第28話 天命って?
投げ寄こされた手巾で、濡れた着物の裾と卓の上をぬぐう。
その間に、允陶は空になった萬姜の茶器に新しく茶を注ぎ、舜老人にも二杯目の茶を淹れた。
自分を見咎めるような男二人の視線にいたたまれなくなり、萬姜は茶器に手を伸ばし新しく注がれた茶に口をつける。允陶の舌打ちが聞こえたのと、熱い!と思ったのは同時だった。
「そそっかしいおなごが!」
「萬姜さん、なにもそのように焦ることはない」
そう言われて、舜庭生と允陶が自分を見つめていたのは、次の自分の粗相を心配してのことだったと知ったがもう遅い。吐き出すわけにもいかず、熱い茶を口に溜めたまま目を白黒させるしかなかった。
「まあ、熱い茶くらいで死ぬこともなかろう」
慰めとも諦めともつかぬ言葉を舜庭生は呟き、允陶は水差しより冷たい水を萬姜の空の茶器に満たした。
そして男たちはふたたび萬姜には理解できない会話に戻った。
「中華大陸の西の果てから東の果てのこの青陵国に、荘興さんを頼って、喜蝶さまは来られたのだと思っていたが。萬姜さんの武勇伝を伝え聞いてな。これはもしかすると萬姜さんだったのかと、考えを改め始めていたところじゃ……」
老人の言葉に允陶が疑問を口にする。
「このどじな萬姜を、喜蝶さまがお頼りになられたと? ご老人のお言葉でも、それはありえない」
「それは言い過ぎじゃぞよ。だがな、允さん。さきほど嬉児ちゃんを見て、頭を悩ましていた問いに、わしは答えを見つけたようじゃ」
満足げにそう言うと、舜庭生は茶器を取り上げふうふうと息を吹きかけゆっくりと茶をすすった。どこまでも落ち着いた老人の態度に珍しく允陶が食い下がる。
「宗主でもなくこの萬姜でもなく、あの生意気盛りの嬉児ですと? 嬉児はまだ自分の身でさえ自分で守れぬ、六歳の子どもですぞ。世の中を知り尽くしたご老人のお言葉でも、それは信じがたい」
「ふぉ、ふぉ、ふぉ。この下界は神々が気まぐれに造られたもの。それゆえに、下界は不思議に満ち満ちておる。知ると知らざるとにかかわらず、人はそれに従うしかないのじゃ。それを定めとか天の采配とか、皆、わかったふうなことを言っておるがな」
「わたしに言わせれば、ご老人のお言葉こそ、不思議に満ち満ちています」
「ふぉ、ふぉ、ふぉ。允さんこそ、巧いことを言うではないか。そうそう、定めと言えば、荘さんが三男の英卓さんを呼び戻すことを決心されたとか。これぞ天の采配と言わずしてなんと言うべきか」
「もうそのようなことが、ご老人の耳に! しかしながら、いまここでその話は……。萬姜が聞いております」
「萬姜さんのことであれば心配することはない。聞いていたところで、理解はむつかしいようじゃがな。ふぉ、ふぉ、ふぉ」
冷たい水を飲みほしてやっと人心地つき呆然としている萬姜をちらりと見やると、老人は言葉を続けた。
「わしの耳に入っているということは、すでにあれの耳にも入っているということよ」
「知恵者の関さまと堂鉄が念入りに準備はしていますが。英卓さまを無事に連れ戻す勝算は五分五分。いや、四分六分かと……」
「慶央に血の雨が降るか……」
まったく理解できない男二人の会話だったが、血の雨と言う言葉にぎくりとして萬姜は老人の顔を見た。萬姜をひたと見つめる小さな二つの目がきらりと光ったと思ったが、それはすぐに柔和な色となった。
「喜蝶さまもこのまま荘家の屋敷に留まるとなれば、巻き込まれるに違いない。萬姜さん、心して、喜蝶さまをお守りしてくだされ」
萬姜は再び頭をかくかくと振って頷いた。舜老人と家令の会話は理解できないが、白い髪の少女を守るという彼女の固い決心は変わることはない。
「わたしと子どもたちの命はお嬢さまに助けられました。お嬢さまをお守りするのに、この命を惜しいとは思いません」
「これは心強い言葉だ」
老人は満足げに言い、しかし、信じられぬと言いたげに、允陶だけはいつものように冷たく鼻先で笑う。
そのとき、部屋の外で声がした。
「ご主人さま、失礼します」
静かに戸が開いて一人の下僕が姿を現した。胸の前で囲った両腕の中に頭を垂れたまま告げる。
「昼餉の支度が整いました。皆さまはもう席について、ご主人さまと允さまと……」
そして言葉に詰まった男は顔を上げてちらりと萬姜を見た。侍女という身でありながら主人たちと同席して茶を飲んでいる萬姜のことをなんと言ったものかと迷ったようだ。彼は言葉を濁して続けた。
「……、そしてそちらのお方をお待ちなされておられます」
「おお、そうであった。長話に花を咲かせ過ぎたようじゃ。すぐに参ると皆に伝えてくれるか」
「承知しました」
恭しく礼をして下僕は部屋を出て行く。それを合図に允陶と萬姜は立ち上がったが、舜庭生は座ったままだ。
左膝を撫でている老人に向かって允陶が心配そうな声で尋ねる。
「ご老人、膝が痛みますか? 手をお貸しいたしましょう」
「いやいや、大丈夫じゃ」
卓に両手をついて立ち上がった彼は左足を一歩踏み出した。
「おお、なんと不思議な……。あれほど辛かった膝の痛みが消えている。棺桶に突っ込んでいた左足を引き抜いたような爽快な気分じゃ。允さん、どうやらわしはまだまだ生きてなさねばならぬことがあるようだ。これはまさしく天命に違いない」
そして允陶と萬姜が見守る中、部屋の天井を見上げた彼は楽しくてたまらないといった様子でひとしきり笑った。
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