3.儀式
東に高峰が連なるクレアルの朝は遅い。
翌日、四人は山の影が引くのを待たず出発した。
霜の降りた斜面を、息を白ませながら登る。緑はほどなく絶え、彩りに欠ける岩と砂礫の景色になった。日陰には残雪も見えるようになった。日が昇るにつれ、陽光に抗うように視界を白が塗り潰してゆく。
やがて、行く手は高い崖に阻まれた。雪と氷に覆われた岩肌の前で、先頭を登っていたボウマンが振り返った。
「洞窟はこの崖の上です。ですがここは登れません。北に回れば越えられます」
遠目の利くアーチャーのハルが額に手を当てるが、目の届く範囲に登れるような場所は見当たらない。
「マジかよ。だりぃなァ……」
しかしその後ろで、リリィとシールが目配せしている。
「その必要はないわ」
「どうするんです?」
シールが進み出る。
「みんなあつまって!しっかり肩をくんで!」
「その手があったか」、気付いたハルがニヤリと口元を吊り上げた。
「鳥になれるぜ、ボウマン」
「どういうことです?」
「まあまあ」
自分よりずっと高い位置にあるボウマンの首にハルが腕を回す。
「よし、シール!」
「うん!エンブリーズ!」
「うわあああっ!」
ボウマンが声を上げる。頭の血が足先に降りる、体験したことのない感覚。引きずり下ろされたはらわたが今後は逆に浮き上がったかと思うと……
「あっ、ああ……と、飛んだ?空を……!?」
「ふふ、すげぇだろ?」
「し、シールさん……」
狼狽するボウマンを見上げ、シールは得意げに腕を広げる。
「風のまほうだよ!でもみんなにはないしょにしてね」
その時、遠くで雷鳴が轟いた。
ボウマンが西の空を仰ぐ。気付けば黒雲が空の半分を覆っていた。麓から吹き上げる風が、昨日とはうって変わって生暖かい。
「天気が崩れそうですね。目的地はもうすぐです。急ぎましょう」
※
「ウソだろ……」
ハルはしばし立ちすくみ、それから膝を折った。
彼女は氷塊に取り付く。慈しむようになでるが、毛皮の手袋に包まれた肌に伝わるのは、冷たく、固い感触だけだ。
「リュインです」
感情を押し殺したボウマンの声。シールが両手を口に当てる。ロッドを突いて立つリリィも、厳しい視線を氷の中の姿に落とす。
そこはまだ、日の光が届く場所だった。
天井の穴から流れ込んだ氷の川で、洞窟は行き止まりになっていた。
そしてその川の中に……リュインはいた。
狩猟服姿の彼女は、腰の位置で体を折り、横倒しになって眠っていた。
帽子がずれ、後ろでくくった髪が時を止めたように氷の中で舞っていた。このあたりには多い黒髪だ。左手に握った弓は、女性が扱うには大型だった。腕っ節自慢だったに違いない。背にも矢籠を背負ったまま。通った鼻筋、整った顔立ちは、「美しい」と形容するボウマンの言葉が誇張でないことを物語っていた。
雨の降りだす音が聞こえた。雷鳴も近付き、忙しなく大気を震わす。
「ご安心ください。洞穴は出口に向け下っています。中に雨は入って来ません」
それは暗黙の催促のようにも聞こえた。リリィが言葉を継ぐ。
「始めましょう。ハル、ゴザを敷いて。シールとボウマンは香と薬草、石とたいまつの準備を」
「うん」
シールは応え、ヤクトで仕入れた呪術の道具を背負い袋から取り出したが、ボウマンは立ちすくんでいた。彼の目は、氷の中の姿に落ちたままだった。
「彼女は……」
その問いに答えるに替え、リリィはロッドを頭上に振り上げた。
「な、何を……!」
彼の制止も待たず、リリィは氷塊にロッドの先端を叩き付けた。洞窟内に反響する打撃音。シールが体をびくつかせる。
「あっ……」
そしてその一打は、リュインを包む氷を、川の先端から切り離した。ゴトッ……氷塊は、石像のようにボウマンの足元に転がった。
「ここから先はたいまつの火で溶かすわ。ハル、手伝って」
リリィが指示する。常人とは思えぬ腕力に茫然としていたボウマンが我に返る。ハルが氷塊の足元の方を持つ仕草をすると、彼も頭の側に回った。
……………
※
暗がりに身を隠していた洞窟の岩肌を、稲光が炙り出す。刹那、耳をつんざく轟音。シールが身を縮こませる。
「クレアルではこの季節、よく雷が鳴ります。雪ではなく、雨を連れてくる雷は、春の訪れを告げると言われています」
一聞して穏やかなボウマンの言葉。だがその声色はこわばっていた。
もし自分が何もしなければ―――
彼女の姿は変わらないだろう。永遠に、若く美しい時のまま。
だが、自分は
彼女の体は腐り落ちる。腐臭を発しながら、目を背けたくなるような醜い姿になり、やがて白骨となる。それは彼女に『本当の死』をもたらす。そして同時に、自分の希望の炎も潰える。
取り囲むたいまつに炙られ、衣服にはり付いた氷はわずかになっていた。リリィは、現れたリュインにボウマンが何度も触れるのに気付いていた。だがその仕草は、彼の表情を緩めなかった。氷から目覚めた体は、剥製ように固いままだった。彼とハルは何度も布で水気を吸い、絞って入口の方に流した。
「そろそろかしらね」
リリィが四つの香炉を順に回った。中の灰には鉱石を混ぜ、香には薬草を振りかけていた。その香に点火する。さまざまな匂いが入り混じり、狭い空間に満ちてゆく。
リリィが上着と手袋を脱いだ。純白の民族衣装が薄闇にあらわになる。彼女は眠り続ける
「ンガ ミン リルズエスバーハ……
(我が名はリルズエスバーハ)
ンガ ディーソン クロミアルカ スボー クー ミント……
(古の契約に従い、死せる者の魂を使役する権利を得し者の末裔なり)」
ボウマンにも、ハルにもシールにも解らぬ。それは『古グル語』。太古の昔、人と魔物は同じ言葉を話していた。その時の言葉。
長い呪文を、彼女はよどみなく
雷鳴が激しさを増す。目を閉じ、指を組んで祈りを捧げるシールとハルのまぶたを閃光が貫く。詠唱の声が次第に大きくなる。
「リル エンシール ニム ロコン
(汝が命を
オム マエストラル リインカント サンタス ンガ マテルレ……
(反死の風に乗り、我が生いしこの時空に戻れ)」
地を叩く雨音が
「ニー ターシャ ノム タルタス ホン コレイル
(汝が帰る場所、西の地にあらず、この場所)
リポゾトロ ホン コォポ イム ポジトロ
(この、我が示す肉体に戻れ)」
ロッドの先端が振り下ろされる。指し示す先は、横たわる体。
「リルム イテルム!
(その心の臓を再び動かせ!)」
「きゃあっ!」
「うわっ!」
刹那、洞窟の外に落雷した。
頭を覆いうずくまるハルとシール。耳を聾する破裂音が去ると、心なしか地を叩く雨音が弱まっているように感じた。
ハルが目を開けた。映る光景は、何も変わっていない。ゴザの上で横たわる女の体。その足元に立つ、民族衣装姿の少女。しかし――
「えっ…?」
彼女は見た。リュインのまぶたが、わずかに動くのを。頭の方に回り、膝を突いたリリィがロッドを置いた。彼女は、リュインの黒ずんだ首筋に手を当てた。
「血の流れが戻ってる……生き返ったわ」
「嘘だろ!?」
ハルが思わず立ち上がる。
「マジかよ!やった!やったぜボウマン!!」
狂喜の表情で彼女は振り返る。
だが、その時……
「えっ……」
……この地に三人を導いた男の姿は、もうそこにはなかった。
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