第32話 エキナカリサイタル
Aの黒鍵でトンと指先が跳ねる。
Aのトリルで初めて右手の小指と薬指、人差し指を素早く動かしていく。
6連符、6連符、6連符、ここから左手が、少し遅めトットトって歩くぐらいの和音を奏でていく。ペダルも使って余韻を整える。この曲はワルツなの。
6連符、6連符、6連符、付点4分音符で3連符、ブラウトリラーを入れての4連符に4分音符。また、四分音符につながるようにブラウトリラー入りの6連符。それを繰り返していく。
「あれ、この感じの曲は聞いた時あるよ。なんて言ったけなあ」
割と有名な曲なんで、翔も聞いた時あるんだね。
「そうなりね。この曲の作曲者の恋人が連れていた子犬がを歩いているのを見て書いたなし」
「へえ、そうなんだ。そう言われると、確かに子犬が忙しなく足を動かしている感じするよ。それで主人を引き連れていると」
「でしょ。それでね。自分の尻尾が気になって、くるくる回っているみたいな感じもしない?」
「はは、そんな感じもするね」
旋律が変わって、二つのオクターブに渡って黒鍵の上を指が動いていく。
兎に角、指を忙しなく動かしていくの。
右手の指で三連符、4連符、6連符。音階を降りていくのをリピート、
「あっ.なんか感じが変わった。子犬が何か見つけて、そっちに向かって行くみたいだ」
「ご主人様が引っ張られて、慌てている感じするなしな」
「確かに」
ウチが弾いて、翔が感想を言ってくれる。しかもウチと同じ感想を抱いてくれることが嬉しくなった。
タン
ある一音から忙しなさが無くなって、おとなしい音調へと変わった。
左手がワルツを奏で右手は、トーンットとついていく。
「あっ、なんか叱られて、普通に歩き出しているように聞こえるよ」
「なんか、お澄ましして主人の前を歩いていく様に聞こえないしか?」
「そうだ、そうそう。尻尾を立てて、颯爽と足を前に出してるよ」
「だけどね」
付点二分音符をトリルで4小節、指先が交互に黒鍵を叩く。
そして冒頭の旋律へと戻っていく。音が小刻みに上下した。
「興味が勝って、そっちに行くなしよ」
「小さい子なら、しょうがないよ」
「ふふ、そうなりな」
最後に3小節にわたり、音階が降りていく。
「とうとう、ご主人様も呆れてしまったみたいだね」
「ちゃん、ちゃんって感じなり」
演奏が終わる。翔もウチも充分楽しむことができて口元が綻んでいる。そんななか、徐に翔は私の方へ向くと、
「流石は茉琳様。見事な演奏、お見それしました」
「楽しめてくれたなしか、ありがとなり」
「指がよく動くもんだね。感心しちゃうよ」
この曲はリズム感もあって弾いていて、気持ちいい。ウチのお気に入りの曲。
でも、兎に角指は使う。キツイと言えばキツイのよ。
でも、そんな些細なことがどうでも良いの。
翔がウチを褒めてくれた。滅多にないことなのね。素直に嬉しい。
褒めて褒めて、もっと褒めて、翔。
気分の良くなったウチは彼に、
「時間がまだあるなり。もう一曲引いてもいいなしか?」
「良いよ。俺も、もう一曲聴いてみたい。茉琳が弾くところをみてみたい」
何ということなの。彼が私の演奏をもう一度、聴きたいなんて言ってくれた。これは張り切らないといけない。そうだ、良いことを思いついてしまった。
「なんなら、翔も弾いてみるなしか? 一緒に演奏してみようなり」
「俺、ピアノなんて弾いた時なんか無いよ。素人が弾けるわけないじゃないか」
そんな事は百もご承知、二百も合点。素人だから弾けないだって。
いえいえ、工夫すれば、何とかできるもの。
「大丈夫、簡単なフレーズえ、翔にもできるなり」
「でもなぁ、俺なんかに出来るものかなあ」
良かった。翔が少しは前向きになってくれたのね。なら、あとは実行してみるのみだね。
「翔に曲を弾いてくれなんて言わないなし。二つの鍵盤を押してくれれば良いなりよ」
「それぐらいなら良いかもら」
しめしめ、やる気が増えてきたみたい。
「手の指を広げて1オクターブの間を開けて、叩いてくれれば良いなりよ。タッタン、タッタンってみたいにえ」
「お、オクターブ?」
「そっ、ドレミファソラシドで1オクターブなし。これくらいに指を開いてなりな」
ウチは左手の親指と子指を広げて翔に見せてあげたい。翔も手を上げて指を左右に開く。
「これぐらい?」
「それぐらいで良いなり。ありがとうえ」
翔の手って大きい。ウチは妙に感心してしまった。翔も男なんだねー。
「それでなし、親指をここの白い鍵盤の上に置いて、広げた子指はここえ」
ウチは翔の手を持って真ん中より左にある白い鍵盤のに置いて上げた。
はっ、しまった。翔はウチたち女が触ると息が出来へんくなるんや。さっき、気ぃつけやって反省したのに。
「でね、翔。ウチがハイって合図したらな、そのまま白い鍵盤を叩いてなしね」
「わかったよ。それぐらいなら、何とかなるよ」
翔は何事もないように返事をしてくれた。過呼吸をおこしてない。
良かった。発作が出てへん。
ウチは、ホッと胸を撫で下ろした。
「おおきにな、翔。でね。これぐらいタッタン、タッタン、タッタンのってリズムで叩いたなしな」
「パパン?」
「違うなっし。タッタン、タッタン、タッタン!」
打鍵のテンポを手拍子で教えてあげる。
「試しに弾いてみるなしか?」
「いいのかなあ?」
「良いも悪いもの無いなしよ。コンペでもあるまいし、誰が聞くわけでも無いから大丈夫なりよ。ここに指を置いてなしえ」
未だに引っ込み思案で渋る翔へ、ウチは先に鍵盤の指を置くところを教えてあげた。
翔は恐る恐る、指でCの鍵盤を押し込んだ。
ポーン
「うわっ」
Cの短音が響く。
翔は音の大きさに驚いて手を引っ込めてしまった。ピアノの天板を開けて間近では音がかなり響くのね。
しかも加減がわからないで思いっきり鍵盤を押し込んだのでしょう。フォルテシモの音をまともに聞いたんだね。驚いて当たり前。
「そうそう、これぐらいの強さで鍵盤を叩いてなし。大丈夫。良いなりよ。でね、翔。手を広げたまま子指は7つ上の鍵盤のところを押し込むの」
ダッダーン
「こうか」
早速、翔は鍵盤に力強く指を落として、和音を周りへ響かせる。
「そうえ、いい感じなり。流石なりよ。じゃあ、そんな感じでやってみるなし」
彼も多少なりとも、やる気になってくれたみたい。手元が拙いなんて言わない。
これは音楽。音を楽しむ事なのね。
さあ、翔。2人で一緒にピアノを弾きましょう。これって連弾って言うっちゃね。
「じゃ、やるなりね」
言うがいなや。ウチは右手の指を鍵盤の上で跳ねさせる。2フレーズ繰り返したところで翔に声を合図をかけようとしたところ、彼が呟く、
「この曲って、俺、知ってるよ」
「わかったなしか。翔。車のレースの曲なっし」
ウチ、茉琳が翔に出会う以前、今は亡い前の彼氏に誘われて、夜中に欠伸を出しながら見ていたテレビの中継で使われていた曲。クラシック音楽の曲ではなくて、キーボードを使ってセッションで演奏する曲なのね。
「やっぱりね」
「これなら、翔も知っていると思ったなり。では最初からやるなりよ」
ウチは彼に微笑むと、再び鍵盤を叩いていく。ポップにリズミカルに。
右手でのD♪F♪A♪、F♪a♪E♪c♪の3連符、4連符。次は左手も伴ってD♪BGAD♪C♪b♪、B♪g♪A♪d♪の4連符、4連符。
そして、翔に合図を送る。
「はい、翔」
フォルテシモで、ダダン、ダダン、ダッダン
翔は直ぐに反応して鍵盤を思いっきり叩く。3回目のところで打鍵の後に少し浮いてた彼の指の間にウチの手のひらを滑り込ませて、ウチが音階を変えて打鍵をした。
ダダン
翔の手が驚いて浮いてしまう。でもリズムを崩さずに続けていく。
「はい」
ダダン、ダダン、ダッダン
「はいな」
ダダン、ダダン、ダッダン
何かが始まる気分が高まっていくの。
E♪f♪D♪f♪A♪f,,
演奏で瞑った瞼の裏に赤く光るランプが青に変わる情景がうかぶ。沢山の車がエキゾーストを立てて通り過ぎていくのが見えた気がする。
そしてメインテーマを左手でD cのペース。右手でメリハリつけて打鍵をする。
A♪C♪G-Gf入れ子を入れた3連符、E♩ーEF♪e🎶Db🎵-b と、G♪B♪F-FEC、E-fe🎶,Ca🎵ー.Aの二分音符
それをリピート。
C,Cコード、E♪Eコード。
その後、Gsus4-Cf,CeーDm,Gm-Gmのコード
を鳴らしていく。直ぐに
B♪F♪CーC,D♪B♪F-F,E♪CF-F
と音階をあげて行った。爆音が近づいてくる、ワクワク感が高まっていく。
そして鍵盤の世界のFの白い鍵盤の所からCのところまで2オクターブ12鍵盤を爪先を一気に滑らせるグリッサンドー奏法で音を掻き鳴らす。
「凄いや、目の前をレーシングカーが走り抜けて行ったみたいだよ」
翔には、そんな景色が見えたのでしょう。以前していたネイルアートも翔と会うことができた時期からしていない。だから昔のようにグリッサンドが出来るの。
再びメインテーマを最初から弾いていく。続けてオープニングのフレーズが始まる。
「はい、翔」
ウチは翔を呼ぶ、
ダダン、ダダン、ダッダン
翔も覚えたのか躊躇なく反応して反応して鍵盤を思いっきり叩く。三つ目の同じところで又、少し浮いた彼の指の間にウチの手のひらを滑り込ませて、少し音階を下げて代わりに鍵盤を押し込むの。
ダダン
直ぐにオープニングのフレーズが始まる。
翔と演奏で掛け合って私も乗ってきた。体の中から溢れ出す旋律がアドリブで激しいリズムを刻んで行った。頭を揺らし肩を振り体をくねらせて、手を跳ね上げていく。
隣で目をキラキラさせてウチの演奏を見てくる翔が見えた。それを見て、内なる彼への思いが一層、勢いよく指を跳ねさせていく。鍵盤の上を素早く右左に動かして打鍵をする。
だめぇ、指が止まらない。
どんどんと思いが湧き上がってくる。暫く、その情動に突き動かされてしまう。高まった気分のままオープニングのフレーズを弾く、高まりすぎて思わずグリッサンド奏法で爪を鍵盤に滑らしてしまった。そのまま心に任せて演奏を続けていくのね。
でも、いつまでも楽しい時間が続くわけでは無いのね。帰りに乗る新幹線の時間が迫ってくる。
踏ん切りをつけるつもりで。鍵盤に指を思いっきり跳ねさせて演奏を終わった。余韻が周りの壁に響き、やがて吸い込まれていく。体中に溜まった熱を出すつもりで、息を深く出していく。
暫くピアノから遠ざっていたから運指は硬いし間違ってしまうことも多々あるけど、全てを出し切った充足感がある。
「茉琳! 凄いよ。思わず聞き入ってしまったよ。少しだけど演奏の手伝いができて、俺も楽しかったよ」
翔が顔を紅潮させて興奮冷めやらぬ様子でウチを褒めてくれた。ウチの中は満足感で満たされたよ。
「おーきになぁ。翔が手伝ってくれたおかげで楽しくピアノが弾けたえ。ありがとうなし」
ウチの思いの丈を込めて感謝の言葉を翔に伝えた。駅のロビーという公衆な場なんて関係ない。ウチは嬉しくて翔に抱きつきたくて仕方がない。ウズウズして行動を起こそうとした矢先、
パチパチパチ、パチパチパチ、パチパチパチ
辺りから一斉に拍手が上がる。いつの間にか、ウチたちの周りに人だかりができていた。
隣のホームから降りてきた人たちや、これからウチたちと同じように新幹線に乗る人たちが足を止めて聞いてくれていたの。
体の中を占めていた満足感が、あんな下手っぴーな演奏を聞かれたという恥ずかしさに取って代わる。カアって顔が熱くなってしまう。
「茉琳、どうしょう」
周りからの凄まじい拍手に怖気付いてしまって、翔は怖気ついてしまう。
ウチだって、わからない焦ってしまう。
「どないせい言うんや、よう、わからんき」
その時、狼狽してオロオロするばかりのウチたちの頭の上でゴロゴロ、キーというが隠って聞こえてきた。
「うあ、来ちゃったよ。いつの間にか来てたんだ。ピアノを弾いててアナウンスを聞きそびれたんだ」
翔は天井を見上げて頭上から伝わり聞こえてくる音を聞いてオロオロしだした。
「茉琳、とにかくホームに急ごう。乗り遅れちゃうよ」
「うん」
ウチたちは、ギャラリーと化した乗降客にお辞儀をして、鍵盤蓋も天板もそのままに展示ブースを後にして、ホームへと上がるエスカレーターの右側を駆け上がる。
ホームドアが閉まり切る前に体を滑り込ませて新幹線の自動ドアへ体をねじ込んだ。
「ふう、間に合った。乗れてよかったよ。帰りが、これ以上遅くならなくてよかったよ」
「ごっ、ごめんな翔。ウッ、ウチが演奏に夢中になったばかりに」
「まあ、乗ることができたからいいよ。座席も空いてるから座って帰られるよ」
列車内の自動ドアを開けて中を覗くと、この駅で降りた乗客が多かったみたいで空いていた。2人掛け、窓際の三人掛けが選り取り見取り選び放題だった。
ウチたちは外の見える席に座る。さらに翔はウチに窓際と席にしてくれた。優しいんだから。
そのうちにどの景色が後ろに流れていく。
思えばここに来た時は、体のことで辛い話を聞いて落ちんだけど、帰る時は頭の中もさっぱりして、美味しいこと、嬉しいことを立て続けに感じることができた。慌ただしくも幸せな1日になった。
付き合ってくれてありがとうね、翔。あなたが一緒に来てくれて良かった。ウチは幸せだよ。また一緒に来てね。
「茉琳」
「なんなり」
徐に翔に呼ばれた。
「新幹線にはトイレが付いているからね。俺に遠慮なんてしなくていいから、行ってくれな」
「…………」
翔ぅ。折角、幸せを噛み締めているのに、水を差さないでほしいよぉ。恥ずかしいくて仕方なかったんだからね。ウチは真っ赤になって俯くしかなかった。
その後、2人とも疲れが出たのか、途中から夢の世界に旅立ってしまって降りる駅を通過してしまった。
次の駅でコソコソと折り返してしまう。
最後まで波瀾万丈な1日になったのは2人の良い思い出となったの。
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