第35話 〈熊〉の着物、あたしが直します!
……荘英卓さまという名前はどこかで聞いたことがあるような……
家令さまからだっただろうかと萬姜が考えを巡らしていると、別の女が声を潜めて言った。
「今ごろになって、英卓さまを探して連れ戻そうなんて。喜蝶さまを娶られたあと、宗主さまは荘本家を長男の健敬さまに譲られるつもりなんだろうか。
三男の康記さまはまだ子どもだけど、生きて元気であれば英卓さまはもう二十歳だ。健敬さまの補佐はじゅうぶんに務まるだろうよ。すべてお子さまたちに任せて、宗主さまもそろそろのんびりとされるのもいいんじゃないかい」
「紅天楼で一番美しいという贔屓の妓女の春仙さえ、ここには住まわせなかったのに、ついに宗主さまが側女を置くとはねえ」
「でもさ、喜蝶さまを娶るといっても、その歳の差は親子ほど、いやさ、祖父と孫といってもいいような。本宅の李香さまは病弱といっても、やはり心の中は穏やかじゃないだろうに」
「知り合いが本宅で働いているんだけど、なかなかに李香さまは気難しいお人で、苦労しているそうだ。それに李香さまの横には、園剋さまがいる……」
「ああ、あの〈毒蛇〉……」
下働きの女たちとのお喋りに允陶は寛大ではあるが、本宅の嘘か誠かわからぬことにまで首を突っ込んだと知れたら、よい顔はしないだろう。なんらかの咎めがあるかもしれない。
膝の上の〈熊〉の着物を丁寧に畳むと、今日のお喋りはここまでだと萬姜は立ち上がった。
それを見た萬姜をお茶に誘った女も立ち上がった。
「さあさあ、お茶もお菓子も噂話も、今日はここでお終いだよ。これ以上さぼっていたら、容赦のない允さまにあたしたちも貞珂のように追い出されるよ」
そして彼女は言葉を続けた。
「萬姜さん、あたしたちのお喋りにつき合ってくれてありがとうね。美味しいお菓子も……。そのうえにさ、お願いごとをしちゃ、本当に申し訳ないとはわかっているのだけど。その魁さまのお着物、萬姜さんが直してくれないかい。どうやらあたしたちの手には負えないようだ」
手の中にある男ものの着物を萬姜は見下ろした。
女の言葉にドクンと心の臓が一つ大きく打ったのは、なぜだろう。
……この着物、直してみたい……
しかし、男ものの着物をいそいそと縫っている姿を梨佳に見られたら、なんと言われるだろうか。いや、梨佳はいい。梨佳は母親が縫い物好きなことを知っている。
懇意にしている洗濯女に頼まれたといえば、「まあ、そんなものまで引き受けて。お母さまらしい」と笑うだけだろう。
しかし、允さまはなんと言われるか。
奥座敷は男の立ち入りは禁じられていて、家令という立場であっても彼でさえ出入りに気をつかっている。そのような場所に着物とはいえ男のものを持ち込むのは、あらぬ誤解を招くもとだ。
……いや、魁さまはお人ではない、〈熊〉だわ。〈熊〉の着物をちょこちょこっと直すだけだもの……
その考えはさすがにこじつけだとは自分でもわかった。しかし、自分ならこの着物をどのように直すだろうと考えると、心の臓はますます高鳴ってくる。
考えあぐねている萬姜の様子に、片づけの手を休めた女たちが口々に言う。
「萬姜さんにだって出来ないことはあるってこと」
「こっそり捨てちゃえばいいんだ。困った顔はするだろうけれど、そんなことで怒るような魁さまでもないし」
「やっぱり無理なお願いだったよね。あたしたちでなんとかするからさ、このことは忘れておくれよ」
女の手が萬姜の手の中にある着物に伸びてくる。
しかし、取られてはなるものかと萬姜は持っていた着物をしっかりと胸に抱いた。
そして思わず叫んでしまった。
「そのお着物、わたしが直します!」
その夜、隣の部屋で眠る少女のやすらかな寝息を確かめたあと、手元の灯りを頼りに暗い部屋で〈熊〉の着物を広げた。
あらためて眺めても、その着物の痛みようは酷いものだ。
……ここまで着てもらえば、着物も本望なんだろうけれど……
袖つけはなんども縫い直されている。
警護という刀を振り回すこともある仕事柄、洗濯女たちが言う動きが激しいというのも事実だが。
顔をあげた萬姜は暗闇の中に魁堂鉄の後ろ姿を思い浮かべる。
その肩幅は広い。
……この着物も大きめに縫ってあるけれど。どうしても、着物は立って何もしていない時の見た目の姿のよさを優先してしまうもの。でも、身に纏った人の日常を知らなければ。この肩幅では、袖付けが綻んでしまうのも当然だわ……
そして両肩に当たる布地が薄くなっているのは、彼がいつも身につけている皮鎧で擦れるのに違いない。
……やはりあのときに思いついたように、両肩は裏側から別布を二重にあてるしかないわ。いやいっそ、丈夫な木綿の布地を表から縫いつけたほうが。ついでに太い糸で刺し子をすれば、丈夫になると同時に厚くなって防寒にもなる。
でも元の布地に似合った別布となると、どのようにして探したものか。そうだわ、彩楽堂さまに相談してみよう……
そこまで考えて、萬姜はそっと着物を撫でた。
男ものの木綿のしっかり打ち込んだ布地の感触が指先から伝わってくる。いまは亡き夫の着物を夜なべして縫った日々が、脳裏にありありと蘇る。
あまりの懐かしさに思わず〈熊〉の着物を抱きしめた。
当然ながらその着物からは夫とは別の男の体の匂いがかすかにして、それがいっそう萬姜を悲しませた。
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