第37話 毒蛇と噂される男


「つまらない着物談義で、允さまのお耳を汚してしまったのではと案じています」


「ふん、彩楽堂。思ってもいないことを言うな。

 つまらない話にしては、楽しそうであったぞ」


 彩楽堂はかすかな笑みを浮かべて、允陶の皮肉を聞き流した。


「これはこれは、茶がすっかり冷めてしまったようで、気づきませんでした。

 新しい茶を淹れます」


 允陶の茶器を彩楽堂は手元に引き寄せると、その中の冷たくなった茶を小さな壺の中に零す。そして手慣れた流麗な所作で新しい茶を淹れはじめた。


 部屋に静寂が戻る。部屋の隅に置かれた大火鉢の炭が爆ぜる音が大きくなる。

 換気のために少し開けた窓を見やれば、晴天だった空がにわかに曇り小雪がちらついていた。


 気づけば、さきほどまで風に乗って聞こえていた彩楽堂の妻たちや梨佳と嬉児の声が途絶えている。彼女たちも部屋の中に戻り、温かい茶や菓子で体を温めているのだろう。


「年が明ければ、春は遠からずとは申しますが。

 まだまだ寒さ厳しい日が続くようでございます」


 窓の外を眺める萬姜の視線を追って、茶を淹れ終わった彩楽堂が言う。そして允陶の前に新しく淹れなおした茶を置くと、彼はまるでいま思い出したというさりげなさで言葉を続けた。


「春になれば、荘本家では恒例の花見の宴でございますね」


 その言葉に、窓の外を眺めていた萬姜は視線を戻した。



 荘本家では年に数度、内外から人を招いて宴を催す。


『この日ばかりは、洗濯だけをしていればいいあたしたちも準備に駆り出されて大忙しさ』


 先日、洗濯女たちからぼやきを聞かされたところだ。だが忙しいの大変だのと口々に言いながら、彼女たちの声は期待に溢れているように思われた。


 宴が終わって客人たちが帰ってしまえば、そのあとは残った酒と料理で使用人たちの飲めや歌えやの無礼講が始まる。宴という名前を借りての下働きのものたちへの慰労という、それは実のところ宗主の粋な計らいでもあるのだ。



「そうだ。彩楽堂。おまえの儲け時だな」


 常に斜めに世の中のことを見る允陶らしく、今度も彼は皮肉を返した。

 招かれる客人も普段着というわけにはいかないが、酌婦の妓女たちもここぞとばかりに艶やかな着物を新調して席にはべる。


 だが、彩楽堂もまた聞き流す。

 萬姜の茶器に熱い茶を満たしながら独り言のように呟いた。


「その宴のためにということで、荘家本宅の李香さまから喜蝶さまのお着物のご注文をいただきました」


 二杯目の茶を口に運ぶ允陶の手が止まった。

「ほう、それで?」


 彼は短く疑問形を呟いた。

 そして茶を飲む気が失せたらしく茶器を卓上に戻した。

 彼の口調には珍しく途惑いがある。荘本家での出来事はすべて把握しているが、いま彩楽堂から聞かされたことを彼は知らなかったということだ。


「先日、園さまご直々にご来訪いただき、李香さまのご意向ということで喜蝶さまのお着物のお仕立てを受けたまわりました」


 彩楽堂は同じ内容の言葉を、今度ははっきりとした口調で繰り返した。

 その声には先ほどとは違い緊張がありそして覚悟があった。


「そのときに、『彩楽堂、美しい着物を仕立てよ。決して、李香さまに恥をかかせるではない』との言葉を、園さまより頂戴いたしました。先代がみまかってより、このわたしは彩楽堂の主人としてお客さまからのいろいろな無理難題を乗り切ってきたつもりでいましたが。今回ばかりは自信がありません。

 春を迎えるよりはやくある日突然、彩楽堂は店をたたんで慶央の街から出て行くことになるかもしれません」


「まあ、そのようなこと!」


 そう叫んで、萬姜は慌てて自分の両手で自分の口を押える。

 しかしどのように押さえたところで、出てしまった言葉はもう口の中には戻せない。


 いつものことではあるが、家令と彩楽堂の会話のほとんどは萬姜には難しくて理解できない。女主人である喜蝶と自分のことに直接関係したことでないかぎり、二人の会話は萬姜の耳を素通りしていく。


 たまに話題を振られるときがあるが、そのたびに家令には『ドジ女』と舌打ちされ、彩楽堂からは優し気に目を細めて見つめられる。萬姜の太った体は汗まみれになり、火照った顔は真っ赤になる。


 それなら初めから男二人の会話には加わらないほうが無難だ。

 触らぬ神に祟りなしと、世間でも言われているではないか。


 それで男二人の会話には興味もなく、魁堂鉄の痛んだ着物をどうやって直そうかと考えていた萬姜だった。


 しかし、彩楽堂の『店をたたんで慶央の街から出て行く』という言葉は、否応なく耳に入ってしまった。

 そして叫んでしまった。

 

 だが、家令の舌打ちもなく、彩楽堂の優しい笑みもない。

 彩楽堂が言葉を続ける。


「園さまの声は穏やかでしたが、その目の色はぞっとするほどに冷たいものでした。園さまの言葉に、わたしの体は凍りつき、あの日も今日のように雪のちらつく寒い日でございましたが、首筋に汗が流れました。蛇ににらまれた蛙の気持ちが初めて理解出来ました」


「も、もしかして、園さまとは、あの毒蛇!」


 しっかりと押さえたつもりの萬姜の口からまた言葉が飛び出てくる。

 あのときに洗濯女たちは確かに『毒蛇』と噂していたはず。しまった、このようなことになるのであれば、あのときにもっとしっかりと聞いておくべきだった……。


「萬姜さんの耳にも、あのお人の噂はすでに入っていましたか。腹違いとはいえ、園さまは李香さまの弟。そして荘さまには義弟となられるお人。そのようなお人を誹りたくはないのですが。ましてや、荘本家の家令である允さまを前にして。しかしもう黙っていることは出来ません」


 そう言う彩楽堂の声はあまりにも沈痛だ。


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