第30話 青白く燃える月明かり


 夜具に潜り込めばすぐに夢の世界の住人となる萬姜だったが、その日の夜はなかなかに寝つけなかった。


 暗闇の中で目を瞑れば、豪商らしい余裕の笑みを浮かべた彩楽堂と、年齢すらさだかではない染みと皺の浮いた舜老人の顔が、瞼の裏側に交互に現れる。姿が現れれば、彩楽堂の男らしい深みのある声と、老人の「ふぉ、ふぉ、ふぉ」という怪しげな笑い声が耳の奥でこだまする。


 眠るのを諦めて目を開ければ、外は満月のようだ。


 玻璃をはめ込んだ小さな丸窓から、青白い煌々とした月明かりが一筋、部屋の中に流れ込んでいた。夜具の中に亀のように引っ込めていた首をもたげて枕もとを見れば、彩楽堂からもらった黒漆の針箱が、月光を受けて銀色に輝いている。


……これで何を縫おうかしら。彩楽堂さま直々に、お嬢さまのお着物を好きに仕立て直してもいいと言ってもらったことだし。そのうえにあたしの仕立て直したお着物はお嬢さまによく似合っていると、褒めてもくださった……


 そんなことを考え始めるとますます眠れない。


 はぁっとため息を吐いて、慌てて隣の部屋の様子に耳をそばだてる。日中に遊び疲れた少女の眠りは深いようで、寝息も寝返りの気配も伝わってこなかった。




 萬姜は少女の寝室の隣の部屋で、毎夜、床敷きした夜具で眠っている。夜中に少女に何ごとかがあれば、すぐに飛び起きて対処できる算段だ。

 しかし今のところ、そのようなことは起きていない。


 いつも、少女の眠りは深い。


 言葉を喋ることができず、記憶も長く保てない可哀そうな少女だからこそ、一日の終わりの眠りはやすらかにそしてよい夢を見てほしいと、萬姜は願う。そう願えば、自分のための寝室も寝台もないことに不満も感じない。


 梨佳と嬉児は、奥座敷の端にある納戸を片づけてそこを寝室としている。

 雑多な家具や道具類を隅に寄せての、やはり床敷きにした一つの夜具に二人で身を横たえる窮屈な生活だ。


『ここでのおまえたち母子の立場が安定したものになれば、それなりの待遇を考える。それまでは不自由ではあろうが、しばらく我慢せよ』


 先日、いつもの就寝前の報告のときに家令の允陶にそう言われた。


『いえ、不自由などとは思ったこともありません、いまの暮しで十分でございます』


 ほんの数か月前に、鬼子母神の再会門の下で首を吊る木の枝を探していた立場からすれば、いまの暮しはまるで夢のようです――、とまでは、言えない。

 彼女の返答に、慇懃無礼が着物をまとったような允陶が、とがったネズミ顔の薄い唇の片端を上げた。


『おまえは騒がしくてドジな女だが、欲のないところは美徳だ』


 だが、褒め言葉だか皮肉だかわからない言葉は、萬姜の耳は入らなかった。

 今夜も、自分の言葉に、家令が笑ったことが嬉しい。


 彼の不幸な身の上話は、洗濯女や炊事女たちの噂話として聞いている。そのために年齢は萬姜よりも少し上ではあるが、家令を見ると息子の範連と重なる。その家令がたとえ冷笑であっても一日の終わりにかすかに笑うと、萬姜はほっとする。


 その範連は十歳という子どもでありながら、男ということで奥座敷で母や姉妹と暮らすことは認められていない。昼は薪割りと水汲みにいそしみ、夜は大勢の下働きの男たちとともに雑魚寝している。


 それでもその賢さが少しずつ認められて、医師の永但州の薬箱持ちとして重宝されているとか。その永医師は、そもそも怪我人の手当が目的なのか、それとも幼馴染みだという荘興相手に遊びに来ているのか、わからないところはあるが。


 亀のように夜具の中に首を縮こまらせ、そしてやはり眠れないと首をもたげては枕もとに置いた針箱を見る。


 その繰り返しの何度目のことだろうか。

 針箱がひときわ美しく輝いていた。


 鏡の表面のように黒漆が重ねられ、美しく咲き乱れる花々が緻密な螺鈿細工でほどこされている。小さな明かり取りの窓から漏れる冴え冴えとした月光に照らされて、先ほどまでも美しく銀色に輝いてはいたが。


 どうしたことだろう、いま目にする輝きはその輝きとは違う。


 まるで銀粉をまぶしたような眩しさで、暗闇の中で浮き上がっているようにさえ見える。尋常なことではない。


 初冬の夜空に浮かぶ満月と小さな明かり取りの窓と針箱が一直線上に並んだのか。


 萬姜は頭をまわして小さな窓を見上げた。桟にはめ込まれた玻璃が青白い炎の中で燃えるように輝いている。部屋を見まわすと、中庭に面した戸という戸、窓という窓の隙間から銀色の光がまるで漏れこぼれるかのように射していた。


 ……満月だとしても、この光の色は、月明かりにはしては明るすぎる。夜の警備の男たちが手に持つ松明でもないようだし……


 萬姜は聞き耳を立てた。

 このように外が明るければ、また火事であれば、騒ぎ立てる人の声がしても当然だ。


 ……あまりにも静かすぎる……


 そのとき、夜具の上に身を起こした萬姜の耳に彼女の名前を呼ぶ声がした。


「萬姜、旺萬姜、……」


 男の声だ。


 ……誰かが、あたしを呼んでいる?……


 慶央で知っている男たちの顔を思い浮かべながら、その声を思い出す。


 それは荘本家・宗主の有無を言わさず人を従わせる野太い声でもなく、聞き慣れた家令の苦笑の混じった声でもない。彩楽堂の物腰柔らかで耳に心地よい声でもなく、舜老人の抜けた歯の間から漏れる声でもない。永医師でもなく範連でもない。


 〈熊〉は……。「ああ」とか「うむ」としか言わないあの人だろうか。しかし、男は立ち入り禁止の奥座敷の庭に立ち、<熊>が自分の名前を呼ぶ理由がない。


 萬姜はそろりと夜具の中から抜け出して立ち上がった。


 寝衣一枚の体に冷気がしみる。

 しかしそんなことを気にはしていられない。


 ……中庭に立つ怪しい男から、いま、あたしがお嬢さまを守らなければ、誰に守れるというの?……




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