18.左頬
「クリス、起きろ、クリス」
「……ヴィル? 何だよ、うるさいな……」
ヴィルフリートがドンドンと扉を叩く音で目が覚めたクリストフは、眠い目をこすりながら扉を開けた。すると苦々しい顔のヴィルフリートが「フェリクスがいない」と言い放ち、フェリクスの部屋に来るようにと手招きをする。
「……は? いない……?」
「フェリクスが、いないんだ。アメジストのペンダントとモーニングスターは部屋にあるんだが……。あ、あと、水晶玉も」
ヴィルフリートに促されるまま、クリストフはフェリクスの部屋へ入る。上着はないようだが、ヴィルフリートの言う通り、ペンダントとモーニングスター、水晶玉は無造作にテーブルの上や床に置かれていた。
「……上着がないから、何か買い物にでも……」
「こんな早朝にか? それに、金も残ってる」
「金も? 本当に、いないのか?」
「ああ。宿で入れる場所も、この近所も全部探したんだが……。クリス、手伝ってくれ。情報を整理しておきたい」
クリストフがうなずいてベッドに腰を下ろし、ヴィルフリートがその隣に座る。
「ヴィルが気付いた時、鍵は開いていたのか?」
「窓は閉まっていて、扉の鍵は開いていた」
「……そうか」
ヴィルフリートは一つ深呼吸をしてからクリストフの方に向き直り、握った左手の親指を立てた。
「可能性一つ目、自分から一人で出て行った。しかし金も武器もペンダントも持って行かなかったことを考えると、これはないだろう」
「そうだな」
それから次に人差し指を立てる。
「二つ目、誰かに無理やり攫われた。しかし、扉の鍵が開いていた点や上着がないところを見ると、可能性は低いだろう。普通は誰かがノックしても知らないやつには扉を開けたりしない。髪と目の色を元に戻していたフェリクスなら、尚更だ。しかも攫って行こうとするやつが、上着も一緒に持って行くとは思えない」
「ああ」
「三つ目、この宿に協力者がいて、そいつと一緒に出て行った。これなら金や武器がなくても何とかなる。扉も、従業員相手なら髪と目の色を変えて中から開けるだろう。寒いからと、上着を持って行くことも許される」
最後に中指を立てて三つの仮説を言い終えると、ヴィルフリートは左手を膝の上に置いた。
「……三つ目、か。個室にしようと言ったのは、フェリクスだったな。他に何か心当たりは? 俺は御者やってたから、馬車の中のことはわからない」
「シーラスを出発した日、具合が悪くなったんじゃないかって馬車を停めた時は、絵本の話をしてたんだ。クリスにも話したよな、崖の上から、って」
「そうだったな、覚えてるぞ。そのあとは?」
心配しているだろうに、ヴィルフリートの提案通りに落ち着いて話を整理しようとするクリストフの気遣いがありがたい。が、そのハスキーな声が普段より沈んでいるように聞こえ、申し訳なさを感じる。
「あとはフェリクスの口数が少なくなって、あまり……」
「ヴィル、その時のことを詳しく思い出せ。何か手がかりがあるかもしれない。おまえなら覚えてるだろう?」
「……ええと、あの時フェリクスが言っていたのは……『思い出した、絵本のドラゴンと戦ってた主人公は崖の上にいたんだ、そこから剣で額の宝石を狙って……』だった」
思い返してみると、その時のフェリクスの声は硬質な響きを持っていた。ヴィルフリートに
「宝石を狙って……、そのあとは?」
「フェリクスがその直後に震え出して、何も……」
「主人公が倒したんじゃないのか?」
「……そういえば、倒したとは言ってなかったな……。本当に、そこまでしか」
ここで会話が一旦止まった。確かに、フェリクスは「主人公がドラゴンを倒した」とは言っていなかった。もしそこまで絵本に描かれていたとしたら、彼は結末まで話してくれていただろう。何故その時気付かなかったのかと心の内で自分を責め始めたヴィルフリートに向かって、クリストフがゆっくりと口を開く。
「……おい、ヴィル、嫌な考えが頭をよぎるんだが」
「何だ? 言ってみてくれ」
「絵本の主人公は、ドラゴンを倒していないとしたら? 身を挺して犠牲になり、ドラゴンを封印したんだ。最近になってその封印が解けて、ドラゴンが目を覚ました……」
「どうして、主人公が犠牲になった、と?」
クリストフの言う『嫌な考え』は、ヴィルフリートが目をそらそうとしていた考えと同じだった。
「その絵本、王族にだけ伝わるものなんじゃないか? 五百年ごとだか千年ごとだか知らないが、ドラゴンが目を覚ますたびに王族の誰かが犠牲になって封印してるとしたら、辻褄が合うだろ」
「そろそろ目を覚ます頃だから、第二王子だったフェリクスを、中枢政治に直接関係のない神殿に追いやった……? それを辺境伯が知っていれば……」
「辺境伯は、知ってるだろうな。何せドラゴンが眠る地の管轄だ」
「ああ。……聖女が健在なら、問題ないんだ。だが、たまたま聖女が体調を崩して、フェリクスが何だかんだと理由をつけられ、レオンの代わりという形で西への聖女探しの旅を命じられた。早めに聖女を見つけられれば、それでもいい。王室にとっても市井の民を含めた世間にとっても、それが一番ダメージが少ないと踏んでのことだった、という流れか」
ヴィルフリートの推測に、クリストフは「ちっ」と舌打ちをした。
「何でもかんでも代わり代わりって。フェリクスのこと何だと思ってんだよ。……でも、それなら何で……」
「フェリクスは、そのことに気付いたんだ。俺らを巻き込まないようにと考えたに違いない。俺が、もっと注意深く見ていれば……昨日は食事もしっかり取っていたから、大丈夫かと……」
ヴィルフリートは膝に乗せている手に力を込める。御者台にいたクリストフと違い、自分はあの時一緒にいた。なのに、見逃してしまった。フェリクスは、体の具合が悪くなったのではなく、心に変化があったのだ。
「ヴィル、自分を責めるなよ」
「……昨日、寝る前に、フェリクスの部屋に行ったんだ。体調を心配する俺に、フェリクスは『ありがとう』と笑った。すごく、すごくきれいな顔だった。この世のものとは思えない、今にも消えてしまいそうな……。でも俺は気にせず、すぐに自分の部屋に戻ってしまった。本当は、本人が嫌がっても、無理にでも、同じ部屋にいるべきだったんだ……!」
「おまえのせいじゃないだろ。一旦落ち着け。朝飯食いに行くか? ちゃんと食っておかないとって言ったのはヴィルだからな」
「……あ、ああ……、そうだな、朝飯を……」
そう言って朝食のことを考えた途端、胃のあたりの吐き気がヴィルフリートを襲った。
「……悪い、ムカムカしてきた……」
ヴィルフリートは腹に手を当てたまま動かなくなってしまった。クリストフが「大丈夫か? 水でも……」と話しかけるが、返事をする余裕もない。どくん、どくんと聞こえる胸の鼓動で不快さが増して、見えているはずの室内とは違う何かが、目の前でぐるぐると回り始める。背景は灰色、地面には緑色と赤色。手足の震えは寒さからなのか、別の原因からなのか。
「おい、ヴィル、大丈夫か? 寝ていた方が……」
「……あの時、と、同じ……クリスが、フェンリルに……腹がムカムカして……血がべっとりと……まだ、温かかい……生臭い、匂い……」
吐き気が強くなるとともに、曇天の草原の風が首元を滑る感触が、ぬるぬると滴る血の手触りが、血の匂いが、真っ赤に染まったクリストフの姿が、鮮やかに蘇る。草原を歩いて近付いて来るフェリクスの姿も。
「……ヴィル? 何を……」
だが、フェリクスの姿はすぐに消えてしまった。優しく、きれいに微笑んでから。
「そうだ、あの時はフェリクスが……来てくれた……『
「おい、ヴィル、しっかりしろ。俺はここにいる!」
「血を、大量に、失ったから……って、俺、の、せいだ……! もっと、もっと早く仕留めていれば……! フェリクス、が……消えたのも……! もっと早く気付いていれば……!」
ヴィルフリートは混乱し、焦点の合わない目でうわ言のように途切れ途切れの言葉を発しながら、何度も自分の膝を殴りつける。
「ヴィル! やめろ、怪我するぞ! ……おい! やめろって!」
クリストフがヴィルフリートの肩を揺すって声をかけるが、何を言っても耳に入っていないようだ。
突然、パァンと乾いた音を立ててクリストフがヴィルフリートの左頬を強く平手打ちした。その衝撃で床の上にごろりと転がる姿勢になったヴィルフリートは、何が起こったのかわからず、体の力を抜いて呆然と天井を見つめる。
「……痛いか?」
「あ、ああ……」
「その痛みを与えたのは、俺だ。俺は生きている。おまえのおかげで」
「……い、きて……」
熱い痛みを持ち始めた頬を触っていると、天井が映る視界をクリストフが遮り、ヴィルフリートを見下ろしながら話し始めた。
「俺が、油断してたんだ。ヴィルは『右手の森から何かが来る』と叫んだ。だが俺は、左後ろのヴィルの方を振り返った。結果、フェンリルの姿をとらえられず、右側から襲われた。リーゼには、絶対に、絶対に油断するなと言われていたのに」
「……それは……」
「どんなに大変な状況でも、ヴィルが何とかしてくれるという意識が頭にあった。おまえは膨大な魔力を持っている。馬鹿みたいに良い記憶力も、とっさの判断力も、年齢を重ねても衰えない素早さも。そんなヴィルに、いつの間にか頼り切っていた」
「……クリス、が、悪いわけじゃ……」
「いや、俺が悪かったんだ。ヴィルには本当に感謝している。だから、あの時のことを気に病む必要なんてない。……もっと早く、そう伝えておけばよかったな……申し訳ない」
そう言い終え、クリストフはヴィルフリートの手を取って体を起こしてやった。
「記憶力がいいと、こういう時に過去が蘇ってくるんだな。……殴って悪かった。
「……いや……、いい、このままで」
吐き気が引き金になって呼び戻されたヴィルフリートの記憶は、あまりにも鮮明だった。今、この時のことだと思い込んでしまうくらいに。だが、クリストフが張った頬の痛みによってヴィルフリートは現実に引き戻された。直後に目に映ったのは、部屋の天井だ。「ここが今のおまえの場所だ」と、言われたような気がした。
「これからもっと腫れるかもしれないぞ」
「いいんだ」
心配そうに顔を覗き込むクリストフに、ヴィルフリートは少し目を細めて笑ってみせる。
「……そうか。朝飯はどうする? 食べられそうか?」
「食べるよ」
「よし、じゃあ下に行こう。あーそうだ、ここの荷物を俺の部屋に……」
くるりと背中を向けて水晶玉などの荷物を運び出そうとするクリストフに、ヴィルフリートは声をかける。
「なあ、クリス」
「何だ?」
「……ありがとう」
「馬鹿だな、ヴィルは」
振り返って軽く笑っただけのクリストフの目尻のしわが、数本増えた。
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