10-2.今日は色々あって、死にかけなんです
カウンターに座った男――冒険者ギルドのギルド長――に向かって、酒場のマダムはランフウと呼びかける。
だが、彼女の視線は、ランフウの後に続いて入ってきた影のような男の行方を追っていた。
影はマダムに向かって軽く頷くと、照明の届かない隅のテーブル席に落ち着く。
影と闇が同化して、男の気配がすっと消えた。
他に客がいない店内は薄暗く、とても静かだった。
「相変わらずコクランは性格が悪いですね」
陽の当たる世界では『ルース』と名乗っている男ランフウは、皮肉めいた笑みを口元に浮かべた。
「コクランだったら、ひとめ見てわかるでしょう? 今日は色々あって、死にかけなんです」
例えるなら、棺桶に片足を入れてる状態だろうか。
「今なら、受付嬢の平手打ちで間違いなく死ねますね。それくらいしか、わたしには生命力が残っていません」
「まあ……確かに、死にかけているようだけど、だからといって、簡単に死なれては困るわ」
「わかっていますよ。だから、ヤマセを連れているんです。護衛なしで夜の街を出歩くこともできないんですよ……」
自分の鼻先に突きつけられた銀の煙管を鬱陶しそうに手で払い除けながら、ランフウは苦々しく言葉を重ねる。
「もぅ……ランフウは相変わらず、自分の身体に鞭打つのが好きね」
「好きではありませんが……こう、痛みが続くと、なんというか。そろそろ、別の世界への扉が開きそうですねぇ」
ふっと、虚ろな目をして、ランフウは遠くを見つめる。
本人は意識していないのだろうが、無駄に妖しく、蠱惑的だ。
「やめてよね。ランフウが言うと、冗談にならないから」
コクランは火のついていない煙管をゆらゆらと左右に揺らしながら、艶っぽい仕草でランフウを睨みつける。
「今日は色々と面白いことがあったみたいねぇ……」
「全然、面白くないです。そもそも、ノゾキとは、いつもながらコクランは悪趣味ですよね」
笑いを含んだ揶揄うようなコクランの口調に、ランフウの顔がみるまに険しくなる。
「あたしって好奇心旺盛なオンナなの。安心して。見つからないようにこっそりとやるし、ランフウの邪魔はしないわよ」
「見つからないようにこっそりとやられるから、安心できないんですよ」
「大丈夫。ギルド長室は覗いていないから。ランフウのプライバシーは、一応、護られているわよ」
「一応って……。とにかく、五階は絶対にダメです。一階で妥協してください。一階以外の場所で、コクランの精霊を見つけたら、即刻、潰しますから」
「すぐに力で解決しようとするのは、悪い癖よね」
コクランは妖艶な笑みを口元ににじませ、冒険者ギルドの長を演じている『影』を見つめる。
「コクラン勘違いしていませんか? わたしは、相手によって柔軟に対応を変えているだけです」
立ち入りを禁止したとしても、コクランは遠慮なく侵入するだろう。
彼女には、遠慮という概念がない。
そのうえ残念なことに、コクランの使役する精霊の方が、冒険者ギルドの結界防御よりもしたたかだ。
簡単にすり抜けられてしまう。
それならば、立ち入り可能な場所を教え込み、そこで満足してもらうしかない。
世の中を上手く渡っていくには、妥協も大事だ。
いくらか投げやりな口調で会話をしながら、ランフウは懐から紙片を取り出し、カウンターの上に置いた。
「冒険者ギルドからの請求書と、こちらは回復薬の発注書になります。回復薬の方は、在庫がなくなりましたので、急いで処理してください」
「ちょっと、ランフウ。もう回復薬の発注なの? 先週、納品したわよね? あれはどうなったの? しかも、この数量! 回復薬の消費ペースがあがってない?」
コクランは渡された書類に目を通しながら、驚きの声をあげる。
先程までの妖しい艶っぽさはきれいさっぱり消え去り、部下を心配する上司の冴えた顔になっていた。
今まで黙ってふたりの会話を聞いていたリョクランが、慌ててカウンターからぐいと、身を乗り出す。
リョクランは反射的に仰け反るランフウの肩を掴むと、自分の方へとランフウを引き寄せた。
渋い顔をしているランフウの首元に顔を近づけ、そこに己の鼻筋をあてる。
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