湖南省

 湖南フーナンの夕日が、田畑を茜色に染め上げていた。ふと、私を呼ぶ声がする。

小梅シャオメイ、ご飯にしましょう。お腹すいたでしょう」

叔母さんの声だ。私は「はーい」と答えると、抱えていた稲の束を置いて家に急ぐ。本当は鳥が食うのでこんな所に放っておいてはいけないが、明日片づけても良いだろう。帽子を脱いで居間に入ると、食卓の上では粥や魚料理が湯気を上げていた。

「今日は魚が手に入ったのよ。たくさん働いた後は栄養のあるものを食べなくちゃ」

先に叔父さんが席について、粥を啜っていた。私も叔母さんに続いて席に着く。叔母さんは箸を取るや、私に食べるかどうか聞かず料理を勝手に取り分けて押し付けて来た。

「ほら、いっぱい食べなきゃ。都会じゃろくなもの食べてなかったでしょう?」

叔母さんの口癖だ。取ってもらった魚の煮付けを口に運ぶ。からい。両親をなくした私は湖南省の楊叔母さんの家に身を寄せていた。解放軍で息子をなくしていた叔母さんは私を歓迎してくれた。祖国が偉大な躍進を遂げつつあるこの時代、食糧生産に従事する人民公社では働き手が必要だ。しかし叔母さんは姪の私を本当の家族のようにかわいがってくれた。すぐに叔母さんの家に馴染めてよかった。

 田舎は良いところだ。ここでは都会ほど熱心に紅衛兵だの、反革探しだのをやってはいなかったし、この公社の高中ガオジョンは思想教育も緩かった。子どもはみんな素朴で、都会から来た私にも優しく、あの紅衛兵たちのようにぎすぎすしていない。食べ物もおいしいし空気も透き通っている。田舎の空気は都会で痛めつけられた私を、優しく包んでくれていた。今、湖南は二度目の収穫期を迎えている。山が多く、田が狭い湖南では一年に二回、春と秋に米を作るのだ。百姓仕事は意外にすぐ慣れた。雑談に花を咲かせて元気に笑う、同じ生産隊の女の子たちと一緒に働いていると心が洗われるような気がする。

「今年は本当に米が良くできたなぁ。脱穀するのが大変だよ」

叔父さんがぼやいた。

「毛主席のおかげよ。共産党になってから本当にいろんなことが良くなったわ」

叔母さんが返す。この人たちは幸いだ。

「そう言えば、隣村に来た若者たちはどうしているんだろう。あいつら上手くやってるのかな」

「それなんだけど、最近あちこちで穀物泥棒が出てるでしょ。その村の紅衛兵の仕業っていう噂よ」

一九六九年に入ると各地で紅衛兵だった若者たちが農村に送られてくるようになった。噂では、紅衛兵たちの横暴が目に余るようになったので党中央が彼らを田舎に厄介払いすることにしたらしい。そうした厄介者の一団が、この近くにも来ているのだった。農地開墾の名目で送り込まれた彼らは近くの廃村に陣取って畑仕事を始めたようだが皆素人なのは明らかだった。彼らは自分では認めなかったがどうも春は呆れるほどの不作だったらしい。それでいて農民に教えを乞う事もしないのでいったい彼らはどこから食糧を得るのか、というのがこの辺りの農民の感心ごとだった。

「そうそう、それで今日の集会で収穫が終わっていない田んぼには夜に見張りを立てることが決まったでしょう」

「おお、そういえばそうだったなぁ」

「今日の当番にはうちも入ってるわよ」

「仕方ねえ、俺が行くよ」

「いや、私が行きます」

自分が行かなければ行けない気がした。置きっぱなしにしている一束の稲が心配にならなかったといえば噓になるが、叔母さんには良くしてもらっているんだから自分が積極的に働いた方が良い。

「いや、うちのに行かせるわよ。危ないでしょう?」

「いいんです。叔父さんは昼間にたくさん働いてるんですから休んでください。叔父さんと叔母さんへの恩返しです」

「普段仕事を手伝ってもらってるだけでもとてもありがたいのよ。でも、そこまで言うのなら行ってらっしゃいな」

すでに外は暗くなっていた。夜警をするのに早すぎるということは無いだろう。夕食をそこそこに済ませると、上着と帽子を身に着ける。叔母さんの「気を付けてね」という声に送られて、家を出た。目の前に広がる田んぼのあちらこちらに、ぽつりぽつりと明かりがともっていた。しまった、ランプを持って来ればよかった。この村には電気は通っていない。夜になれば月明かりの他に光は無い。幸い満月に近かったので月明かりでなんとか道は見える。とりあえず泥棒に盗られる前に放っておいた一束を片づけに行こう。場所を覚えているから多分大丈夫だ。


 そして、私は息をひそめて稲穂のかげに隠れていた。放っておいた場所に近づくと誰かが束を拾い上げようとしているのに気付いたので、誰何しようとしたらそれが穀物泥棒であることに気付いた。というのも、月明かりに緑色の軍服姿が照らし出されたのである。明らかにこの村の人間ではない。紅衛兵だった。そっと身を乗り出して伺ってみると、そいつは落ちていた稲に飽き足らずまだ刈り取っていないものから籾を取っているらしい。そっと、猫のように足音を忍ばせて近づく。相手は泥棒に夢中で気付いていない。あと一、二歩というところまで近づくと一気に飛びかかった。向こうは必死に抵抗する。女のように小柄な奴だとは思ったが意外に体格が近いようだ。しかし力は弱く、数分の格闘の後に組み伏せることができた。丁度雲から月が顔を出す。相手の顔を見て吃驚した。

「小青?」

そう、それは確かに李青だったのである。最後に見た時よりもやつれ、痩せてはいたが———たしかに李青だった。そして驚いたのは相手も同じらしい。

「呉秀梅!?」

幽霊でも見たような顔だった。まさか李青がこんなところに送り込まれていたなんて。向こうもこんな田舎で私に会うとは思っていなかっただろう。腕を押さえつけていた手を放して、身体を起こすと李青も私に向き合った。

「呉秀梅なの?」

「ええ、そうよ。久しぶりね、小青」

「あなた…なんでここに?」

「この村の親戚の所にいるの。あなたは?」

李青は少し口ごもった。

「それは…それは、農地を拓いて食糧を増産するためよ。毛主席の命令で来たの」

「そう。うまくいってる?」

李青は黙った。

「うん、想像通りみたいね。それでこんなマネを?」

李青が自分の手に握られた籾を見る。

「い…いや、これは…違うの」

「何が違うの?これではっきりしたね。穀物泥棒の正体は紅衛兵だったって」

「ちっ、ちが…!お願い、小梅。このことは黙ってて」

「今私が大声で呼べば生産隊の農民が全員駆けつけてくるよ。そうなったらどうなることやら」

「ねえ、お願い!幼馴染でしょう?」

この期に及んで幼馴染か。面の皮の厚いこと。私は冷たく言い放つ。

「あら、そう?私にとってはもう他人だけど」

「そんなこと言わないでよ!」

「語録の二四一ページは?忘れたとは言わさないよ」

「は?」

「語録の二四一ページよ。紅衛兵なんでしょ」

「さ、三大規律はつぎのとおりである。一、いっさいの行動は指揮にしたがう。二、……」

さすがに紅衛兵である。こんな時でも語録は忘れない。しかし彼女は次の言葉が継げないようだった。代わりに答えてやる。

「二、大衆からは針一本、糸一筋もとらない。三大規律よ。八項注意にも農作物は荒らさないとある。忘れたわけじゃないよね?」

李青は、顔を真っ赤にして涙をこらえていた。認めたくないだろう。紅衛兵が毛主席の規律を破って人民から盗みを働いているなんて!

 ちょっと彼女をいじめたくなった。これぐらいは許されるだろう。膝をついた李青の前に立ちはだかる。

「今ここで、農民に自分の罪を謝罪して」

「え…」

「謝罪しなさいよ!」

李青は気圧されて、なにかもごもご言い始めた。すかさず彼女の頭を掴んで地面に押し付ける。

「額を!地に付けて!大声で謝れ!私に謝れ!私のお父さんに謝れ!お母さんに謝れ!お前の毛主席に不徳を詫びろ!」

気付けばランプの光がこちらに近づいているようだった。李青の声が泣き声に変わる。構うもんか。

「今すぐ!自分でやったことだろ!?」


注釈五:湖南 湖南省。中国南部の地域。

注釈六:人民公社 中国の農村の単位。自治体・学校・病院などの公共サービスと農場や職場が一体化したもので、規模で言えば日本で言う村や町に相当する。

注釈七:高中 高級中学校のこと。中国における高校。

注釈八:生産隊 中国の農村の単位。二十~三十戸をまとめた人民公社の最小単位で、日本で言う町内会に相当する。

注釈九:誰何 相手を呼び止めて調べること。

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