第10話 悪意は去る、善意が包む 

 ギグッチに抱きつかれている茉琳は体の力を抜いて腰を沈ませる。同時に抱きつかれた腕を左右に広げる。

 あれだけもがいても解けなかった抱擁をあっさりと抜け出した、そして肘を横にして素早く体を捻る。当然、肘の軌道は後ろの男の顎になるはずだったのだけれど、


「ハレっ」


 軸足を滑らせてしまい、茉琳はバランスを崩してしまう。


「あきゃあー」


 グルンと体が回って行き着いたのは近くに立っていた翔の胸の内だったりした。


「うおっと」

「かっ、カケル」


 茉琳は飛び込んですぐは頭を捻り混乱していたが、誰の胸に飛び込んだのがわかると安堵して力が抜けて、そのまま彼の胸にもたれかかった。

 

 そこで自分の抱擁から茉琳が離れたことでギグッチが慌てる。


「茉琳、このやろ!」


 彼女を追いかけて、手を伸ばすと、その先で



「しぇからしか!」


 怒声が飛んだ。しかも女性の声でだ。

顎先の長さで切り揃えた、黒髪のおかっぱに古風な黒縁メガネをしている女性だった。淡い色のカットソーとオーカーのスキニーパンツの一部分がコーヒー色に染まってしまっていた。


「これば見れ、なんばするんかぁ、このあんぽんたんがぁ」

 

 その怒声に反応してギグッチが慌てて彼女の方へ手の行き先を変えて掴んでしまう。


「よくみぃ、あんたが先に手ばぁ出してきたかんね」


 そんな言葉と同時にギグッチの体が翻り足が空を舞った。投げ飛ばされているのだ。落ち切る前に体が引かれて、


   ズダァン


 履いているシューズだけが床を叩き、音を出した。


「このヴァカチンが!」


 ギグッチは返り討ちにあって、仲間に突き返されてしまった。


「なにおぅ」

「やめとけよ」


 売り言葉に買い言葉、喧騒が広がる直前にギグッチの取り巻きらしき輩か。彼を止めた。


「こいつ!法学部の禿だ。前にもちょっかいした奴がボコられてる。手を出さん方がいいぜ」

「でもよぅ」

「ほらっ」


 そんなやりとりがされているうちに、学生たちが集まりだしてきた。喧騒が広がってきている。そんな人垣を掻き分けて、


「茉琳さん」


 きっちりと梳かして手入れされた黒髪のストレートヘアの女子が淑女然として歩み寄ってくる。お付きのようにウルフカットの女性引き連れて。

「大丈夫でありましょうか? 何やら騒がしく思えましたゆえ,寄らせていただいたまで、そうしましたら見知った方がいらっしゃる」


「アキホン」


 茉琳は翔に寄りかかったまま、答えようとしたのだが、鼻が惹き口が歪んでしまう、


「クチュン」


 くしゃみしてしまう。その後、2回,3回と繰り返す。

 アキホンと呼ばれた女性は構わずに近づてバックから取り出したハンカチを茉琳に渡す。そして首を傾げると鼻を鳴らした。


「この甘い香りは? 茉琳さん」  

「クチュン。 この匂い嫌い。くしゃみ止まらない。クチュン。ヒーくんもこんな匂いして困ったしー」

「茉琳さんの香りではありませんのね」


 彼女は茉琳に確認を取る。


「クチュン、クチュン」


 茉琳はくしゃみで返事する羽目になる。

アキホンは首肯した。そして視線を向けてギグッチたちを睨み返していく。



 ギグッチの取り巻きの一人が茉琳たちを見て慌てた。


「おい、あのストレートヘアのスケ。文学部の姫だ。守護の二の姫だ。あいつはまずい。下手に関わると物理的に消される。ずらかれ!」


 男たちは、カフェテリアから逃げようとし出した。出口に抜かって走っていく。


「カオリン、警備部へお話を通しておいて頂けます?」


 アキホンは後ろに控えていた女性に指示しているのだけれど、


「御前様…違っ。あんたが追いかけるつもりでしょ! 冗談じゃない。肝を冷やさせないで欲しいよ。警備部へ言わなきゃいけないのはあんただから。こっちが追うからアキホンが警備部へ行って」

「ですが」  

「あんたは、そういう立場なんだから、そういう事は私らがやるんだよ」


 カオリンの剣幕にアキホンは首をすくめる。


「わかりました」


 アキホンは、茉琳の方へ顔を向け直すと、


「では、そういうことなんで、私たちは去ります」


 更に視線を茉琳が寄りかかっている男の顔にむけて、

 「そちらの方も、すがっている手を払うような無粋なことはなさらない様お願いしますね」


 よく見ると、茉琳の手は寄りかかっている翔のジャケットの袖を握っていた。ぎゅっと握って耐えていたのだろう、握ってできた皺が袖全てに伸びている。手先も震えていた。

 翔は目を瞬せると顎を上げて目をつぶってしまう。そして目を開けた時、マリンの手に自信の手を重ねた。


「この人が落ち着くまでですよ。俺だって被害を受けてるんだし」


 それを聞いてアキホンはニッコリと表情を綻ばす。


「それは何より。お願いしますね。では」


 彼女は立ち上がり,お連れさんと二人,立ち去っていく。


 茉琳はしばらく翔の胸に顔を埋めていて震えていたのだが、しばらくして顔を上げて,翔を仰ぎ見た。


「ごめん、ごめんなシィ」


 その目は充血し泪に濡れている。

まあ、鼻の穴付近が赤くなっているのは,ご愛嬌か。

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