銀狼と青龍

第29話 萬姜の3人の子どもたち


 慶央の街の散策を終えて、少女と萬姜たち一行が荘本家の屋敷に戻ったときには、初冬の弱々しい陽射しは西に傾いていた。薄茜色に染まった空は明日の快晴を約束し、明け方には今日と同じように冷え込んだ道に大霜が降っていることだろう。


 屋敷には彩楽堂からの針箱が二つ届いていた。


 物欲しそうに思われてはと、あの時はまじまじと見るのがためらわれた。いま、手に取りゆっくりと眺めると、その作りといい細工といい、新開の田舎町ではけっして手にすることは出来ない品物だとあらためて思う。


 蓋を開けると、針・糸・指ぬき・鋏などの縫い物に必要な小物と、凝った飾り釦もいくつか収められていた。このように美しい飾り釦など萬姜のいまの生活では使い道はないのに、掌に載せてしげしげと眺め撫でてしまう。

 自分はほんとうに縫い物に関わることが好きなのだ。




「まあ、お母さま。ほんとうに戴いてよいのでしょうか?」


 赤い針箱を手渡すと、梨佳がためらいがちに言った。


「あたしもそう思ったのだけど……。家令さまがもらっておけと言ってくださったのです。こうして戴いてしまった以上は、彩楽堂さまのご厚意を無にすることなく大切に使いましょう」


 母の言葉に、十七歳の色白な梨佳の顔が喜びで赤く染まった。

 針箱を持つことを、この子も喜ぶ歳になったのだと萬姜は思う。


……そのうちに、よい嫁ぎ先を探してやらなくては……


 そうも思ったが、慶央には相談できる人はいない。

 その前途多難にため息がでる。


 梨佳は未婚の姉が命をかけた難産の末に産んだ子だった。


 父親である男は姉と相思相愛となり婚約までしたが、ある日、「都の安陽に行く」と言って新開の町を出て、そのまま帰ってこなかった。その後の便りもなく、生きているのか死んでいるのかもわからない。


「必ず帰ってくる。待っていて欲しい」と告げた男と姉の間に別れを惜しんで何が起きたのか。結婚して出産の経験もあるいまの萬姜だったら想像できるが、まだ十三歳だったあのときの彼女には無理なことだった。


 必ず帰ってくると約束した男は戻ってくることなく、日増しに膨らんでくるお腹を抱えた姉の焦燥は大きかった。それは出産に耐えられないほどにその心と体を蝕んだ。


 可愛らしい女の子を産んだものの自分の死を悟った姉は、枕元に座る萬姜の手をとって赤子の将来を託した。


「萬姜、わたしの可愛い妹。あなたの心根がとても強く優しいことは、このわたしが一番よく知っています。だから、あなたにこの子の母親になって欲しい。そしていつかあの人に逢わせてやって欲しい。約束してね」


 そして、萬姜の手の平に梨佳と書き、「り・け・い……」と呟いて息絶えた。


 あの日のことを思い出すと、いまだに目の奥が痛み涙がにじんでくる。

 心配そうに萬姜の顔を心配そうにのぞき込んで梨佳が訊く。


「お母さま、大丈夫ですか?」


 萬姜は滲んだ涙を指先でぬぐった。


「あっ、ほらね、今日はあまりにも多くのことがあったから。さすがのあたしも疲れたみたいだよ」


「そうですよね、ほんと、いろいろあって……」


 そう言って、梨佳がくすくすと笑う。


 屋敷に帰ってきた萬姜は、彩楽堂では喜蝶さまの着物を勝手に仕立て直したことを叱られるのかと、生きた心地がしなかったこと。そして舜老人の屋敷ではあわてて飲んだ熱い茶で舌を焼いたこと。

 などなどを、事細かく梨佳に話して聞かせたのだった。


 梨佳の笑いはそれを思い出してのことだ。


 萬姜は太っている自分の見かけが残念なことを知っている。

 美人でないことも知っている。

 正しいと信じこんだら、猪突猛進してしまう困った性格であることも知っている。


 そのために数えようがないほどの恥を掻いてきた。

 面と向かって蔑まれたことも何度もある。


 でも、もう一つ、彼女はとても大切なことを知っている。

 悔しさや恥ずかしさを笑い話にして、親しい人に聞いてもらうと心が晴れやかになることを。


 話す相手は幼いときは父母であり姉だった。

 結婚して夫となり、いまでは大きくなった梨佳だ。


「そうだよね。あたしも『ああ、またやってしまった。次からは借りてきた猫のようにおとなしくしていよう』とは、いつも思ってはいるんだよ」


「ほんと、お母さまらしい」


 身振り手振りを加えて話し終えた萬姜に、梨佳はふたたびくすくすと笑いながら言う。今はもう死んでしまった父母や姉や夫も、萬姜の性懲りもなく繰り返す失敗に「ほんと、おまえらしい」と言ったものだ。


「あたしのこの太った体と、猪突猛進してしまう性格はいったい誰に似たのだろうね」


「そんなことを言わないでください。わたしも範連も嬉児も、そんなお母さまが大好きですわ。そして喜蝶さまもきっと……」


 その言葉と同時に二人は隣の部屋にいる少女と嬉児を見た。


 彩楽堂から少女への土産物は美しい着物を着た人形で、舜老人のそれは子どもむけの絵草紙だ。彼女たちはそれらを床に広げ、白い髪の頭と黒い髪の頭をくっつけるほどに身を寄せて遊んでいる。


 遊んでいるといっても、言葉が不自由で記憶が長く保てない少女を相手に、六歳の嬉児の独壇場だ。身振り手振りにおおげさな言葉。わかっているのかわかっていないのかは伺い知れないが、嬉児のお喋りに楽しそうに少女は頷く。


 梨佳の美しさと優しさは姉に似て、その賢さは父親になるはずだった男に似たのだろう。男は学者の家の出身で、新開の街で塾を開き子どもたちを教えていた。


 その男の名前と素性は父母から聞いている。

 嫁ぐ日が来たら、梨佳にも教えてやるつもりだ。


 そして、範連はその体格も気性も夫にそっくりだ。継がせるべき店は失ってしまったが、あの子ならきっと自分の人生は自分で切り開いていくはず。


……そしてそして、嬉児は。あらまあ、あの嬉児のおしゃべり好きとおっせかいな性格は、あたしにそっくりだわ……




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