9-16.ひとりにしないで!

 そこそこの値段のものを使用したのだが、精神リラックスの効果があるハーブからエキスを抽出した入浴剤……もたいして役にはたたなかった。


「これから……どうしよう……」


 肩ではなく、口元まですっぽりと浸かりながら考える。

 しかし、漫然と湯に浸かっていても、フィリアが納得する考えに至るはずがない。


 このままずるずる、ぶくぶくと湯の中に居続けるわけにもいかない。

 そろそろ風呂からでないと、いいかげんのぼせてしまう……と思い始めた頃、いきなり浴室の扉が開いた。


「フィリアァァァァ……ッ」

「うわぁぁぁぁ……っ!」


 涙でぐしょぐしょになったエルトが、ものすごい勢いで浴室に飛び込んでくる。


 今まで気配を全く感じることがなかったので、フィリアは不覚にも大声をあげて驚いてしまった。

 はずみで、湯がばしゃばしゃと跳ね返る。


「フィリアァァァァ……ッ」

「ちょ、ちょっと待った。エルト、ストップ。服が濡れちゃうよ!」


 湯船の中に飛び込もうとするエルトを、フィリアが慌て立ち上がって抱きしめる。


 エルトは「フィリア、フィリア」と言いながら、フィリアの胸の中で泣きじゃくる。


「ど、どうしたの? エルト? なにか、怖い夢でも見たの?」

「うん。すごく……怖い夢をみたのに……フィリアがいなかった……」


 フィリアの胸の中に顔を埋めながら、エルトはワァワァと大きな声で泣きつづける。


「あ、ごめん……」

「ボクを……ひとりにしないで!」

「ごめんよ」


 エルトの怯えが伝わってくる。ものすごく震えている。

 目を覚ましたら知らない場所で、ひとりっきりで眠っていたら、びっくりもするだろう。

 すがりつくような真剣な目で見上げられ、フィリアの心が罪悪感でいっぱいになる。


「驚かせてごめんね。服が濡れちゃったよね。着替えは持ってる?」

「うん。持ってるよ。ボク、フィリアと一緒に、お風呂に入りたい」


 涙でウルウル、キラキラしている黒い瞳が、フィリアをじっと見つめていた。

 不意に『プランB』という単語がフィリアの脳裏に浮かぶ。


「……そうだよね。エルトごめんね。ぼくだけがお風呂に入っちゃって。わかった。お風呂を使っていいよ」

「フィリアと一緒にお風呂に入る」

「え? …………あ、うん。わかったよ。一緒に入ろうね」


 エルトの顔に、嬉しそうな笑みが浮かぶ。泣き止んでくれたのなら、よしとしよう。フィリアはそっと胸を撫で下ろす。


 風呂に入ると決めたら、エルトの行動はとても早かった。


 服を勢いよく脱ぎ散らかし、あっという間に裸になる。


 ……まあ、子どもだし。

 男同士だし、恥ずかしがる必要もないから思い切りがよい。


 少女の格好をしていたので、実は女の子だったらどうしよう……というフィリアの心配も杞憂に終わった。

 間違いなく、エルトは男の子だった。


 フィリアはお気に入りの石鹸をしっかり泡立てて、エルトの身体と髪を洗ってやる。


 エルトはくすぐったいと笑いながらも、「フィリアの匂いと同じだ」と言って、とても喜んでいた。

 ついさっきまで、泣いていたとは思えない。

 ちょっと、なにかがひっかかったが、泣き止んでくれたのなら、よしとしよう。


 身体を洗い終えて、エルトを湯船に入れると、「フィリアも一緒に入ろう」と言われた。


 そろそろのぼせて限界を感じていたフィリアは、なんとか言葉を並べてひとりで入ってもらおうとしたのだが、エルトはなかなか頑固で、うんと頷いてくれない。


 このまま言い争いをつづけて、エルトを湯冷めさせるのもよくないだろう。仕方なく、フィリアが折れる。


 風呂では水鉄砲をして遊んだり、シャボン玉を作って飛ばしてみせたりしたら、エルトはとても喜んでくれ……いつもよりもとてもとても長い入浴タイムとなったのである。


「すごいや。お風呂って、とっても楽しい遊びがたくさんあるなんて、ボク、知らなかったよ! これは、みんなに教えてあげないと!」

「そうだね。ぼくも、エルトがこんなにお風呂が大好きだなんて知らなかったよ……」


 今まで過酷な依頼をこなしてきたフィリアであったが、かつてないほどの長時間の入浴に、あっさりと敗北してしまう。

 汗と一緒に体力、気力が流れ出てしまったようだ。


 途中でこまめに水分補給をすればよかったのだが、エルトの相手で失念したのも敗因だ。


 このまま永遠と続くのではないかと思われた地獄の入浴を「また次の機会に遊ぼうね」という常套文句で、フィリアはなんとかきりあげる。


 熱々の濡れた体と髪を魔法で乾かし、エルトの身なりを整え終えた段階で、フィリアは気力を使い果たしてしまった。

 そのまま自分のベッドへと倒れ込む。


 足がもつれて倒れ込んだ先がベッドだったのは、奇跡としかいいようがない。

 狭い部屋のメリットがいかんなく発揮された瞬間だ。


 なにやら隣でもぞもぞと小さな気配が動き、温かなモノがぴたりとくっついてきた……ような気もしたが、朦朧としている意識では追い払うこともできない。


 成り行きでお持ち帰りしてしまったエルトを保護者の元に送り返さなければならないのに……と思いつつも、フィリアの意識はそこでぷつりと途切れてしまった。

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