第31話 想いが沸き立っていくの

 漏れ聞こえてくる静かな音楽が小鳥の囀りに聞こえてくる。

 体の中から出し切った開放感と、途中で粗相をしなくて良かったという安堵感。

 帰りの電車の中で火急にトイレに入らないといけない事態に陥り、あわやという時に空いている個室に飛び込めたというわけ。神様と翔に感謝しきりですね。


「ほぅ」


 晴れ晴れとして嬉し溜息が私の唇から漏れて出てしまう。嬉し涙まで一雫流れたよ。


「翔も言ってたじゃない。冷たいものを食べすぎて、どうなっても知らないよって」

「だって、しょうがないなり、物凄く興味あったなしー。あんただって一口食べたら美味しいって絶賛してたなりよ」

「うっ、それを言われると、何も言い返せないよ。おんなじ舌で味わってるから、しょうがないよ」

「そうそう、ウチらは一連托生。酸いも辛いも分かち合うってなしな」


 まるで、2人で話しているみたいでしょ。

 でもね。違うの。1人なのね、ひとつの体に2人が入っている。1人は茉琳って女の人。そうして私は茉莉。彼女の体に間借りをしています。茉琳が自分の体いらないなんて、変なことを言うもんだから、死んで魂だけだった私が入り込んでいます。

 彼女は事件に巻き込まれて死にかけ、自分の体を離れようとしていて、とんでも無いことに近くに浮霊していた私を押し込めようとするんだよ。信じられないでしょ。

 勝手が分からず途方に暮れるのがわかっていたから、去り行く茉琳を何が何でも引き止めて押し戻して彼女の体に同居するということに至っています。


「もう。あなたのせいで、新幹線に間に合わないかもしれないのに。翔が待ってる

。早く行こう」 

「アイアイマム。了解であります」

「ふざけないの」

「はいなり!」


 私は、あったかい便座から立ち上がり、ショーツを上げてパンツも履き直していく。ちょっとクロッチが黄色くなっていたけど、気になる程ではなかったんでホッとしている。トイレの個室を出ていくと、手洗いのところにある鏡には自分の姿が映っている。黄色く染めた髪の色が落ちているところが広くなっている。いずれは染め直すなり、短くして元の色に戻そうか。考え中。翔はなんていうかな?

 パンツのポケットからハンカチを出して口に咥える。手を洗わなくっちゃ。そのまま鏡をのぞみこむと、本当にスッキリした顔になっている。

 それまで、どこかズレてピントがボケていた表情もシャキッとしている。なんでかな? 不思議に思うよ。


「どうしたなり? ポケッとして。ウチの顔に何かついているなしか?」


 私は思っていることを口にしてみる。


「茉琳の顔ってよく見ると綺麗なんだね」

「今更、何いうだし。ウチは、それなりに綺麗って言われてるえっ」

「だって、いつも視線か微妙にズレてどこかピントがズレてる感じしてたんだよ。それが違う」

 そうなんだよ。茉琳の顔ってどこかボオッーとする感じがして閉まらない顔つきだったんだ。

 それが、今、鏡に映っているのは、くっきりとした顔立ちをしたとびっきりの美人さんなんだ。


「茉莉もわかるなしか。ウチもそう思ってたなし、あきホンちであの文字ぴあ見てから………」


 そう、お友達のあきホンの実家はお寺さん。そこにある石柱に刻まれた文字を見てから、変だった。変て言うより、頭の中がガラリと変わってしまった気がする。

 それまでモヤモヤッとしてドロドロッとした感じが無くなって、澄み切ってクリアーになったのね。


「頭の中がくっきりとして視界が晴れた感じがするなりな。茉莉もわかったなしね」

「うん、それに心の奥から何か湧き上がってくるの。嬉しいって言うか何かの」

「胸の中で喜びが渦を巻いているなし。物凄く。あっー、この感情をぶつけるものあるなり」

「それって?」

「ここに来た時にした、え!」

「あぁ、あれね」


 濡れた手を綺麗に拭き取り、洗面台を離れて外へと向かう。トイレに通じる通路の壁に寄りかかっている翔の姿を発見。

 てっきりスマホを見て画面をスクロールやポチポチしてるいるのかと思っていたのだけれど。違った。胸の前で両手の指を絡ませて、ぎゅと手を合わせて何か一心不乱に祈っている感じがしたの。


「見て、あれ。学校の合格発表を見に来た受験生みたいなり」

「違うよ。翔のことだから、私たちが途中で大事件にならずに用を足せるよう、祈ってくれているのよ。彼、優しいから」

「''彼''だって惚気てるしぃ)

「茶化さないで? 行くよ」

「ほい………なしえ」


 茉琳が渋々返事をして翔に近づいていく。彼にはハラハラさせてしまったのだから、眉尻を下げて、申し訳なさそうな表情を見せよう。


「翔! ごめんなしな。待ったぁ?」


 セリフからすれば、銭湯の暖簾の外で彼氏ををまたせた彼女が言うことなんだけどね。

 私の声に気づいたのか、翔は手を解いて、こっちに、顔を向けた。心配になってか、探るように見てくる。

 私は徐に手を上げていき、顔の前で一度止めて、次に笑顔になって腕を上げ頭の上で丸印を作った。

 翔の顔に安堵の表情が現れた。


「大丈夫だった? 気が気じゃなかったよ。もう」

「ごめんなっし。翔。ギリギリセーフなり」


 手のヒラを下に向けて左右に広げて、セーフのジェスチャーをする。次いでにお詫びのつもりで胸を軽く振りブルンとシャツを振るわせてみたよ。

 翔は頬を赤くして視線を泳がせる。茉琳にはできるんだよね。私だった体の胸じゃフルッぐらい。服の上からだとわかんないじゃないかなあ。なんか悔しい。


「おかげで何とか間に合ったなり。アドバイスありがとぅえ」

「本当にどうなるかと思ったよ」

「で、翔。新幹線は間に合うなしか?」


 と言うなり、頭上をゴウンゴウンと何か大きなものが転がるような音が聞こえてきた。


 もしかして?


「間に合わなかったよ。今の音がそうだよ。あ〜あ」

「全く待ってすまんこってす」


 私は翔に向かって最敬礼をして謝った。自分のやらかしたことに翔を巻き込んでしまったの。申し訳なくて。


「もともと、茉琳が見たいって番組があるって言うから急いだんだよ。まあ、あと20分待てば次の各駅停車が来るから、それ乗ろう」

「うっ、わかったなし。見るのは諦める」


 テレビが見れないのは残念だけど、今、私の中で気持ちが一杯になって外に吹き出そうとしている。


「じゃあ、時間あるなし! なら翔。ウチ、ピアノ弾きたい。よいかぁえ」


 私は翔に詰め寄って、眼を眼を見つめ彼の手を取り、お願いする。ぎゅーっと、胸の谷間に埋め込むつもりで抱きしめた。


「わぁー、茉琳! こんな人目の多いところで何するの」


 真っ赤になっていく顔を左右に振って人目を翔は気にし出していく。もうひと押しかな。

「お願い、翔」

「わぁった、わぁったから。時間までなら気に済むまで弾いていいよ」


 翔は優しいから、私のお願いを聞いてくれる。だから遠慮もしなくちゃいけないけど、私の胸の奥から溢れそうな想いが私を押していく。


「ありがとうね。翔」


 名残もあるけど、翔の発作もでちゃいけないから、私は翔の手をそっと離し彼から離れて通路を歩きコンコースへ向かう。のだけれど、


「キャン」

 

 コンコースのツルツルする床に履いてるミュールが滑って、尻餅をついてしまった。前のめりになって手をつく事態にならなくて良かったよ。指を痛めたら茉琳に怒られる。 


 ほんまに何しとう! 茉莉のアホ。後はウチがやるさかい、ひっこんどきぃ。


「ピアノを弾きたいって気持ちはわかるけど、慌てて転んじゃダメでしょ」


 後ろにいる翔に呆れられて叱られたやないかい。そう言いながらも彼は手を差し出して、ウチの手を取ってくれたん。


「おおきにや。翔」

「どういたしまして」


 周りを見渡して、誰にも注目されていないかを見定めて、ウチの手を取ってひっ張ってくれたん。


「なあ、翔。ウチに触って大丈夫なん? 発作は出やへん?」

「あれ? そうだね。出ないや。なんでだろ。前も出なかったんだよね」

「あんじょうな、ええっこっちゃね」


 ホンマに良かった。翔は女に触られようもんなら過呼吸っちゅう発作がでで大変なことになる。そんがウチには出やへんっていうや。良いことやないか。

 しっかし茉莉の奴、ウチの手の骨でも折った日には、しばき倒さなあかよってな。

 翔に連れられてコンコースを横切り、ピアノが展示してあるブースに到着。ウチは手に持った山羊の皮製の軽量トートバッグを彼にわたす。

 他と比べて低くなっている天井の下。ライトに照らされて置いてある一台のピアノに近づく。屋根が閉まっている。

 側板に近づいて、屋根を開けようとしたけどウチの力では、開けられへんかった。


「翔、手伝ってなし。うちだけじゃできないなりよ」

「はい、はい。わかってるよ」


 彼は、すぐ側に来て屋根の下に手を入れて引き上げてくれた。半分ほど開いたところでウチが突き上げ棒を立ち上げて屋根を固定した。


「前の時も感じだけど、見た目以上にこの板は重いねえ」

「うん、おおきにな。翔」


 ウチは静かに背なし椅子に座りポジションを決める。鍵盤をカバーする蓋を開けていく。目の前に7オクターブーと3鍵分 88の鍵盤の世界が広かった。衝動のまま、頭に浮かぶ譜面から、ウチは指の筋を解すつもりでパッパッと指先を払うように手を振る。

 そしてウチは居住まいを正して背筋を伸ばし左右に広がる白と黒の世界の中心に、そっとCの鍵盤に指を置いた。


 さあ始めよう。ウチは指先を鍵盤に被さるぐらい奧に差し込み黒鍵をトンッと押す。








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