第33話 真珠を抱いたネコの置物


 若い男の苦り切った声が、無邪気な声に重なる。


「皇太子とはいえ、大人の話に首を突っ込むな。それにその口の利きようはなんだ。おまえには兄を敬う気持ちはないのか? おまえはいつになったら恩義というものを知るのだ? もったいなくも皇太子の座を譲ってやったというのに」


「兄上、それは違うよ。ボクの母上のほうが兄上の母上より生まれがいいんだよ。ボクのほうがやんごと……、ええと、教えてもらったのに、なかなか覚えられないや。やんごと……、そうそう、やんごとなき身分なんだ。だからボクが皇太子になるのは当然なんだって」


「馬鹿が。また取り巻き連中のおべんちゃらに乗せられやがって。天上界に戻ったら、すぐさま、その根性を叩き直してやろう」


「うん、いいよ。ボク、兄上のこと大好きだから、叱られても平気だよ。お尻ぺんぺんだって我慢できる。でも、その前に、ボクは萬姜おばさんとお話がしたい。ねえねえ、萬姜おばさん、×××は元気?」


 幼く小さいとはいえ相手は龍だ。その龍に気安く『萬姜おばさん』と呼ばれた。萬姜はかくかくと首を振って頷いた。


……龍とお喋りしても、八つ裂きにされたりはしないだろう。狼はあたしを食べなかったし、落ちてきた月はあたしを押しつぶさなかった。だって、これは夢だから……


 それに、銀狼と青龍の兄弟喧嘩はなんやら微笑ましい。子どもを三人育てている萬姜にとって、兄弟同士の口喧嘩は聞き慣れた光景、見慣れた日常でもある。


「はい、皇太子殿下……、殿下さま。お嬢さまはお元気でございます。ご安心くださいませ」


「それはよかった。ほらね、兄上、×××は元気に過ごしているって」


「愚か者につける薬はないとは、おまえのことだ。誰のせいで、言葉と記憶を失った×××が下界をさまようことになったと思っている?」


「兄上は心配しすぎなんだよ。そのうちにボクが天帝のお怒りを解くよ。そうしたら×××は天上界に戻れる。だって、ボク、きれいで優しい×××のこと大好きなんだもの。×××を、ボクは大人になったら絶対に娶るんだから。歳の差なんか、関係ないよ」


「少しはその口を閉じろ。おまえは喋り過ぎだ」


「大丈夫。萬姜おばさんは夢だと思っているから。ねえ、そうでしょう、萬姜おばさん?」


「あっ、そ、そうですとも。これは全部夢です。青龍の皇太子殿下さま」


「ほらね、兄上」


 若い男は天を仰いで嘆息した。


「遅く生まれた末子だからということで、父上はおまえを甘やかしすぎだ。さあ、父上に気づかれぬうちに天上界に戻るぞ」


 くるりとその白く輝く着物をまとった体を若い男は反転させると、その姿はふたたび銀狼の姿に戻った。


「いやだ、いやだ。もっとここにいたい」


 騒ぎ暴れる青龍を、銀狼はなんなく組み伏せる。弟の細長い体に体重をかけた前足を乗せたまま、彼は萬姜に言った。


「とんだ邪魔者が入ってしまった。萬姜、いずれまた来る。それまで×××をよろしく頼むぞ」


 そう言い残すと、青龍の後ろ首筋を咥えたまま大きく跳躍して、二匹は天へと戻っていった。




 翌日の夜、萬姜は家令の允陶の前に立っていた。

 いつもの奥座敷の一日の出来事の報告だ。

 しかし、允陶は萬姜を見るなり言った。


「萬姜、その目の下の黒い隈はどうした?」


「申し訳ございません。昨夜、眠れなかったものですから」


 変な夢を見たせいでとは言えなかった。梨佳には聞いてもらったが、案の定、笑われ慰められただけだ。


『お母さま。それはお疲れになったせいですよ。昨日は、慶央の街でいろいろとありましたもの』


『そうだよね。そのせいに違いないよね』


『でも、わたしは夢も見ずにぐっすりと寝てしまいましたけど』


『それは、あたしが歳をとったと言いたいのかい』


『まあ、そんなことは言ってませんわ。それは言いがかりというものです。でもお疲れでしたら、今日は無理をなさいませんように。お嬢さまのお世話はわたしと嬉児に任せてください』

 

 だが、ネズミ顔の家令は梨佳のように優しくはない。

 案の定、冷笑を浮かべると萬姜の言い訳にぴしゃりと言った。


「おまえが眠れなかったといって、おれに謝ることではない。ただ、喜蝶さまのお世話に差しさわりがないようにと、それだけは言っておく」


「心得ております」


「格別の報告もなければ、さっさと部屋に戻れ」


 突き放した冷たい言葉だが、それは「今夜は早く寝よ」という心遣いだと、最近の萬姜にも薄々わかってきている。


「失礼いたします」


 両腕を胸の前に突き出してその中に頭を垂れようとしたとき、彼女は家令の机の上に見知ったものが置いてあることに気づいた。


「家令さま、それは?」

「これか……」


 短い返答だったが、その中に微かな戸惑いがあった。

 いま気づいたと彼もまたその視線を卓上にむけたが、そのとってつけた挙動に、萬姜が現れる前から彼の心がそこにあったことが想像できる。


「これは、昨日、舜ご老人より手渡されたものだ」


「もしかして、あの日に、荷車と交換のために、お嬢さまが飴屋に差し出したものでございましょうか」


「ほう、覚えていたのか」


「はい、その猫の置物で、わたしの命は救われたようなものですから」


「これはな、喜蝶さまがこの屋敷に来られたころ、あまりにもそのご様子が心細げであったので、お慰めしたいものだと思い、舜ご老人から買い求めて部屋に飾っておいたものだ」


「まあ、さようでございましたか」


「それがおまえの命を救い、巡り巡って再び舜ご老人に渡り、そしてまたおれのもとに戻ってきた。ちょうどよい。これを喜蝶さまの飾り棚の上に戻しておいてくれ」


「畏まりました」


 真珠の毬に前足をかけた玉石に刻んだ子猫の置物を、萬姜は恭しく両手で戴いた。

 つい独り言が口をつく。


「世の中には、不思議なことがいっぱいあるものですね」


 萬姜の独り言に、允陶もまた独り言のように答えた。


「そうだ、萬姜。世の中には人智を越えた不思議なことがあるとは、聞いては知っていたが。どうやらおれたちはそれに遭遇したのかも知れないな」





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