第38話 三人寄れば文殊の知恵
「宗主は花見の宴で喜蝶さまを内外にお披露目し、いずれそのときがくれば妻に迎えられるつもりでおられる。正妻が夫の側女となる女に着物を贈るのは、世間ではよくあることと聞いている。今まで宗主は側女を娶らなかった。だからといって李香さまがいまさら嫉妬にかられて、たかが着物一枚ごときに無理難題を彩楽堂に押しつけるとは思えぬが……」
允陶の問いに彩楽堂は答えた。
「はい、多くの名家の奥さま方からそのような趣旨のお着物については、今までに何枚も注文を受けたまわっております。別段、珍しい話ではございません。しかし、園さまが絡まれると、そのように単純な話とはならないのでございます」
「着物一枚の注文に、なにか問題があると?」
「お着物のご注文を戴きましたことは、この彩楽堂にとりまして光栄なこと。そのことにつきましては、誠心誠意、努めさせて戴く所存にございます。
しかし、不甲斐ない話ではございますが、彩楽堂で誂えたお着物はそのままでは喜蝶さまに喜んでもらえることなく、袖すらも通していただけない状況は巷の噂になっております。園剋さまのお言葉、『李香さまに恥をかかせるな』は、そのことを踏まえておっしゃられたお言葉です」
「話の裏が読めてきたな。着物一枚に、毒蛇はなにを企んだ?」
「『李香さまに恥をかかせるな』とは、園さまにはただの言葉遊びでございましょう。しかし、わたくしども商売人には『死ね』と言われたも同然。もし、『李香さまに恥をかかせた』となれば、この慶央で五代続いた彩楽堂は、わたくし限りで店を畳むことになります」
「たった一枚の着物でそのようなことになるのか?」
「さようでございます。彩楽堂で仕立てた着物を喜蝶さまに着ていただけなかったとなると、その後の園さまの執拗な責めは、彩楽堂が店をたたむまで続くことでございましょう。あの方が陰で毒蛇と揶揄され怖れられるのは、食らいついた獲物にその息が絶えるまで毒を注ぎ込むからです」
「まあ、そのようなことがあってはなりません!」
自分の口を押えていた手をおろして、萬姜は叫んだ。
彼女自身も、父母と夫を同時に亡くした後、叔父夫婦に乗っ取られたうえに店を潰された。彩楽堂のような大店と比べることはできないが、人の悪意によって、大切な店を畳まざる得ない辛さと無念は知っている。
「彩楽堂、どうやら萬姜が義憤にかられたようだ」
突然に口を挟んできた萬姜を允陶は冷たく見つめて言った。だが、いつものようにドジ女とは言わなかったのは、允陶もまたその顔の表情には出ていないが、初めて聞く彩楽堂の話に憤りを感じているのだろう。
彩楽堂は「そのようなことは許せない」と書いてあるどんぐり眼を見開いた萬姜の顔を見つめる。
「いま、萬姜さんの言葉に、勇気をいただきました」
彼はそう言って、一つ大きく息を吸いそして長く吐く。
「この慶央の街で、荘さまのお身内を悪しざまにいえば、どのような災いが身に降りかかることか。しかし、いまわたしが言わねば、今回のようなことは何度も繰り返されることでしょう。
あのお人の言葉一つで店じまいを余儀なくされた慶央の老舗や大店は、この十五年で両の手の指の数をもってしても足らぬほど。皆、商売でこの慶央を支えてきたとの自負はございましたでしょうに。まことに無念にございます」
「やつは泗水の園家でも持て余すほどの厄介者であった。それで十五年前に、体よく追い払われたというか、園剋自身が気詰まりな泗水から逃げ出してきたというか。慶央に住みつくと病いがちで気弱くなっておられた李香さまに取り入って、いまではまるで荘家本宅の主人のように振舞っている。
その傍若無人な振舞いを、宗主も内心は苦々しくは思っておられるようだが。いかんせん、いまは李香さまの体の具合は悪くなる一方だ。李香さまのことを思えばその弟の園剋に手荒なことはできないと、宗主も行動に移す時期を逸してしまった」
「李香さまの具合はそれほどにお悪いのでございますか?」
「ああ、永先生の診立てでは、あと一年とか」
「それほどに……」
「李香さまがいままで命を存えることができたのは、宗主の金に糸目をつけぬ治療のおかげでもあったが、それも万策が尽きたということだ。
一年後には李香さまの後ろ盾を失うことを知って、あの男にも焦りがあるのだろう。悪行非道にますます拍車がかかってきた」
「そのようなことであれば、李香さまの病状が悪化したのは彩楽堂の着物のせいだとの言いがかりもありそうでございます」
「あの男のことだ、そう言い張ることもあるだろう。しかしだな、彩楽堂。それほど悲観することもないだろう。我々には……。いや、おまえには、萬姜という心強い味方がいるではないか」
允陶は薄い唇の片端をあげてニヤリと笑った。
「そもそも、おまえほどの商人が初めから負けのわかっている戦いなどするはずがない。すべては、萬姜がいることを考えてのいままでの言葉だ。下手な芝居はよせ」
「さすが、允さま。見破られてしまいました。允さまのおっしゃる通りにございます。しかし、萬姜さんにお願いするとしても、それにはまずは允さまのお許しをいただかないと」
その声に先ほどまでの深刻さはない。
「ふん、許しもなにもあったものか。見てみろ、萬姜の顔を。おまえを助ける気満々だぞ」
話を振られて、お任せあれとばかりに萬姜はその豊満な胸をぽんと一つ叩いた。
「お嬢さまは確かにご自分の意に染まぬことはなさりません。言葉が話せないこともあって、それが我がままに見えることも。しかし本当はお優しいお方です。彩楽堂さまを窮地に陥れるようなことはなさりません」
「萬姜さんのその言葉に救われた思いです。よろしくお願いします」
「おれは宗主の胸の内を語る立場にはないが……。彩楽堂、おまえの想いは宗主に伝わることだけは約束しよう」
三人の間にそれ以上の言葉はいらなかった。
允陶は自分の言葉に頷き、彩楽堂は深く頭を下げ、萬姜はまたまた熟れた杏のように赤く顔を上気させた。
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