第32話 今度は青龍が現れた!
夢の中で、それはたぶん萬姜が見ている夢の中で、中庭に満ちていた銀色の光が狼に向かって渦を巻きながら集まり始める。
やがてその中に白い人影が現れた。
長身の若い男だ。
漆黒の髪を一筋の乱れもなく結い上げて、頭頂部でまとめている。白い顔の目鼻立ちは美しく整っていて涼やかだ。
遠目にも織りの複雑さが想像できる銀色の着物を身にまとっていた。
袖も裾もゆったりと長いそれは、銀狼の毛並みのように中庭を一面に照らすほどには光り輝いてはいなかったが、白い靄となって若い男のまわりでたゆたっていた。
ひれ伏したいほどに若い男は神々しい。
……あらら、昼間に彩楽堂さまのよい男ぶりを見てしまったので、あたしの夢の中までよい男が。それも若い男だなんて。明日の朝に目覚めたら、新開の町に向かって手を合わせて、死んでしまったあの人にお詫びをしなくちゃ……
夢の中でこれは夢だと知ってしまうと、もう彼女に怖れるものは何もない。
しかし、腰は抜けたままだ。
濡れ縁の縁に足を投げ出した行儀の悪い姿で、萬姜は若い男の姿をまじまじと見る。
……あの美しい着物の布地。やはり、絹かしら? 触って、その感触を確かめてみたい……
ここからでは届かぬとわかっていながら、おもわず手を伸ばした。
「食われぬとわかれば、おまえの関心事はそれか」
苦笑交じりの男の声に、手を引っ込める。
若い男は言葉を続けた。
「萬姜、×××が世話になっている。そのことへの感謝の意を伝えに来た」
人の名前らしき×××は聞き取れず、それが萬姜の顔に出てしまったのか。
若い男は一度言葉を切ると少し考え込んだ。
「ああ、そうだったな。天上界に住むものの名前は、下界の人には口にすることが出来ず、それゆえに聞き取ることも出来ない。×××のここでの名前は、たしか……、喜蝶といったか。
喜蝶は喋ることもできずその記憶も長く保つことは出来ない。そもそもが自分がなぜここにいるのかもあれはわかっていない」
不思議な言葉は一陣の風のように萬姜の頭の中を通り過ぎていくが、それでも彼女は思う。
……自分の名前さえ思い出して話すことのできないお嬢さまのことを、あたしはいつもお気の毒に思っているものだから、夢にまでその想いがでてきたのだわ。それにしても、天上界だの下界の人だのって、なんてまあ、今夜の夢は変にもほどがある……
だが、萬姜の心の中の声は若い男に筒抜けだ。
「萬姜、これは夢ではない。×××がなぜに言葉も喋れず記憶も失ったままで中華大陸をさまようことになったか、そしてなぜおまえが選ばれたのか」
若い男はそう言い、そして満月の浮かぶ夜空を見上げた。
「今夜は、おまえにその仔細を語って聞かせたいと思っていたが……。どうやら、今はそのときではなくなったようだ」
男の視線につられて萬姜も夜空を見上げた。
……えっ? 月が二つある!……
ぽっかりと満月が二つ並んで夜空に浮かんでいた。
若い男が舌打ちを響かせた。
「面倒くさいやつに気づかれた」
一つの月が目に見える速さで大きくなる。
いや、大きくなっているのではない、こちらに向かって一直線に落ちてきている。
……狼に食い殺されるかと思ったら、今度は落ちてきた月に潰されるなんて。変な夢どころか、酷い夢だわ……
しかし落ちてきた月は彼女を潰すことなく、若い男の横に並んで止まった。
それはちょうど人一人を包みこむ大きさの金色の光が渦巻く球だ。今度は中庭はまぶしいばかりの金色の光に包まれた。
……銀色の球が狼であれば、金色の球からは何がでてくるのかしら?……
もうこうなれば奇想天外な夢の世界を楽しむしかないと腹をくくった萬姜だが、金色の球がはじけて姿を現したのが龍であったのには、やはり思わず息を飲んだ。
青い鱗を持つ龍は小さくて細い。
……きっと、まだ子どもの龍なんだわ……
その予想は当たっていた。
青龍は若い男の体にからみつくようにその周りを旋回すると、甲高い声で叫んだ。
「兄上、ボクを残して一人で下界に降りるなんて、ずるい!」
その声の舌足らずな調子からして、六歳の嬉児と同じくらいの歳のように思えた。
からみつく子どもの青龍を煩さいとばかりに手で振り払って、若い男が答える。
「皇太子のおまえを下界に連れてきたら、天帝のお叱りを受けるのは、このおれだ」
「嫌だ、嫌だ。ボクだって、×××のこと心配なんだ。×××のこといろいろと知りたいんだ。だって、×××はボクの妃になるんだもの」
「まだそのようなことを言うのか、このマセガキが!」
しかし青龍にとって兄の怒りもその強い口調も慣れたもののようだ。
それともよほど無邪気な性質なのか。
その幼さの残る小さい顔、それでも突き出した鼻の下に立派な二本の髭もある龍の顔ではあるが、それを萬姜に向けるといま気づいたと嬉しそうな声をあげた。
「もしかして、兄上。この女の人が萬姜さんなの? ねえねえ、兄上、ボクも萬姜さんと話がしたい」
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