第4話


 青々と茂るターフを風が撫でてゆく。ついにやって来た本レース。秘策も準備も、すべて整えた。


 あとは覚悟を決めるだけだった。



――さぁいよいよ始まります。モニュッコロムニャムニャ杯! フランス行きのチケットを賭けて、あるいは最強の座を勝ち取る為に、スプリンター達が全力で競い合います!



 私の枠番は7。そして、ウイタシオリは5。ひとつ飛ばしだけど、問題ない距離。策が発動すれば確実にハメる自信があった。



――走者ゲートイン。セット。



 正面は誰も居ないターフ。そこを駆け抜ける。今日こそは、必ず私が、先頭を行くのだ。



――いざ、尋常に……。試合えーーッ!



 その言葉とともにゲートが開いた。一斉に駆け出してゆくスプリンター達。


 私も飛び出す。隣にウイタシオリ。射程内、捉えた。

 


「今日も頑張りましょうね、ハヤカワさん……って、ええ!? どうして急に脱ぎだしたんですか!?」



 私はユニフォームの上を雑に脱いだ。それを羞恥心とともに、ターフに放り投げる。


 全ては勝利のため。たとえ、ワゴンセールでまとめ買いしたチープな下着を、大衆の前で晒そうともだ。



「あわわ、早く服を! 観客には男性も多いんですよ!」


「ふふん。まだまだ、こんなものじゃないわ!」



 私はその場で寝転がる。そして、転がり転がり、転がり倒す。鼻息がフンッと漏れる程度には、力を込めて念入りに。



「ちょっとハヤカワさん! レース中なんですけど!」


「あぁ大変。身体が汚れてしまったわ。何か拭くものが欲しいところね」


「あっ、本当だ……。ハヤカワさんのお背中が、草ッ草の草! クッソ汚い緑色になってます!」


「濡れタオルか何かを持ってない?」


「うう……。じゃあ、控室まで行ってきます!」



 作戦はものの見事に成功。ウイタシオリは、コースから大きく外れて明後日の方へと走り去った。



「悪く思わないでね。勝負の世界に情けは無用なの」



 無事、ライバルは葬った。しかし私とてウカウカしていられない。他の走者は遥か向こう、既に第1コーナーを回ろうとしていた。

 

 ここからは小細工なし。掛け値なしの全力をぶつけるだけだ。



――おおっとハヤカワアヤメ、やっと動いた! 何かモチョモチョしてましたが続行する模様です! それにしても、実況席からはブラジャー姿にしか見えないのですが、大丈夫なのでしょうかッ!



 1秒たりとて無駄にしたくない。だから走る。恥は一瞬、しかし後悔は一生だ。



「さぁ、鼻先を取りに行く……ッ!」



 いきなり前傾姿勢、トップスピード。遠くの背中がみるみるうちに近づいてくる。追い越す為の隙間。見えた。針を縫うようにして1人、また1人追い抜く。


 そうして捉えた先頭集団。目にした途端、腹にカッと熱いものが差し込んできた。



「退きなさい! そこは私の場所よ!」



 吠える。怯えたスプリンターの足が緩んだ。チャンス。また追い抜いて、第2コーナーを回る。


 やがて最終直線を迎えた頃には、私の前に走者は1人もいなかった。



「ゴールまであと少し、200メートルだけ!」



 余力はない。肺は破裂しそうなまでに痛み、足の感覚も薄い。


 それでも先頭だった。リードは半身差、油断ならない距離だ。


 これを最後まで維持すれば勝てる。私は、このレースを勝利で飾り、輝かしい戦歴を積み重ねる。苦しい時期を乗り越え、止められた時計の針を進めるのだ。


 だがその時だ。背後から、背筋の凍りつくような声を聞いた。



「ハヤカワさーーん!」


「ウ、ウイタシオリ!?」



 恐怖。そうとしか言えない。腸(はらわた)に響く程の寒気は、瞬く間に全身を駆け抜けた。



「そんなバカな、もう戻ってきたの? いくら何でも速すぎる……!」


「待ってくださいよハヤカワさーーん。背中をキレイキレイしましょーー?」


「嫌、嫌……ッ! 絶対に嫌! ここで負けちゃったら、私は何のために手を汚したと……!」


「ハヤカワさーーん、着替えもありますからコレ着てくださーーい!」


「ヒッ!? 来ないでーーッ!」



 走るしかない。ゴールを誰よりも先に切る。それだけだ。



「ハァ、ハァ! 遠い……!」



 一歩が、いや半歩すらも苦しい。今すぐにでもターフを転がって、倒れ込んでしまいたい。


 でも。だけど。そうだとしても。私は走り続けるべきだ。



「届け、届け……」



 テープが見える。あれを切れば勝ち。たとえ不名誉でも、勝者になれる。


 ウイタシオリは3着の位置。近い。せいぜい1身差。2着とも変わらず半身差。気を抜いた瞬間、たちどころに先頭を奪われてしまいそうだ。



「届け……! お願いだから! 届いてーーッ!」



 手を伸ばす。未来、希望、アイデンティティ。今つかんだ。真っ白で、混じり気のない、心から渇望したものを。



――おっと渾然一体となってゴールテープが切れた! 果たして勝利は誰の手に! 気になる結果は映像解析を挟んでとなりますので、今しばらくお待ち下さい!



 私はその場に倒れ伏した。もう一歩すら歩けない。勝ったという確信はあるが、結果を見るまで油断できない。電光掲示板は、今も『解析中』と点滅するだけだ。



「やっと追いついたぁ。ハヤカワさん速すぎますよ」 


「えっ。どうして? アナタなら、全力を出したら、私なんて……」


「いやいや全然でした。あとちょっとで届くと思ったら、更に速くなるんですもん。後ろに付くのが精一杯でしたよ」


「それじゃあ、私は……。最初から勝負してても……?」


「そんな事より背中! それから服! 風邪ひくわ恥ずかしいわで、ちょっとしたピンチですよ!」



 甲斐甲斐しく背中を拭ってもらい、ジャージも着させてもらう。抵抗する気力も体力もない。


 それからチャックを上げきった頃、ついに結果が出た。電光掲示板に走者の名が並ぶ。



――長らくお待たせしました! 1着はヒメノユリア! 

 続けてモチダ・ロバート・マクスウェル、カイマキタイチャン。この3名が表彰台を登ることになります!



 嘘。どうして。1着は私のハズ。解析所に抗議をしないと。


 よろめく足を奮い立たせていると、事の顛末が明らかになる。



――なお、ハヤカワアヤメは不適切行為と過干渉。ウイタシオリはコースアウトにより棄権扱いとなりました!



 それを聞いた途端、全身から力が抜けた。確かにルール違反の振る舞いだった気がする。


 何故あらかじめ、失格の可能性を考慮できなかったのか。そこまで自分を見失っていたという事か。あまりにも滑稽。私は、自分の浅はかさを嘲笑うしかなかった。



「何それ。ほんとバカみたい……」


「ハヤカワさん。さっきチラッと見えたんですけど、外に美味しそうな屋台が出てましたよ? 国産和牛のブッカケ玉子丼ですって!」


「アナタは、私を恨んでないの……?」


「ほぇ? 何がです? それよりも早く行きましょうよ! 行列できてるから、ウカウカしてると無くなっちゃう!」


「いや、待って。もう足が動かないの」


「だったら肩を貸します。さぁさぁ、B級グルメを食い散らかしてやりましょうよ!」



 無様だ。騙し討ちした相手の肩を借りて、ヨロヨロと逃げ帰る姿は。しかも失格。勝利をもぎ取る事も出来ず、ただただ、不名誉を積み上げただけだった。


 ちなみに屋台の丼は絶品だった。甘辛のタレ、柔らかお肉、何よりも温かだ。噛みしめる度に、涙が溢れて止まらなくなる。それでも不快に感じないのは何故だろうか。全く理解できずに戸惑う。


 結局は考える事をやめた。だから、夢中になって頬張るウイタシオリの姿だけを、そっと見守り続けた。


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