第三章

慶央の街に雪が舞う

第34話 大きな体を持つ男の悩み


「おや、萬姜さんじゃないか」


 荘本家の屋敷内を歩いていた萬姜を親しくしている洗濯女が呼び止めた。

「ちょうどよかった。これからちょっと一休みしてお茶を飲もうと思っていたところなんだよ。いつものように、つき合ってくれないかい」


「お言葉に甘えようかしら」


 思いのほか所用は簡単に片づいた。洗濯女たちとお喋りに花を咲かせる時間は十分にあると、萬姜は胸積もりする。

 女は萬姜を茶に誘うときの自虐ネタもまたいつものように披露して笑う。


「でもさ、お茶と言ったって、萬姜さんが奥座敷で毎日飲んでいるような上等なものではないよ。白湯にちょっと色がついているだけだ」




 雨をしのぐための屋根だけがある洗濯小屋では、山のような洗濯を終えた十人ほどの女たちがすでに爆ぜる焚火を囲んで座っていた。外での会話を聞いたのだろう、一人の女が萬姜に椅子代わりの樽をすすめながら言った。


「それにさあ、菓子は、先日、萬姜さんにおすそ分けしてもらったものだしねえ」


 あかぎれで指を赤くはらした別の女が、ほんのり色のついた白湯で満たされた茶碗を萬姜の前に置く。そしてお喋りを引き継ぐ。


「萬姜さんの前にお嬢さまの世話をしていた貞珂は、なんとまあ、お嬢さまのもとに集まってくる有り余る菓子を外にこっそりと持ち出して、売り捌いていたそうじゃないか。允さまに追い出されて可哀そうだと同情していたのにさ、あれがそんな女だったとはねえ」


 その女の言葉通りに、まるで風に吹き寄せられる落ち葉のように、奥座敷には菓子が集まり溢れている。


 いつも出かけて長く留守にする宗主の喜蝶への土産は珍しい菓子だ。

 そして、彩楽堂と舜老人からは次の来訪を催促する文にも美味しそうな菓子が添えられている。台所方からも毎日のおやつもある。


 ありあまった菓子を腐らせるのももったいないと家令に相談すると、「おまえの好きなようにせよ」と言われた。それで機会をみつけては、荘本家で働く女たちにおすそ分けしている。


「聞くところによると、貞珂さんの夫はお酒が好きで働くのが嫌いな人だったとか。老いたお姑さんと小さい子どもを抱えて、暮らし向きは大変だったそうですよ」


「ここで働く女たちで、日々の暮しが大変でないものがいるのかい? それを皆で助け合っているんじゃないか」


 萬姜を茶に誘った女が吐き捨てるように言い、その言葉に他の女たちが頷いた。


「追い出された貞珂がいま何をしているか、誰か知っているかい?」

 誰かが言い、また別の誰かが言った。

「萬姜さんも、ここに来る前は苦労したんだってねえ」


 まだ新参者の萬姜にとって古参の女たちの噂話を聞かせてもらえることはありがたいことでもあり、またここでの暮らしの円滑油にもなることも確かだ。

 しかし、聞きたくないこと話したくないこともある。


 新しい話題になるものはないかと小屋の中を見渡した萬姜は、隅におかれた籠の中で見覚えのある着物を見つけた。それはまるめられて無造作に突っ込まれている。


「あら、それは?」

「ああ、魁さまのだよ」

「あの、く……」


〈熊〉と言いかけて、萬姜は慌てて言い直した。

「魁さまのお着物がなぜにこのようなことに?」


「魁さまはあのように人並み外れた大男だろう? そのうえに仕事ぶりが荒いときている。そのために着物の痛みが酷いんだよ。洗ったものの、さてどう繕ったものかと、そのままなんだ。ほんと、魁さまは洗濯女泣かせだよ」


「別の意味で泣かせてもらいたい女はいっぱいいるのにねえ」


 卑猥な冗談が飛んできて皆がどっと笑う。

 しかし誰かがぴしゃりと言った。


「馬鹿だねえ。冗談にでも、そんなことが魁さまの耳に入ったりしてごらんよ。おまえなんか真二つに斬られちっまうよ。あのお人は女がほれぼれするくらいよい体つきなのに、その心は岩石も顔負けの堅物なんだから」


「おお、怖い」


 誰かが素っ頓狂な悲鳴をあげて、ふたたび姦しい笑いが湧きおこる。

 笑いがおさまったところで萬姜は意を決して申し出た。


「魁さまのお着物、ちょっと見せてもらえますか?」


「ああ、いいよ。それでさ、萬姜さんは縫い物が上手だろう、なんかいい知恵があったら、教えてくれないかい」


 しわくちゃになって丸められていた男ものの着物を、萬姜は膝の上に丁寧に広げてながめた。魁堂鉄の着物は、袖の縫い付けが綻んでちぎれかけているうえに、両肩の部分は擦り切れて薄くなり、かかげ持って透かしたら向こう側が見えそうだ。


「まあ、こんなに痛んで……」


「しかたがないよ。あの巨体だろう。体に合う着物がなくて。そして、あればあったでそればかり着ているからさ」


「これは普通の繕い方法では直りそうにありませんねえ。別布を当てて二重にしたり、糸も撚りが弱ければすぐに切れるし、かといって強いと布のほうが裂けてしまうし……」


「萬姜さんでも難しいのかい。だったら、こっそりと捨ててしまおうか」


「まあ、そんなこと」


「いいんだよ。魁さまはね、当分の間、留守だからね。いつ帰ってくるんだか。そんなんだから、着物の一枚くらいこっそりと捨ててもばれやしないよ」


「ああ、そうだったんですね。どうりで最近、魁さまのお姿をお見かけしないと思っていました」


 あれから慶央の街には何度か出かけたが、この最近は警護の中に魁堂鉄の姿がない。そういえば魁堂鉄の横にいつもぴったりとくっついている弓を持ち矢筒を背負った、敏捷な体つきをした十五、六歳くらい男の子の姿も見かけていない。


 別の用事があるだけなのだろうと思っていたが、彼らはそもそもがこの屋敷にも慶央の街にもいなかったのだ。


「なんかさ、関さまからすごく大切な密命を受けて、こっそりと旅立ったっていう噂だよ」


「英卓さまを探しに行ったって、やはり本当なのかね」


「英卓さまって?」


 萬姜の問いに訳知り顔の女が答える。


「ああ、萬姜さんが知らないのも当然だろうけれど。英卓さまは宗主さまの三男だよ。五年前に出て行ったまま行方知れずだ。あのとき確か十五歳だったはずだから、どこかで生きていたとしたら二十歳だ」







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