第24話 螺鈿細工が美しい二つの針箱
允陶の薄笑いを受け流して、彩楽堂は言葉を続けた。
「……、喜蝶さまのお着物で、いつ彩楽堂の身代が傾くかとひやひやしておりましたが。萬姜さんという心強いお方が現れて、ほっと胸を撫でおろしたところです」
「だからあの時に、やめておけとおれは言ったはずだ」
いつものことではあるが、允陶の声は抑揚なく冷たい。
「さようでございました。ついついあのときに、彩楽堂の名誉にかけてなどと、大口を叩いてしまったわたしが愚かでした」
「つまらぬ意地を張るからだ」
「しかし、これからは萬姜さんの知恵をお借りして、喜蝶さまに喜んで着ていただくお着物をあつらえることが出来ます。允さま、おおいに儲けさせていただきます」
「たかがおなごの着物くらいで身代が傾くような荘本家ではない」
「それを聞いて安心いたしました」
彩楽堂は磊落に笑った。
彼の笑いにつられた允陶も珍しく声を立てて笑う。
しかし、思わず口走ってしまったことが、二人の男たちの怒りを買えこそすれどうして笑いとなるのか。状況を理解できない萬姜は、彼らの楽しそうな顔を交互に眺めるしかなかった。彼女の戸惑いに気づいた彩楽堂が言う。
「おお、そうでした。萬姜さんのおかげで久しぶりに楽しい想いをして、肝心なことを忘れていました。萬姜さんは、針と糸をお求めとか。こちらで用意したものを、気に入ってくださるとよろしいのですが」
彼はそう言うと二度手を叩いた。
すぐに現れた使用人が頭を下げたままで言う。
「ご主人さま、お呼びでございましょうか?」
「こちらの萬姜さんのために用意しているものを持って来なさい」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
そう言って引き下がった男は次にその姿を現したとき、三人の男を引き連れていた。二人の男たちはそれぞれの手に箱を掲げ持ち、三人目の男は反物を積み重ねた盆を持っていた。そしてその二つの箱と反物を萬姜の前に恭しく並べ置くと、四人揃って部屋を出て行った。
箱の一つは黒く、もう一つは赤い。
光沢を放つ漆が塗られ、咲き乱れる花々が螺鈿細工で施されている。
それがどこかの令嬢の嫁入り道具としても恥ずかしくない針箱であることは、呉服屋育ちの萬姜にはすぐにわかった。そして反物は絹ではあるが、その色味をおさえていて品がある。萬姜の目は反物に釘付けになった。
……この針箱を手元において、この反物で梨佳と嬉児の着物を縫ってやったら、どんなに楽しいことだろう。でも、でも、……。
彼女は両手で胸もとを押さえた。その下に忍ばせている銭の入った巾着の小ささは、彩楽堂の門をくぐった時に確かめている。いまさら触ってみたところで銭が増えて大きくなっているはずもない。正直に言うしかなかった。
「彩楽堂さま、わたしが欲しいのは針と少しばかりの糸でございます」
「ええ、この針箱の中にご所望の針と糸が入っています。お年頃のお嬢さまがおられると允さまよりお伺いしていましたので、色違いで二つ用意いたしました。それからこちらの反物は、萬姜さんと可愛らしい二人のお嬢さんにお似合いの色柄を、わたくしが見立てたものにございます。気に入ってくださるとよろしいのですが」
彩楽堂の主人に見つめられて萬姜は思わず恥じ入って目を逸らす。
またまた顔から火が出る思いだ。
……貧しいものの懐事情なんか、お金持ちの彩楽堂さまには想像もできないのだわ。遠回しに言ってもわかってもらえないのであれば……
正しいと思えば猪突猛進する彼女を誰にも、いや、自分自身でさえ止めることは出来ない。萬姜は叫んだ。
「たとえ気に入ったとしても、わたしには買えません! 絶対に!」
その声がよほど大きかったのか、それとも彼女が叫んだ言葉の内容がこの静かな部屋にはふさわしくなかったのか。横に座っていた允陶の体がぴくりと跳ね上がった。彼が噴き出しそうな笑いをこらえたのだとは、彼女は知るよしもない。
これ以上は無理というところまで豊満な体を縮めて彼女はどもりながらも言う。
「か、家令さま。けっして、お給金が少ないとかそういうのではなくて。彩楽堂さまの品々は、わたしにはもったいないと言おうとしただけです。も、申し訳ございません」
そう言い終えたあと、彼女の頭は三度目に垂れ下がり、額はまた卓上にぶつかった。彩楽堂の慌てふためいた声が、頭上から聞こえてきた。
「萬姜さん、だ、大丈夫ですか。ああ、見ていられない。お願いです、どうか、顔を上げてください。萬姜さんは思い違いをされている。お買い上げいただくなど、とんでもないこと。この二つの針箱は、彩楽堂からのお礼の気持ちでございます」
「えっ、お礼とは?」
彩楽堂の言葉の意味を測りかねて、素っ頓狂な声をあげて萬姜はおもわず顔を上げた。目の前に丸く大きな目をした男の顔があった。見開いたその目の色の中に、細めているときには解らなかった彼のすべてが無防備に透けて見えていた。
「喜蝶さまのお着物への助言です。針箱二つでは足りないほどにありがたく思っています」
「そのようなことに、お礼などと……」
「それよりも、おでこは大丈夫ですか。かなり赤くなっています。店のものに塗り薬を持って来させましょう」
二人に任せていたのでは埒があかないと思った允陶が横から口を挟んできた。
「彩楽堂がそう言うのだ。萬姜、つべこべ言わずにもらっておけ。次に行かねばならないところがある。時間が惜しい」
逆らえない威圧感が允陶の冷たい口調にはある。
それでも受け取れないと言いつのろうとした言葉を彼女は飲みこんだ。しかし、やはり言わなければならない。
「お言葉に甘えて、針箱二つは嬉しく頂戴いたしたく思います。でも、お着物の反物は受け取ることは出来ません。いつの日か給金を溜めて参りますので、その日までどうか預かっておいてくださいませ」
すでに、彩楽堂の目はもとのように細められていた。
そして声も客を相手にする商売人に戻っていた。
「おや、萬姜さんはまだお気づきではないと。もう、支払っていただいたも同然でございますよ。店の外に出れば、わかっていただけることと思います」
そして、苦笑いを浮かべている允陶に向かって言葉を続けた。
「さすが、允さまはわかっていらっしゃるようでございます」
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