11

   11


 黒いアルファロメオ・ジュリアがファイヤーマートの駐車場に乗り入れたのはとある日曜日の午後四時半過ぎのことだった。シンガーは共に勤務する三十代前半兼業主婦の人生に関する悩み(厄年だとかなんか)とかを適当に聞き流しながら駐車場に停車する高いイタ車を眺めていた。アルファロメオか。ああいうラテン車は壊れやすいでお馴染みで部品代もきっと高いだろうけど何であんなクルマ買うのかな。ただし、あのジュリアに限っては≪6アンダーグラウンド≫の冒頭のカーチェイスシーンで大活躍していたので大変な好印象を持っていた。一体あんなクルマでこんなコンビニに来るのはどんな奴なのか興味を抱きつつジュリアを眺めていたシンガーが目撃した人物は彼の知り合いだった。

 イタリア製高性能FRセダンから降りたナカムラはファイヤーマートに入店するとレジにいたシンガーに声を掛けた。

「どうも」

「おお。あのジュリア、あんたの?」

「いえ、社用車です」

「そうなの。洒落た社用車だね」

「どうです、店の方は?」

「あんまパッとしないねえ。どうなのそっちは?」

「最近新しいシノギを始めました」

「ふうん。何?」

「ここでは、ちょっと」

「そっか」

「今日は何時までの勤務ですか」

「もうすぐ終わるよ。五時まで」

「そうですか。良かったらそれから一緒にどこかでコーヒーでもどうですか?」

シンガーは退勤後、ジュリアの後をトヨタ86前期型で追走しいつものスターバックスに向かった。ナカムラはそこでコーヒーを飲みながらコンビニのレジで話すには聊か支障があったシンガーの質問に答えた。

「中国からワクチンを密輸して、夜の街界隈従事者相手に密売してます」

「ほう、ワクチンか。今じゃすっかりシャブよりカネになるだろ。あんたも打ったのか? その中国製。」

「そりゃ、もう」

「じゃあ、すっかり安心だな」

「さあ、同じワクチンとは言えピンキリでしょうから。ところでさっき、一緒に働いてた人と結構話し込んでましたよね」

「まあね。厄年なんだって」

「へえ」

「それと鏡を見ると自分自身の存在についての疑念を感じるそうなんだ」

「疲れてれるんでしょうね、人生に」

「あるいは、何らかの哲学的境地に達したか」

「と言うと?」

「デカルト的懐疑か、存在論的問いか。もしくはその両方かもな。大概人間は不幸に直面するとそういう思想に走る」

「あなたはどうです。不幸ですか?」

「いや。ただもし不幸だったら、その不幸を回避する為に全力を傾けるだろうがね」

「その目的の為なら手段を選びませんか?」

「選ぶよ普通に」

「もし幸福になる為だったら誰かを殺しますか?」

「殺しはしないが殺したくはなるだろうね」

「例えば誰を?」

「実際は全くそうじゃないけど、もし仮にだよ。私が働いてるような暇なコンビニではなく何らかの立地特性から異常に来客数が多く従業員の負荷が通常の近隣店舗よりも大きいような店で働いていたとして、指導的立場の本部社員が売り上げの向上だけを優先し過剰な発注を強要し従業員の作業量を不当に増加させ不満を抱く離職者の発生から人手不足に陥らせ不幸と苦悩をその店全体に及ぼすような独占禁止法が禁じる特権的地位の濫用が疑われるような行為を働いていたとしたら――その本部社員を殺したくなるだろうね。当然。」

「仮定の話にしては具体的ですね」

「設定にはこだわる質でね」

「特権的地位の濫用ね……その気持ち、分かるような気がする。サルトルの小説に似たような言葉が出て来たな」

「〈特権的瞬間〉だろ」

「そうそれ」

「そっちはどうなんだ。誰か殺したい奴がいるのか?」

「いかなる人間も死すべき存在です」

「ハイデガーか。で、誰なんだ?」

「それを教えるには条件があります」

「どんな?」

「その人物の殺害にロシア人が協力してくれるかどうか訊いて欲しい」

「その人物が死んだ場合ロシア人にメリットがあるのか?」

「きっとあります」

「後、それを私がロシア人に訊いたとして、私にはどんなメリットがあるんだ?」

「それならご心配なく、相応の手数料をお支払いします。それに……例のクリスチャン・ホーナーの偽装計画の件。あれについても黙っておいて差し上げますよ」

「偽装計画? 一体何のことだかさっぱり分らんが」

「そうですか、なら別に話してしまってもいいんですね」

「ちょ待てよ。分かった、あんたの望み通りに話を通しておくよ。だからその件は内密に頼む」

「承知しました。シンガーさん」

「ナカムラさん」

「はい」

「あんた、ちょっと変わったね」

「それほどでも」


 ナカムラはハードゲーマーだった。ただいくらゲームで勝ったとしても人生で負けたとしたらそんな人生にどれほどの価値があるとでもいうのか。何の価値も無い。だとしたらゲームには価値があるのだろうか。本質的に言えば、ゲームに価値はないと言うのは完全な誤謬である。ゲーム自体には多大な価値がありその開発には莫大なリソースが投入され天文学的な利益を創出する。ただそのゲームでの勝利に勝利と断定可能な程の価値があるのかは甚だ疑問だ。大会かなんかで入賞でもしない限り何の価値も無いだろう。ソクラテスに反論するとするば、価値は相対的だ。人を殺せば重罪だが、敵を殺すの名誉だ。ゲームで勝つにはプレイヤーの被害を最小化し敵の損害を最大化すればいい。ゲームは価値については人生と多くを共有しないかもしれないが、勝つ為の戦略について言えば価値とは逆にかなり多くを共有する。あるいは勝利についてはゲームは人生と同様に大きな高揚感を得られるかもしれないが、敗北については逆にゲームでは人生と異なっていくらでもやり直しが出来るという最上のセーフティーネットを完備する。ゲームでの過失はいくらでも修正訂正抹消可能だが、人生においてはその代償を数十年後に思いもよらないきっかけで弁済しなくてはならなくなるかもしれない。昔は悪かった自慢が横行する大らかな前世紀は過ぎ去りいかなる違法行為も電子的媒体に変換され、悪行は時空を超越して罰せられる新世紀が到来した。罪は貯蔵蓄積され人類が共有し世界によって罰せられる。罪は常に大衆を魅了するが故にあらゆる娯楽の素材となったが、これからはその役割を罰が受け継ぎ新たな娯楽となる。ゲームのルールは変わった。ナカムラはそう感じた。ならば俺は誰を罰してやろうか。このゲーム、もっと面白く出来そうだ。


 クラスターと言えばかつては爆弾だったが、クラスター感染が〈アルテミス〉で発生した時タケザキは思った。彼は既にパンデミックの観客ではなく、れっきとした登場人物として完全に巻き込まれたんだな、と。感染規模は従業員と客を含め、男女数十人に及んだ。ホステスはもちろん、タケザキ自身、加えて配下のツチオカ、ナカムラと言ったお馴染みの面々の陽性が続々と発覚する。地方の僻地でこれと言った観光名所も皆無な単なる通過点に過ぎない地域だからきっといつまでも大丈夫だと思っていたらギリシャ語のアルファベットで名付けられた強力な変異種は瞬く間にその勢力を拡大し国の指標で最も深刻な最終ステージへと突入した。ギリシャ語のアルファベット全種類使い切ったらその後のネーミングはどうするんだろうと言ったような無駄な疑問は思い浮かぶはずもなくパンデミックと言う名の物語の主役となったタケザキは市民病院の感染外来へと赴き医師から診察を受ける運びとなる。病院に向かう道路をポルシェの運転席でステアリングを握りながら、タケザキはこれまで感じたことのない感覚に浸っていた。世界的に猛威を振るう感染症に感染するというある種悲劇的な境遇はどこか彼に苦難に立ち向かう英雄的な気分を感じさせずにはいられなかった。最悪、死ぬかも。そんな風にも思ったりしたが、幸い症状は無く。すっかり余裕が無くなった医療情勢による方針転換から自宅療養が指示される。医師からの指示を要約すると、外出は控え、風呂は最後に入れという話だった。そんな事言ったって実際問題、生活必需品の購入を目的としてスーパーとかに行かなければならない。まあ、それでウイルスを拡散し感染者が増えたとしても、既に感染してしまった俺にとっては関係ない話だな。知ったことか。


 シンガーが〈アルテミス〉における第四ギリシャ文字変異ウイルス拡散事件についての情報を最初に知ったのは関係者からのSNSによる連絡によってだった。その第一報から得た情報では従業員に感染者が出た以外のことは何も分からなかった。その後の連絡からそれがどうやらクラスターっぽいことが類推され、最終的に新聞記事やネット情報でクラスターだと確定するに至る。報道された情報からその感染発生時期が仏教行事を由来とする非公式の大型連休にその端を発したことを確認した。シンガーはその仏教由来連休が始まる二週間前まで調子に乗ってはくちの如く飲みに行きまくっており、当然その連休中にも飲みに行きたいと思う事は思ったが、ちょうどその頃から感染爆発を危惧する報道がワイドショーで展開されたこともあって、シンガーは飲みに行かなかった。正確に言えば、そんな報道があっても人間の根源的欲望を制御するのは罰則なしの勧告では到底不可能なはずだからその大型連休に多くの客が店に集まり混雑することで、行ったところでほったらかしにされてあんま面白くないだろうなと思ったから行かなかった。大型連休も終わり客も減りそろそろ面白くなりそうだから行こうと思った瞬間にクラスターで休業になったという流れだ。危なかった。調子に乗り過ぎて飲みに行ってたら感染し、職場に迷惑を掛けた上で失業、破産、絶望、自殺していたかもしれない。正に死ぬ寸前だった。これがパンデミックの現実か。シンガーは思い知った。一刻も早くワクチンを接種しないと。だが、変異種の強毒化によってワクチンの定義も根本から上書きされざるを得ない状況に突入する。

 研究によると変異種は従来型に比べて人体内で大体千倍の数に増殖することが判明した。これは簡単に言うと敵の戦力が千倍になったことを意味すると思う、多分。戦力が千倍とは一体どれほどのものなのかを従来型ウイルスをトヨタ86前期型に例えて論考を進めてみよう。86も年々改良が進んで前期型から後期型、これからいよいよ新型のGR86へと進化して行くが、変異種の進化度もその程度であろうか。前期型は大体200馬力で後期型も大体一緒。新型は大体235馬力だったはずなので大体1.2倍くらいの馬力アップと考えていい。ファクトリー・チューン・ベースで考えればほとんど変わってないがクルマの馬力の場合、ターボ付けたりスーチャー付けたりエンジン換装したりすれば大体F1と互角の千馬力とかにはパワーアップ出来る。そうやって頑張ってパワーアップしたとしてもせいぜい大体五倍にしかならない。仮に千倍にしたとしたらどうなるのか、気になったシンガーは、ひょっとしたら宇宙に行けるくらいなロケットエンジンくらいかなと思って調べたら、それだと大体二十億馬力なので、ちょっと過剰だった。千万倍になってしまう。千倍にぴったりあてはまるレベルだとジェット戦闘機のジェットエンジンが大体二十万馬力なので大体ぴったし86の千倍だった。

 ワクチンは人類が配備する対ウイルス兵器群の中でも最も強力な主武装だったが、そのワクチンを対トヨタ86前期型兵器程度の武装と考えると、小銃程度に匹敵するはずだ。小銃のフルオート連射でタイヤをパンクさせれば走行不能に追い込めるだろう。その前提に従ってワクチンで戦力が千倍になった変異種と戦うのを置き換えてみると、小銃で最高速度マッハ2くらいのステルス戦闘機F-35Bと戦うようなものである。ウイルスの圧倒的進化速度は高度に発達した地球外文明との宇宙戦争をも彷彿とさせさえする。要するに既に人類はスピルバーグの映画≪宇宙戦争≫のような状況に追い込まれた可能性すら無いとは言い切れない。皮肉にもあの映画及び原作小説で敵地球外文明を全滅に追い込んで図らずも人類の手助けをしたのは、他ならぬウイルスだったが……

 強力な敵変異種との抗争においてはワクチンとは根本的に異なる新兵器ないしは戦略が必要だと思ったシンガーはその対抗策を立案しコンビニでの勤務中に三十代前半美人兼業主婦(厄年)へ発表した。案は二つあった。プランAは物理的にウイルスの人体侵入を阻止する防護服だ。防護服というと暑苦しかったり、重かったり、かっこ悪かったりして四六時中着るには身体的且つ心理的に不快なのが一般的なので、その辺を改善すれば普段着としてずっと着続けられ、結果的にウイルスに感染しなくなるのではという理屈だ。まずは、イーロン・マスクとかが開発した次世代テクノロジーで軽く、涼しく、快適にした上で、イーロン・マスクが作った宇宙船の乗組員が来ていた宇宙服とバットマンのコスチュームをデザインしたデザイナーにヒーローっぽいかっこいいデザインを拵えてもらい、更にガンプラの箱絵みたいな英語の所属先や数字を随所にちりばめ、なんなら各自の好みでステッカーとかを貼ってカスタマイズし、名称もバイオ・プロテクション・スーツみたいなかっこいい名前にして、布マスクの代わりに全国民に無料配布すればいいんじゃないかと。

 プランAの最大のネックはコストが掛かり過ぎる点だ。例えばユニクロとかで発売して爆発的にヒットするバイオ・プロテクション・スーツを開発出来ればそれに越したことは無いが不可能だった場合の代替案がプランBである。プランAとの共通項はこちらもややこしい病理学的対抗手段ではなくシンプルな物理的手段である点だ。やれ飲み屋だキャバクラだホストクラブとかでクラスターが発生し、牛丼屋、マクドナルドとかではあまり発生しないのは前者においては会話する頻度と時間が多いからだ。であれば、法律で一切の会話を禁止すればいい。時短要請、休業要請とかで飲食業に多大な損害を与えるよりは、営業してもいいけど、会話は禁止して違反したら逮捕するルールを適用した方がよっぽどマシないんじゃないかと。当然、こちらも結構なコストは掛かる。会話してるかどうかを監視するマイクとカメラをあらゆる飲食店に設置しないといけないし、違法な会話を取り締まるAIとかも開発しないといけない。でも、バイオ・プロテクション・スーツほどはカネ掛かんないかと。で後、問題になるのがどこからが〈会話〉に該当するのかという言語定義的問題である。その点についてシンガーは音節単位で判定するべきだと考えた。シンガーが発案した判定法は次の通りである。一音節まではセーフで合法だが、二音節以上は違法で逮捕。つまり、「あ!」とか「え?」やなんかは合法で、「あれ?」とか「ヤバッ!」からは違法になるという基準だ。ただ英語だと一音節の単語も多いから有利だし、方言なんかも同様に有利になる場合もある。更に言えばそのような法統制下においては一音節でも会話出来るように標準語が変化する可能性も否定出来ない。ただそんな変化に頼るのは気が長過ぎな話なので何らかの非発声的手段による意思疎通を普及する必要に迫られるだろう。手話、ジェスチャー、筆談、SNSや何かを駆使しつつ、イーロン・マスクにも何とかして貰いたい。

 この惑星は完全に汚染された。バイオ・プロテクション・スーツも〈禁話法〉も無い無防備な状況下においては家でネットフリックス見る以外休みにすることはゲームくらいしか無い。シンガーは最近ハマり出したウォッカのペプシ割を飲みながらスパイク・リーの≪ブラック・クランズマン≫を観つつ、そんな風に思った。ところで、あのマフィアの連中、そろそろあのマクラーレン奪還計画を実行するとかしないとか言ってたな。報道では店名は非公開だったからタケザキの店でクラスターが発生したなんて奴らは知らないはずだ。そんなこと教えたところで私には何のメリットも無いか。じゃ、放っておこう。知ったことか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る