第27話 あたしには難しい話ばかりです
允陶とともに案内された舜邸の客座敷は、彩楽堂のそれとはまたちがった贅の極みだった。
部屋を取り囲んだ飾り棚や部屋のあちこちに置かれた小さな卓の上には、所狭しと美しい壺や皿や置物が並べられている。商談目的のために彩楽堂の広い客座敷があるとすれば、舜邸の客座敷はその設えで古物商という商いのすべてを語っている。
無作法であることも忘れて、萬姜はきょろきょろと部屋を見回した。
『舜ご老人は口頭で客の注文受けてから、屋敷の蔵の中や中華大陸に散らばる伝手を頼りにその品を、あるいは客が満足するような替わりの品を探しだしてくる』と、家令は言っていた。この座敷に通されたものは、自分の探し求めているものは必ずあると思うことだろう。それどころか、時代も定かでない古物がつくりだす闇の奥には、あの世に行く道に迷った人の魂さえもあるような気がする。
……もしかして、一年前に逝ったあの人の魂も? 腑抜けたあたしが心配で、あの人もあの世にまだ行けていないとか。慶央の暮しが落ち着いたら、故郷に戻ってお墓参りしなくては。今のあたしや子どもたちを見れば、あの人も安心してあの世への橋を渡れるはず……
青磁の小さな壺にまとわりついていた黒い影が、萬姜の想いに呼応して揺れる。
背筋に冷たい汗が流れ、彼女は身を震わせた。
「ふぉ、ふぉ、ふぉ、……。萬姜さん、なんぞ、気に入ったものでも?」
彼女の様子を見た老人が笑いながら問う。
萬姜は慌てて頭を左右に振った。
「ご存じかな、作られた時代も定かではない古物は、人の魂を取り込むと言われておる。もしや、この中のどれかに、萬姜さんの知っておられるお人の魂が?」
心の中を見透かしたような老人の言葉に、もう一度、萬姜はよりいっそう激しく頭を振った。
「ご老人。体は大きくても萬姜の肝っ玉はウサギ並みだ。眠れないなど言い出したら、あとが面倒だ。怖がらせないでいただきたい」
「ほう、そうかな? 鬼子母神の縁日で人買いの男より喜蝶さまを助け出したという武勇伝、わしの耳にも入っておるぞ」
「屋敷の中に籠られているというのに、そのようなことまでご存じとは」
「允さんも知っておるだろう、わしの体はここにあっても、目と耳は慶央のいたるところにあるのじゃよ」
「いや、慶央どころか、中華大陸のそこかしこにもあると聞いていますぞ。ご老人の千里眼と地獄耳に、荘本家は何度も助けられました」
「そんなことがありましたかな。ふぉ、ふぉ、ふぉ」
舜庭生と允陶の会話についていけない萬姜はそのどんぐり眼をただぱちぱちと瞬くだけだ。
「ところで、萬姜さん。允さんの淹れた茶を飲んだことはおありかな?」
「えっ? そのような畏れ多いこと……」
またまた老人の話は萬姜の予想外のところに飛ぶ。
そう答えるのが精一杯だ。
「彩楽堂さんの茶も美味いに違いないが、允さんの淹れた茶もなかなかのものだ。屋敷に籠るしかない日々の、わしの唯一の楽しみなんじゃよ」
「舜ご老人。ではお言葉に甘えて、一服、お立てしましょう」
そう言って立ち上がった允陶は、鉄瓶がおかれた風炉とこまごました茶器が並べられた卓の前に座り直した。そして慣れた手つきで茶を淹れはじめる。
彩楽堂は男らしく豪快な所作で茶を淹れたが、允陶のそれは流麗で繊細だ。
……淹れる人が違うと、お茶の味も変わるなんて……
と、茶葉が替わってもその味の違いがわからない萬姜は思う。
それにしても、今日のたった半日で、豪商の屋敷二つに招き入れられた。それぞれの屋敷の贅沢な設えにも驚いたが、そこの主人たちの語る言葉の内容にも驚いた。
いや驚くどころか、彼らの言葉は難しくて半分も理解できていない。
美しく白い髪の少女の侍女として働きだし、慣れるということだけで慌ただしく過ぎていく日々だった。
それがいま、自分が生まれ育ったところとはまったく違う世界に足を踏み入れたのだということに気づいた。二人の男たちに悟られないように、彼女は長い息を吐いた。
……ほんとにあたしったら雌鶏だわ。見ているのは目の先三寸のところだけで、周囲なんて見ようともしていなかった……
煮立った鉄瓶から青く爽やかな香りが立ち上がる。
それを竹の柄杓で掬って茶器に注ぎ淹れ、允陶は老人と萬姜の前に置いた。
茶を一口すすった老人が言う。
「允さんの茶の味はさすがですな。この茶を毎日飲める荘さまが羨ましい。そうそうさすがと言えば、さきほどの堂鉄さんの対処もさすがというしかない。関景さんが重宝して、堂鉄さんをご自分の手足のごとく使っておられるということが……」
老人の言葉をさえぎって萬姜は立ち上がった。こぼれた茶が着物の裾を濡らしたが、それにかまわず豊満な体を縮こまらせて床に平伏する。
「あ、あのときは、嬉児が大変に失礼なことをいたしました、わたしの母親としての躾が行き届かないばかりに……」
「萬姜さん、そのようなことをしてはいかん。立ち上がりなさい。この話は、おまえさんを責めているのではないのだからな。さきほども言ったと思うが、嬉児ちゃんは賢く勇気がある。萬姜さんの育て方がよいのであろう」
それでも平伏したままの萬姜を、允陶が射殺すような視線で睨んだ。その声も氷のように冷たい。
「萬姜、立て。ご老人に感謝せよ」
その言葉にぐずぐずと萬姜が立ち上がり座り直すと、彼は拭けとばかりに乾いた布を投げてよこした。そして彼女のために新しく茶を淹れなおしながら、老人に向かって言葉を続けた。
「堂鉄は普段は口がないのかと思うほどに静かな男ですが、いざという場面で機転が利きます。あのとき、嬉児の生意気な態度をわたしが咎めたら、ご老人も仲裁に入りにくく、そうなれば嬉児と仲のよい嬉蝶さまのご機嫌を損ねることになったでしょう。喜蝶さまはあのご気性です。そのまま屋敷に戻ることになったかも知れません」
「ふぉ、ふぉ、ふぉ。その通りじゃ。あのときはわしも感極まって、たしかに嬉児ちゃんの言うように愚かなことを口走ってしまったな」
「この屋敷で見聞きしたことは、けっして誰も口外することはありません」
そう言いながら、家令はまたまた萬姜を睨む。
鋭い視線が萬姜の心の臓を鷲掴みにする。
操り人形のように萬姜はかくかくと首を縦に振った。
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