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ナカムラは彼の大脳及び自律神経中枢を銃弾が貫通し、彼が死ぬまでの数秒間に思った。こんなはずじゃなかった。彼は〈アルテミス〉のクラスター感染によって自身も感染する以前にロシアン・マフィア側関係者へ極秘裏に接触を図り、タケザキが率いる犯罪組織の体制崩壊を目的とした陰謀に着手していた。
きっかけはある女だった。とあるレース・イベント当日、彼はそのレース模様のドローンによる空中撮影を無事成し遂げ、スターバックスの駐車場でアルファロメオ・ジュリアのトランクに使用したドローン及び各種撮影機材をしまい込んでいる最中、彼女から話し掛けられた。
「ねえ」
「はい」
「良かったら乗せてってくんない」
「いいけど」
「ありがとう」
ナンシーはジュリアの助手席に乗り込んだ。ナンシーはきれいだった。確かレースの前、ピエールと一緒にいた女だったはずだ。レースに負けた男といるのが嫌になったか、単に男がクルマを取られて乗せて貰えなくなったか。そんなとこか。ナカムラは出来れば食事にでも誘いたいと思ったが、結局切り出せなかった。彼は彼女の家の近くで彼女を降ろした。こんな下っ端じゃなかったら彼女を誘えたかもしれない。ふと、そう思った。
無害で他愛なかったその思いは、度重なる変異を繰り返す内に強毒化し、悪意ある陰謀へと進化する。クラスター発生前にマフィア側と合意した計画は、タケザキ一同を偽装レストランへマクラーレンと共に呼び出し、彼らをデザートに混入した睡眠薬で眠らせ、その間にハイパーカーを頂戴し、後日、ナカムラの情報提供を元にタケザキとツチオカを暗殺。ナカムラが組織のトップを引き継ぎマフィアとの同盟体制を築く。ざっとこんな感じだった。しかしながら、マフィア側は潜入諜報員として〈アルテミス〉でホステスとして働き自身も陽性が発覚したナスターシャからクラスター関連情報をSNSで即座に入手。感染リスクを警戒し、その偽装計画を大きく変更するに至る。ロシア人はその一連の経緯についてナカムラには一切何の通達も行わなかった。
デザートは食うな。だったな。〈ビアンカネーヴェ〉へ向かうジュリアの運転席でステアリングを握るナカムラはマフィア側関係者から言われた注意を思い起こした。ナカムラはパカーンには会えなかった。やり取りはその組織の幹部クラスを通じて行われた。確か元スペツナズだったっけ。スペツナズって何だ? ま、何でもいいや。催眠薬が入ったデザートはカノーリというイタリアの伝統的なデザートでアメリカ映画に出てきて有名になったらしい。何の映画だったかは忘れた。確か何かのギャング映画か何かだったけ。食ってみたいな。この陰謀が一段落したら食いにいこうかな。楽しみだ。誰か誘ってみるか。ナンシーとか。
ジュリアの後部座席にはタケザキが座り、ツチオカが運転するマクラーレンP1がアルファ・ロメオに続く。タケザキは最近お気に入りの曲をカーオーディオで聴きながらナカムラに話し掛けた。
「まあ、感染者が出た時はビビったが、結局、大したことなかったな」
「ですね」
「休業と時短要請で結構な損失は出たが、この取引で何とか食いつなげるしな」
「そうっすね。さすが、兄貴、タイミングが絶妙っすね」
「まあな」
ちょうどその頃、〈ビアンカネーヴェ〉では当初予定されていたメニュは全く用意されていなかった。つまり、鯛のカルパッチョもイイダコのトマト煮も、ミートボールスパゲッティーも牛フィレ肉のロッシーニ風も無しだ。もちろん、あのカノーリも。
ロマン・イブラギモフは近隣ビルの屋上で収納ケースからロシア製ボルトアクション式狙撃銃、SV-98Mを取り出す。すまない、ナカムラ。こんなことになっちまって。それもこれも俺らの所為じゃない。パンデミックが悪いんだ。恨むなら母なる自然かWHOとかを恨んでくれ。彼はボルトハンドルを後方に引いてから前方に戻し、強化貫通狙撃弾を薬室に装填すると、スコープを覗く。黒いセダンと、黒いハイパーカーが〈ビアンカネーヴェ〉の駐車場に乗り入れる。イブラギモフは標的全員が車外に出るのを待ってから、トリガーに掛けた人差し指を手前に引く。
兄貴、あんた油断し過ぎじゃないか。クラスターで店が営業休止になった上、あのハイパーカーも、マフィアに騙し取られるとはね。言っちゃ悪いが間抜けにも程があるってもんすよ。リアビュー・ミラーに映る男をそう嘲るナカムラは〈ビアンカネーヴェ〉の駐車場に到着し、ジュリアのエンジンを切ると、ドアを開け外に降りた。
タケザキは前を歩くナカムラの後頭部が炸裂し頭蓋骨と脳の破片が粉々に散乱するのを目にした。直後ツチオカも同様に頭部を撃ち抜かれたがそれを見る余裕は無かった。奇襲――目的はクルマだ。キー。タケザキは素早く動いた。死んだツチオカの手からキーを取り、マクラーレンの陰に隠れる。このドア、どうやって開けるんだっけ。彼は空力性能を追求した複雑な形状のダイヒードラル・ドアの奥まった箇所に設置された開閉ボタンを探り当てそれを押してからドアを斜め上方に押し上げる。
しまった。マクラーレンP1を盾にしたタケザキをスコープで追うスナイパーは思った。あのクルマは撃てない――いい判断だ。こうなったら頼りはプランBか。ロマンはスコープから目を離し肉眼で駐車場を眺めた。P1はホイールスピンしながら急発進する。その後を一台のバイクが追う。頼んだぞ、ナスターシャ。
H2か。サイドミラーを見て、タケザキは呟いた。クソッ、まくのは無理だな。P1を追跡するバイクはカワサキ・ニンジャH2だった。世界的に無敵の圧倒的高性能を誇る日本製スーパーバイク群の一台で大概のスーパーカーには圧勝出来る驚異的直線加速力を誇る。P1は大概のスーパーカーよりは速いはずだったが、それでもH2に真っ向勝負を挑むのは無謀だ。スナイパーとバイカーは当然グルだろう。組織的だとすれば、ロシアン・マフィアが関与。あの取引もマフィアが仕組んだ偽装作戦。どうすればいい。まず、あのバイカーを始末しないとな。今、手持ちの武器は無いから、あの工場におびき寄せて始末する以外無い。タケザキは腹を決め工場へ向かった。あの工場とはタケザキが保有し彼の犯罪組織関係者らが武器庫及び緊急時用隠れ家として随時使用していた精密機械工場の廃墟のことだった。そこでバイカーを待ち伏せ排除してから、また他の隠れ家に移動するのが最適解だろう……
雨が降り出した。P1を追跡するナスターシャはその雨でちょっとセンチメンタルな気分になった。雨の音って素敵。雨が強まり、雷鳴が轟く。二台は街を離れ郊外に向かい丘陵地帯に入った。幹線道路から狭い道に入り何かの工場の敷地内へと侵入する。広大な敷地は木立に囲まれ、大きな複数の建造物群と駐車場がある。P1は駐車場に入り木立に近い隅の方へ駐車する。ナスターシャもその付近へH2を停めて降りた。彼女はウィンドシールド越しに運転席のタケザキを確認し彼にデザートイーグルの銃口を向けゆっくり歩み寄りながら叫んだ。
「クルマから降りろ! 早く!」
男は降りなかった。
「降りろよッ!」
女は銃声を聞いた。短機関銃の連射音だった。待ち伏せ。
彼女の体を無数の銃弾が貫通する。
無防備なオープンスペースで孤立。完全な戦術ミス。
バカね。
彼女は倒れ、時間が過ぎ去った。
声を聞いて、目を開けるとロマンの顔が見えた。
「来てくれて……ありがとう」
ダメ、そんな近づいちゃ。感染しちゃうよ。
彼との訓練の記憶が蘇る。やがて、あらゆる思い出も雨と共に消える。
ロマンはナスターシャを抱き上げた。
俺が仕留めていれば……
ヘルキャットは濡れた闇に消えた。
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