、徒党を組んではむかってくる者もいると思うが、皆の土地でそういう者がいるか。いるならばさっそくわれが出向きたいと思うぞ」

 政宗が秀頼にさらに問うた。

「それでは、家光殿の婿養子入りに賛成でござるか」

「うむ、そのことだがわれは徳川家再興でもよいと思っておる」

 その言葉に一同は声をあげた。政宗はそれを制し、

「今の秀頼公の提案に反対の者はおるか」

 だれも応えなかった。下手に本多家の名を継ぐよりは、徳川の名を残した方が秀頼公の器量の大きさが際立つからである。

 その後、ポルトガルとの交易が九州・琉球でされることも諸侯の同意を得た。しかし、異国の軍船の動きには注意を怠らないということで確認をしたのである。

 数日後、朝廷にあいさつをして、島津家久とともに鹿児島へもどった。港での別れでは家光の号泣であった。家光の涙に秀頼らもうるっとしてしまった。だが、一国の大名となり、民百姓や家臣を思いやることが家光のこれからの仕事である。この2年間の体験は無駄ではないと確信している秀頼であった。



 

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