第36話 着物談義には花が咲く


「ほう、これが魁堂鉄さまのお着物ですか。刀を振るうお人の皮鎧の下に着込む着物というものを、わたしは初めて間近で見ました」


 目の前に広げられた着物に触れながら、彩楽堂は耳に心地よい深みのある声で言った。取れかけた袖のほつれを撫でながら、いかにも楽しそうな笑い声をあげる。


「なるほど、体にあった着やすい着物だけを着たおすとはこのことですね」


 冷や汗を鼻の頭に浮かべ、太った体を緊張で縮こまらせた萬姜は答える。


「慶央一の呉服の老舗といわれる彩楽堂さまのお店にこのようなものを持ち込む失礼をお許しください」


 そして言ってしまってから、魁堂鉄がいないからといって彼の着物を無断で持ち出し、そのうえに『このようなもの』と言ってしまった自分の落ち度に気づいた。


 なんと言い訳したものかと、どんぐり眼の目ん玉を白黒させながら言葉を探す。

 今度は彩楽堂が少々慌てた様子で言葉を足す。


「いえいえ、老舗というものに胡坐を掻いて、お客さまを彩楽堂の着物を着てくださる衣文掛けにしかわたしは見ていませんでした。そのことを気づかせてくださったのは、萬姜さんです。わたしのほうこそ、萬姜さんには感謝の言葉もないくらいです」


「まあ、感謝などと、そのようなもったいないことを……」


「本当のわたしの気持ちです。慶央で自分が一番着物について知っていると思っていましたが。それはただの自惚れだったと、萬姜さんとお話するたびに目から鱗がおちる思いです。でも……」


「えっ?」


「萬姜さんの今日のお着物、よくお似合いですよ」


 萬姜が着ている着物は、糸や針とともに彩楽堂から贈られたものだ。


 上衣は色味を抑えた縦縞柄で、丈は萬姜のでっぷりと大きい腰を隠す長さとなっている。袖丈も下働きの女たちのような筒袖ではないが、動きにくいほどに長くもない。裳は上衣に使われている濃い目の一色を選んで仕立てている。


 荘本家の奥座敷でお嬢さまに仕える侍女としての立場を考えて、それは華美ではなく、しかし味気ないというものでもなく。そしてまた萬姜の三十路という年齢に対して、それは派手過ぎることもなく地味でもなく。

 

 何よりもその濃い目の色と柄と仕立てのよさは、萬姜の太った体の線を目立たなくしていた。


「どうです、わたしの見立てもなかなかのものだと思いませんか?」


 彩楽堂の声に顔を上げると、彩楽堂が嬉しそうに微笑んでいる。

 そして、親しい女に見せる馴れ馴れしさもまた、見栄えのよい男の顔に浮かんでいる。


 萬姜の顔は熟れすぎた杏のように真っ赤になった。


 新開の田舎町の小さな呉服屋で、客の着物姿は嫌というほど褒めてきた。しかし自分が着るものを見立ててもらい、そのうえにそれをまとった自分の無様に太った体を褒められたことなどない。それもこのように顔立ちよく物腰柔らかい男からなど。


 周囲の空気の温度が一気に上昇したように思われた。

 外はまだ寒い冬の真っ盛りだというのに。


 なんと答えてよいかとおろおろどきどきと迷っていると、横で茶をすすっていた允陶が「ふん」と鼻で笑った。


「彩楽堂、この田舎者のドジ女をからかって遊ぶのはよせ」


「はい? 允さま。なんのことやら。わたしはわたしの思ったことを正直に言ったまでのことにございます」


「ふん」

 允陶はもう一度鼻先で冷たく笑った。




 彩楽堂を来訪するのは、今回で何度目だろう。

 少女のお供をして慶央の街を散策するときは、まず一番に彩楽堂を訪れるのが習わしになってしまった。


 ことあるごとに彩楽堂からは糸や針や布地、そしてときには自分や梨佳や嬉児の仕立てられた着物まで届く。


『遠慮はいらぬ、もらっておけ。どうせ、喜蝶さまの着物の代金に上乗せされている。彩楽堂も商人だ、そこのところは抜け目がない』


 家令の允陶は冷笑を浮かべて言うが、それでも贈られた着物への礼の言葉は述べたいし、その着物をまとった姿をお見せするのも礼儀と萬姜は思う。そしてそのあとに続く彩楽堂との着物談義は、田舎町で安物の着物を売っていたときには気づくこともなかった学びになり、何よりも心が弾むほどに楽しい。


 ただ、この最近、彩楽堂が馴れ馴れしい態度を見せるようになったような……。しかしそれはたぶん自分の思い過ごしだろうと、ぶんぶんと激しく、彼女は頭を横に振る。


 彩楽堂には二人の美しい妻たちがいる。


 その整った顔には流行りの化粧を念入りに施し、すらりとした体には彩楽堂の妻として恥ずかしくない美しい着物をまとい、彼女たちは大得意さまである少女と荘本家の家令を出迎えもてなす。


 彼女たちの玉を転がすような笑い声と流麗な所作を、気後れしつつこっそりと萬姜は盗み聞きし盗み見る。あのような美しい妻が二人もいる彩楽堂が自分を女として見ているわけがない。


 屋敷の奥から、少女を取り巻く女たちの賑やかなお喋りと笑い声が、冷たい風に乗って聞こえてきた。


 その声がのどかそうに聞こえるのは、十日前に正月を祝ったばかりで、新しい年を迎える気ぜわしさから解放された女たちの安堵もあるのだろう。しかし、青陵国の南の端に位置しているとはいえ、慶央の春はまだまだ遠い。




 萬姜のうろたえた心の内に気づいているのか気づいていないのか、彩楽堂は再び目の前に広げられた魁堂鉄の着物を見つめながら言った。


「萬姜さん」


「はい?」


「武人の着物は、動きやすくするために袖とズボンの裾を革紐で縛っています。縛りやすくするために、初めから袖と裾のたるみを絞っておくのもよいかもしれませんね」


「ああ、それは気がつきませんでした」


「萬姜さんならきっとよい方法を考えつくと思いますよ。この着物をどのように直されるのか、わたしも楽しみです。魁さまのこのお着物を補強するための布地を蔵から探して、あとで荘本家のお屋敷に届けさせましょう」




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