第5話 『 追憶 』
今、 A棟102号室の患者が亡くなった。その人は私にとって初めてのグリーンの患者だった。
初対面の時、私はきっと患者より緊張していたと思う。患者の病名はドライ・リーフ、いわゆる「枯れ葉」病だった。以前は農夫だったという彼は担当医師の脇で突っ立っている私を見てニコッと会釈した。 それは素敵な笑顔だった。私はその時ちょっとだけ救われた気がした。
グリーンの終末医療は当然だがノーマルとは随分違う。特に彼のようにグリーン特有の病気の場合は尚更だ。 その看護に何故私が選ばれたのかは今だに分からないが、 一つ言えるのは私にそれを断る理由が見つからなかったということ。
定かではないが、 この院内でもグリーンを悪く言う人たちは少なからずいる。病院側にも、 患者側にもだ。その病院にグリーン専門のホスピスが設けられたのは一番に他所との差別化を図ろうとする事務局サイドの思惑によるものだろう。しかし会議でも目立った反対意見はなかったと云う。裏を返せば、それはこの病院の経営も想像以上に切羽詰った状況を迎えているということかも知れない。
ドライ・リーフ病、 いわゆる「枯れ葉」病は、今も尚 原因不明の病気だ。罹病するのは70%以上が中高年の男性。 グリーンの間では『ゆずり葉の季節』という名でその時期は呼ばれているらしい。私は一度このグリーン患者に聞いてみたことがある。
「自分がこの病気になった時、 どう思ったの?」 すると彼は言った。
「ただ来るべきものが来た。 そう思っただけだよ」
それは私が彼の着替えを手伝っている時だった。私は彼の、幾分生気をなくし肉の落ちた背中を見た。「でも不思議なんだ。なってみるとこれから自分が死ぬという怖さがある反面、どこかホッとした気持ちも少なからずあるんだ」
「え?」 私は手を止めて聞き返した。
「僕はずっと自然相手の商売だったろ。 一時も気が休まる時はなかったからね。それに僕らは作物が取れても取れなくても儲からないときてる。 因果なものさ」
「でもあなたもその自然の一部なんでしよう?」
すると彼は笑い出した。
「面白いこと言うね。 そうだね、 僕がグリーンになってよかったと思うのはそのことさ。だってどんなに貧乏でも飢え死にすることはないんだからね。ところがこの病気になってから、状況は変わった。」彼はそう言うとべッドに寝転んだ。
「 変かも知れないけどさ、僕はこの病気になってはじめて自分も人間なんだと思えるんだ。 だって僕らは周りから、まるで永遠に生き続ける死に損ないみたいに言われ続けてきたからね」
男は病室の天井を見上げたまま言った。
「でもね、このところ一つ考えることがあるんだ。 それは、自分が誰とも結婚しなかったってことさ。 後悔しているわけじゃないんだ。 実際これまで結婚したいと思ったことは一度もなかったしね。 貧乏だったし、 一人でいても特に淋しいと思うこともなかった。
でもここにきて、自分は誰からも愛されなかった。 誰も愛さなかったと思うと無性に虚しくなって、 それからまた今まで感じたことないくらい淋しくなるんだ」 そう言うと、男は表情を苦しそうに歪めた。
「さ、 もう休みましよ。 話はまた聞きますから」
私がそう一言うと男は一瞬私を見て、 それからおとなしく布団に身を埋めた。
「僕の人生は何だったのだろう。 これは、僕がグリーンだから考えるのだろうか?それとも人間だからだろうか?」
彼は最後に半ばうわ言のように呟いて、 程なく眠りについた。
私は今でもあの時の薄暗い病室の影を忘れることができない。 そして彼の問いは今でも私の胸の中で木霊している。
「自分はグリーンとして生き、そして死ぬのか?それとも人間として?」
私には分からない。でも多分私は、 今夜一人彼のことを思って、一時の涙を流すに違いない。 それは彼を忘れるため。 そしてまた、 彼を忘れないために。
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