第31話 銀色に輝く狼


 おそるおそる戸を開けると、満月が落ちたかと思えるほどに中庭は青白く眩しい光で満ちていた。


 しかし光の源は落ちてきた月ではないことは、なにごとにも疎い萬姜であってもすぐにわかった。


 中庭の真ん中、造成中でまだ水を引いていない池の向こうに四つ足の獣がいて、こちらを見ている。獣の毛並みは光輝く銀色で、それが中庭を眩しく照らしていた。




 荒くれもの三千人を抱えた荘本家の建物は、慶央の城郭の外、西にある小山をひとつ切り崩した場所に建ち並んでいる。


 常に皮鎧を身につけ帯刀した男たちと、その男たちの世話をするために雇われた多くの下働きの男と女が寝起きする住居。必然的に台所や洗濯場の建物もある。


 そして夥しい食料や炭や薪や何が収められているのか見当もつかない蔵と、馬の嘶きが途絶えることのない厩舎が軒を連ねる。


 数年ごとに都の安陽より赴任してくる県令をさしおいて、荘本家こそが慶央の支配者と噂されている所以だ。


 そのなかにあって、喧騒と人目を避けるようにして建てられた、宗主・荘興の私邸がある。


 本来であれば彼とともに妻子も住むはずだが、妻の李香は城郭内の豪奢な本宅で十五歳になる末子の康記と、自分を頼ってやってきた腹違いの弟・園剋とともに暮らしている。


 病弱なので静かにくらしたいというのが、夫のそばに住もうとしない表向きの理由だ。


 慶央より離れた泗水の街の交易商人の娘として、李香は何不自由なく育った。

 そして二十五年前に、荘興の男ぶりに惚れて遠く慶央の街に嫁いできた。


 そのときは夫なった若い男は父の手ほどきを受けて商売を始めるか、その賢さで役人になると信じていた。


 それがときに血の匂いがするような仕事に手を染めるとは。


 生まれ育った泗水の街が恋しいのと、惚れた男に裏切られた思いが日々につのり、彼女は気鬱の病におちいり、そのまま寝たり起きたりの日々となってしまった。


 すでに妻帯している長男の健敬もまた、彼は彼で家族とともに別宅に住んでいる。いずれ父の荘興が隠居すれば二代目の宗主として彼は越してくるだろうが、その日はまだまだ訪れそうにない。


 そのような理由で、長年、荘興はこの私邸に一人住まいだった。


 彼ほどの地位と金があれば妾を囲うこともできただろうが、彼はそうはしなかった。病弱な妻を憐れむ気持ちと荘本家を立ちあげるときに世話になった義父への遠慮がある。


 そもそも、五十歳となってもなお精力的に東奔西走する彼には、いままで私邸でのんびりとくつろぐという習慣がなかった。そのために允陶によっていつもこぎれいに整えられているものの、私邸には寂寥感が漂う。


 その私邸に、数か月前より少女が住むようになった。


 あり得ない話とも宗主の道楽とも陰口を囁かれ続けても、三十年をかけて、旅の僧侶より聞かされた中華大陸をさまよう白い髪の少女を探し続けた。そのようにしてやっとみつけた美しい少女だ。ときが来れば、彼は少女を娶るつもりだ。

 

 その日までのここでの暮しが楽しくあるようにと、奥座敷の少女の部屋には華やかな家具が揃えられて、中庭には来るべき春に備えてそこかしこに花の苗が植えられた。今は鯉を泳がせる池を造成中だ。




 作りかけの池の向こうで銀色の毛並みを逆立てているのは、犬か……、いや、犬ではない。犬でないものは仔牛ほどに大きく、「おいで」と気軽に呼んで撫でてみたいとは到底思えない強面な顔つきをしている。狼だ。


「ひぃぇぇ!」


 驚いて叫んだ萬姜はその場にへたり込んだ。

 しかし驚くことはまだ続いた。


 白い牙のするどい口を開けて、銀色の大きな狼は人の言葉を喋った。


「萬姜、そのように怖がらなくてもよい」


 腰が抜けたので這って部屋に戻ろうとした萬姜の背に、銀狼の言葉がかぶさる。


「取って食おうとは思っていない。たとえ、おまえが肥え太って美味そうであっても」


『取って食う』という言葉に、萬姜は這うことをやめた。命をかけてもお嬢さまを守るという自分の使命を彼女は思い出した。逃げている場合ではない。

 振り返ると、濡れ縁に座り直した。


 ……仔牛のように大きい狼だけれども、飢えていたとしても、肥え太ったあたしの体で満足するに違いないわ。お嬢さままで襲うことはないでしょう……


 そう思うと肝が据わった。

 寝衣の胸元の着崩れを直しながら、彼女は答えた。


「遠慮はいりません。あたしを食べてください。あなたさまのご想像通り、あたしの体は美味しいはずです。いえ、絶対に美味しいです」


 体は腰が抜けてしまったが、口は自分でも不思議なほどに言葉がすらすらと出てきた。声もかすれず震えてもいない。


「萬姜、おまえの心根はよいが、その早とちりが玉に傷だな」

 その口を横に広げて狼は笑い、そして言葉を続けた。


「どうやらこの体では、おまえとまともな会話は出来そうにない。しかたがない、元の体に戻ることにする。しばし待て。


 だが、萬姜。おれがもとの体に戻る間に、助けを呼ぼうとしてもそれは無理だ。おれの時の流れは、下界とは比べものにならないほどにゆったりしている。それゆえにいまここの時は止まったも同然だ。おまえ以外に誰も動くことはできない。


 おれの言葉が理解できたなら、頷いてみせろ」


 かくんと首を折って頷きながら、萬姜は思った。


 ……昼間も、ドジな女だ勘違い女だと、彩楽堂で舜老人の屋敷で、さんざんにからかわれた。同じことが一日に三度も起きるなんて、いくらなんでもあり得ない。これは夢に違いない。眠れないと思っていたのに、あたしったらいつのまにか眠ってしまっている……



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