第3話

 翌日。練習は休むようにと、トレーナーから警告された。反論しても無駄。休め休めの一点張りで、こちらの意見など聞いてもらえない。


 だから実力行使。無許可で練習場へと向かう。この身体は私だけのもの。だったらどう扱うかも、決めるのは自分のはずだ。


 私が選択した結末ならば、後悔など微塵も無い。たとえこの足を壊す結果になろうとも。



「他の生徒が多いわね。順番待ちになるかしら」



 1人きり、コースの方へと歩み寄った。すると、同期のスプリンターが声をあげた。その彼女とは、別に親しくはない。名前は確か、モブヤマだったと記憶してる。


 そのモブヤマだが、血相を変えて駆け寄ってきた。



「ハヤカワさん! 今日はお休みと聞いてたんですけど?」


「予定変更したの。だから、私もグラウンドを使わせてもらうから」


「それじゃ、その、私はここらで切り上げますね」


「何を言ってるの。一緒に練習したら良いじゃない」


「ええと、何と言いますか……」



 そこまでして、私との同席を拒むのか。負け犬と並んで走るつもりは無いと、そう言いたいのか。


 自分の奥歯がきしむ音を聞いた。するとモブヤマは何かを察したらしく、たどたどしくも言葉を続けた。



「私、実は、その……。ハヤカワさんの大ファンなんです!」


「……は?」


「私だけじゃないです。モブエさんも、ザコタさんも、皆みんなハヤカワさんのファンなんです!」


「ちょっと待って。話について行けない……」


「だってハヤカワさんは憧れのスプリンターなんですもん。あんなに速くて、フォームも彫刻みたいに美しくって。もう完璧です! 現世の女神様ですよ!」


「それは、その、ありがとう……?」


「でも最近、元気が無いように見えて。だから皆で相談したんです。そしたら、走る事に集中させた方が良いって。私達は邪魔しないように気をつけようって、そう決めたんです!」



 そこまで聞いてようやく気づく。モブヤマ達は別に、私を避けていたのではないと。単純に、快適な環境を自発的に整えてくれただけなのだ。


 ここで頬が熱くなる。自分は、どこまで思い違いをしていたのだろう。



「ハヤカワさん。ウイタちゃんに負けたこと、まだ引きずってるんですよね?」


「もちろん。1日だって忘れたりしない」


「やっぱり……。あの、私達に出来る事なんて、たかが知れてます。だからせめて心からの応援をさせてください!」


「モブヤマさん……」


「大丈夫です。ハヤカワさんなら絶対勝てますよ! 私はそう信じてます!」


「ありがとう。これで次のレースに、負ける訳にはいかなくなったわ」



 決意が一層固まる。彼女たちへのお詫びも含めて、前代未聞の走りで魅せねばならないと。今度の番狂わせは、私が仕掛ける側だ。その想いも手伝って、練習に熱が入る。


 やがて迎えた夕暮れ時。寮に戻った所、不運にも出くわしてしまう。ウイタシオリだ。



「ハヤカワさん、聞きました? 今度のレースに勝つと、強化選手に選ばれるらしいですよ!」


「声が大きいわ。何に興奮しているの」


「強化選手になると、海外で合宿するんですって。今回はフランスに行くそうです。みっちり2週間ほど!」


「そう。興味ないわ」


「強化選手になれたらなぁ……。凱旋門、エッフェル塔。ラタトゥイユの美味しい名店とか。うぅん行ってみたい!」



 私は思わず睨んでしまった。もう勝った気でいるのか。甘く見るなよと、握った拳が固くなる。


 それからしばらくして、入浴タイム。ウイタシオリも着いてきたが、会話は途切れがちになる。


 私は、ベラベラと喋る気分ではなかった。



「さぁて今日もフヒッ。背中を流させてもらいますね」


「何がそうまで依存させるの」


「いやぁ、何と言いますか。こんなにキレイな背中が汚れるなんて、とうてい許せない感じです。ホコリの1つも付いてたらと思うと、居ても立ってもいられない……」


「それは本気?」


「もちろんですよ。自分でも、何でここまで執着するのか、良く分かりません」



 その時だ。脳裏に閃きがほとばしる。


 駆け引き、作戦、依存する背中。それらはパズルのピースであるかのように、カチリとハマった。レースでの必勝策を思いついた瞬間だったのだ。


 しかし、その作戦は真っ当なものではない。邪道や外道の類だ。スプリンターとして、いや人として、軽蔑されかねない。そう危惧する程度には、酷いアイディアだった。



「確かにありえない。でも、私はもう負けたくないの……」


「ハヤカワさん?」


「ウイタシオリ。次のレースは私が勝たせてもらう。たとえ、卑怯な手を使ってでも」


「そうですか。受けて立ちますよ。それよりもホラ、脇を洗いますからね。ばんざ〜〜い」


「バンザーーイ」


「ありがとうございます。お陰で洗いやすいですよ」



 もう後に引くつもりはない。勝つ。勝てば良い。そうでなくては、この先、自分の魂がどうなってしまうか。考えるだけでも恐ろしい。



「嘘じゃないから。たとえ、どんな手を使ってでも……」



 寝床でも、同じ呟きをくり返した。ウイタシオリは、いつものように、私の背中に抱きついて眠る。私の囁き声には、一切返事をしない。



「アナタを、決してフランスには行かせたりしない。観光なら諦める事ね」



 ふと振り向くと、ウイタシオリの寝顔が見えた。安らかな表情だ。それを眺めていたら、ズキリと胸が痛んだ。


 それでも私はブレない。前に進むためにも、止まった時間を進めるためにも、躊躇してはならないのだ。


 目をつぶる。明日も早い。そう思っても、不思議と眠気は遠ざかってゆく。今日は、夜が長くなりそうな予感がした。

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