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 ロマン・イブラギモフの物語はシルベスター・スタローンの名が米ソ冷戦と同義語だった頃にその端を発する。ロマンと同様彼の父親、アレクセイ・イブラギモフもソビエト社会主義共和国連邦においてスペツナズと呼ばれる存在であった。この特殊部隊という意味のロシア語はネイビーシールズのような固有名詞ではなく一般的な総称として使用される。従って具体的な所属を説明するとKGBのアルファ部隊であり、その主な任務は国外での暗殺だった。

 アレクセイはロマンがまだ四歳の時、アフガニスタン紛争に出征した。残念ながらその時が彼が最後に息子を見た機会となり、ロマンが父親から直接アルファ部隊における華々しい戦果を聞くことは出来なかった。しかしながらその当時の様子はアレクセイの戦友だったカセム・ソレイマニ少佐から後に彼がアレクセイの埋葬式に参列する為ロマンの家を訪問した時に詳しく聞かされることとなる。

 そもそもアルファ部隊(アルファグループ)とは1972年ミュンヘン・オリンピック人質事件における西ドイツの失敗を見たクレムリンがその二年後、KGB(ソ連国家保安委員会)所轄機関として対テロ及び人質救出任務に特化した組織として創設したのが始まりだった。もちろんスペツナズとは総称なので他にもスペツナズを擁する部隊は各軍に複数存在するがその中でもこれは最も優秀な人材を集めたトップ・エリート集団である。そしてソ連崩壊後、所轄がKGBからFSBに名称を変更した後、現在も存続するそのアルファ部隊における最大の戦果と評価されるのが1978年に開戦したアフガニスタン紛争にソビエトが軍事介入を開始した1979年のクリスマス・イブの三日後、12月27日に決行された≪嵐333号作戦(シュトルム―333)≫であった。

 KGB、GRU(ソ連軍参謀本部情報総局)、ソ連空挺軍の各スペツナズで構成された混成部隊の総勢660名はアフガニスタン民主共和国首都カブールにあるタジベク宮殿(書記長官邸)を襲撃。アフガン国軍及び書記長警備隊で構成された敵戦力300と43分間に渡って交戦。自軍戦死19名に対し敵戦力200以上を無力化(殺害)、最終目標のアフガン最高指導者、ハフィーズッラー・アミーン人民民主党書記長暗殺に成功する。

 本来であれば共産主義革命後の指導者であるアミーンは当時米国が極秘裏に支援していたムスリム勢力、ムジャーヒディーンらと代理戦争中でありソビエトとは友好関係にあるはずだが、モスクワはアフガン政権がワシントンと接近することを危惧していた中、アミーンが米国の代表者と極秘会談を行った事実を察知した。それを含む複数の不安要素から排除の決定が下されたと見られている。

 ソビエト側の部隊構成を詳述すると、主にソ連以外の国民によってGRUが設立した第154支隊から420名、ソ連空挺軍第345空挺連隊第9中隊から87名、KGBゼニート部隊から30名、KGBアルファ部隊から24名が参加、そのアルファ部隊構成員にカセム・ソレイマニ少佐とアレクセイ・イブラギモフが含まれたという話だった。

 ソ連側による宮殿周辺施設の制圧後、19時30分に≪シュトルム―333≫は開始される。ソ連の戦闘員147名は16台の八輪駆動ガソリンエンジン装甲車BTR-70に分乗し最高速度の時速80キロで宮殿に向かっていた。勇壮な車列の先頭車両内でアレクセイはカセムと隣同士に座り不安な面持ちを抱いていた。強力な14.5mm重機関銃を主武装として車体前方に搭載したBTR-70は見た目は先進的だが、兵士の間では「燃えやすい車輪付き棺桶」というオスプレイの「未亡人製造機(widow maker)」並みの悪名を広く轟かせた欠陥品だった。後継モデルでは軽油を使うディーゼルエンジンに換装されるが、当時はまだ燃えやすいガソリンを燃料としていた為驚くほど簡単に引火、炎上してしまうからだ。敵の弾幕による被害を最小化する為、一列縦隊で宮殿周辺に到着した車列は周囲を防御する塀と門を視界に捉えた途端、先頭二台は攻撃力を最大化する為並列走行へと瞬時に移行、即座に主武装の重機関銃による一斉掃射で無数の大口径ライフル弾をバラ撒きながら門に体当たりして突破、敷地内へ6台が侵入。残る10台は敷地外で停車し、各車両からソビエトの誇る精鋭が側面ハッチから一斉に飛び出し自動小銃及び手榴弾による総攻撃が始まる。

 燃えやすいガソリンエンジンと共に兵士らの間で不評だったのが狭い側面ハッチだった。完全武装状態で出るのは窮屈過ぎ度々より広い上面ハッチをつい使ってしまい敵スナイパーのカモになる事態が頻発する致命的欠陥ではあったが、≪シュトルム―333≫は短時間のミッションでそれほど多くの持ち物も必要としなかった為、大して難も無く各戦闘員は周囲に速やかに展開した。アルファ部隊の各戦闘員に支給された自動小銃は正確にはショートカービンに分類されるAKS-74Uで当時のソ連軍制式自動小銃AKS-74の短銃身化モデルであり建物内やヘリコプター内などの狭い空間での取り回しの良さを優先させた特殊部隊、空挺部隊、車両搭乗員、砲兵、ヘリコプター乗員向けの武器で近年ではアフガニスタン紛争に義勇兵として従軍したウサマ・ビンラディンの所持品としても有名になった。というのもソ連と交戦したムジャーヒディーンらにとってAKS-74Uを所持することは敵の戦車や攻撃ヘリといった強力な兵器を撃破した証となる戦利品、トロフィー的意味合いを帯び、その所持はステイタスと見なされるが故である。アレクセイ・イブラギモフは敷地内に出ると即座に目標とすべき遮蔽物となる車両、ないしは樹木を発見し全力疾走する。彼とパートナーとしてコンビを組むカセム・ソレイマニも同じ方向に走り遮蔽物に身を隠す。戦闘中の意志疎通は全てハンドシグナルで遂行され、前方に位置するアレクセイはカセムに、三つ数えたら援護射撃を開始するから前進せよ。と伝え、指でカウントダウンする。アレクセイが敵が潜む建物に向かってAKS-74Uの5.45×39mm弾をフルオート連射開始と同時にカセムは前進する。AKS-74シリーズの前身となる有名なAK-47≪カラシニコフ≫はより大口径な7.62×39mm弾を使用するので接近戦では強力な破壊力を発揮するが多くのデメリットがあった。5.45×39mm弾への小口径化によって反動の低減及び初速の増加から遠距離射撃精度向上、アーマー等の貫通力向上といった実戦での直接的メリット以外に弾薬重量低減による携帯時の負担軽減及び輸送可能弾薬量の増加といった付随メリットも生まれた。

 重機関銃の14.5×114mm弾の一斉掃射によって分断、破砕されたかつてヒトだった肉塊をまたいで前進する二名のスペツナズは他の戦闘員らと共にタジベク宮殿本館侵入を達成する。ソビエト軍が周到に準備した作戦を開始し、装甲車で突撃する直前のタジベク宮殿はパーティーの真っ最中だった。公共福祉の充実、教育の拡充といった左翼的改革を押し進めた前任者をクーデターで暗殺し権力を握った元№2のハフィーズッラー・アミーンはアメリカ側と密談した過去に加えニューヨークのコロンビア大学留学、その大学院で理学修士号まで取得した経歴があり、宮殿を豪華に改築した上でそれを祝うパーティーまで開いたりするようなところからするとフィッツジェラルドを愛読するようなリバタリアン的信条を抱く洒落たインテリの横顔が目に浮かぶ。贅沢で派手好きな行為はソ連共産主義政権の目には好ましからざる光景と映ったであろうことは想像に難くない。権力闘争を這い上がってトップの座を掴み取ったアミーンは上機嫌にウォッカ・マティーニでも飲みながら「強欲は正しい(Greed is good.)」と宣言した≪ウォール街≫の凄腕投資家ゴードン・ゲッコーばりのスピーチで会場を盛り上げていたのかもしれない。そんな資本主義者風の享楽を打倒する為に送り込まれたエリート部隊には以下の命令が下されていた――「宮殿内で出会った者は全員殺せ」

 最高指導者の最期がいかなる状況であったのかを正確に知る者はいない。ある者はバーカウンターの後ろに隠れていたと言う。彼が手にしていた物がウォッカ・マティーニのグラスだったのか、ピストルだったのか定かではない。ゴードン・ゲッコーばりに高級スーツを着こなしていたのか、下着姿だったのか定かではなく、スペツナズによって射殺されたのか、自分で頭を撃って自殺したのかも定かではない。ただ確かなのは彼がその時死んだという事実。元々アフガン共産主義政権が再三要請し続けたソ連の軍事介入はその銃口がムジャーヒディーンではなく彼ら自身に向けられるという予期せぬ幕開けだった事実。その後の長年に及ぶ泥沼化によってアフガン及びソビエト両国民に多大な不幸と不条理を負わせた事実である。米国の元高官の証言によればソ連の軍事介入によって同国が多大な不利益を被ることをワシントンは容易に想像出来た。そこから類推すれば米国寄りのアミーンが権力を掌握しモスクワを動揺させた背後には何者かによる思惑が作用していなかったとも言い切れないであろう。

 ロマン・イブラギモフにとって彼の父親が世界中の教科書に載り大学入試に出題されるような歴史の表舞台で活躍した事は大きな誇りであった。だが、アレクセイの埋葬式の際、ロマンの自宅でカセム・ソレイマニ少佐が語った話は真実ではなかった。ロマンと話をした時点では少佐は確かにアルファ部隊のスペツナズではあったが戦地でアレクセイと出会った時はまだそうではなく、二人とも下っ端の落ちこぼれ連中が集められる前哨基地と呼ばれた場所に送り込まれ過酷で退屈な日々を送っていた。前哨基地とは敵の潜む山岳地帯の山の頂上付近に散在しそこに送り込まれた兵士は各分担地域を随時偵察し敵の奇襲攻撃を防ぐ役割を負わされている。基地が設営される場所は標高2300メートルもあり、人員移動はヘリで行われる。物資補給もヘリで週一回実施され物資を下ろしたヘリは帰りに死傷者を運び出す。偵察任務時以外は14人の兵士が20メートル四方の掘っ立て小屋に押し込められ、会話、炊事、食事、洗濯、武器の整備、つまらない喧嘩に明け暮れる。気晴らしは何も無い。テレビもラジオもネットフリックスも無い。従って多くの者が大麻に手を出す。大麻は村人とコンビーフの缶詰と物々交換したり、殺した敵から奪った。戦闘が無い日は毎日吸い、ある者は戦闘時にも吸う。

 そこでの日々の生活はそれ自体が拷問に等しかったが、実際の拷問に比べれば天国だった。アレクセイとカセムも着任早々、先輩からムジャーヒディーンらが捕虜にしたソ連兵へ行う拷問について詳しく聞かされた。

「お前ら〈シャツ脱ぎ〉って聞いたことあるか?」

 アレクセイは答えた。

「〈シャツ脱ぎ〉? さあ。カセム、お前は?」

「聞いたことないね」

偵察に行く兵士は余分に手榴弾を持って行く。包囲され逃げられなくなった時に手榴弾を使って敵を道連れに自爆するのだ。そうすれば、捕虜になった挙句〈シャツ脱ぎ〉と呼ばれる拷問を受け苦しみながら死なずに済む。

ある夜、夜間偵察任務を控えたカセムは手榴弾の組み立て作業をしていた。完成状態で保存して置くと危険なので実際に使用する直前に信管を取り付けるのである。しかし、その作業を行う彼の手はひどく震えていた。原因は恐怖や不安ではなく何らかの感染症を患い高熱に苦しんでいた為だ。任務開始前のミーティングで彼は隊長に任務の免除を願い出る。周囲の者らは口々に不平をこぼした。

「大した病気でもないだろ」

「仮病に決まってんじゃん」

「死にたくないだけだろ」

「なんなら、今すぐ殺してやろうか」

 部屋が殺気立つ中、アレクセイが叫んだ。

「ガタガタうるせーんだよ! ったく、どいつもこいつも。俺が代わりに行ってやるよ」

「悪いな。アレクセイ」

「気にすんなって」

 アレクセイを含む三人が夜間偵察任務に出発した。彼らは日が昇っても戻って来なかった。その二日後、熱が少し下がるとカセムは隊長に三人の捜索を志願した。

「まだ、寝てないとダメだろ」

「大丈夫です。行かせて下さい」

「ダメだ」

 カセムは命令に背いた。

 深夜、目的地の村に一人到着したカセムは一軒一軒しらみつぶしに捜索を開始する。

「イ、イイスース……」

 倉庫で彼らを発見したカセムはそう呟き、泣きながら胸の前で十字を切った。三人共、〈シャツ脱ぎ〉にされ死んでいた。生きていたらもっと悲惨だったろう。手足を縛られ上半身裸にされた彼らは腹の下から皮を鎖骨付近まで剥がれ、接合されたままめくられた皮で頭部を包み上部を結ばれた状態で床に寝かされていた。

 カセムは泣き終わると、ブーツを脱ぎナイフを手にした。アレクセイの死が彼の殺人者本能を覚醒させた。彼は寝静まった村で音を立てずに行動し、女子供を除く村人全員をナイフで殺した。運良く殺した者の中に敵の要人が含まれていたので、命令違反で罰せられるどころか勲章を貰った。その後、特殊部隊向けの訓練施設に召喚された彼はエリートとしてアルファ部隊への道を歩んで行く事となる。


 真実ではなくともロマンにとって彼の父親は古典文学の登場人物に匹敵する英雄であり完全に神話となった。アレクセイはアキレウスであり、アガメムノンであり、オデュッセウスだった。彼がエリートの息子であるという自負は成長過程においてポジティブに作用した。中学校に進学し柔道部に入部したロマンは周囲の不良にそそのかされ軽微な違法行為等に明け暮れる堕落した日々を送ったりもしたが、そこから真面目な路線に引き戻した要因の一つが正にその自負であった。高校受験を前に心機一転、勉学に励み難関進学高に合格しそこではロシア発祥の格闘技サンボに打ち込むこととなる。だが、とある大会前の合宿の宿舎で部員同士が集まってポーカーをやり始めた時、昔の悪い癖がつい再発してしまう。彼は中学時代柔道部の仲間からポーカーのイカサマの方法を教えられ密かに習得していた。それは主に二つの技を組み合わせたイカサマだった。とりあえず何らかの方法で相手の気をそらせたり隙を見たりなんかしている最中に自分用の絶対勝てるフラッシュや上位のスリーカードみたいな手札とハメる相手用のまあまあいいけど勝てない低位のスリーカードを手早く準備しどこかに隠し持って置く。自分がディーラーになったらそれを束の下部に入れ第一の技、フォールス・シャッフルを行う。束の上部だけをシャッフルし下部はそのままの状態を維持するのである。続いて第二の技、ボトム・ディール。全部上から配ってるように見せかけて自分とハメる相手には下の仕込みから配る。相手はまあまあいいスリーカードが来るから当然勝てると見込むので掛け金を大幅にレイズさせ、なんならオールインさせ、最後のショーダウンで全額かっさらう。イカサマで金持ちのおぼっちゃん連中からカネを巻き上げまくり調子に乗ってたら、結局バレて全員にボコられ部活から追放されてしまったが、その後彼はまた心機一転勉学に励み難関のリャザン空挺軍大学に見事合格する。

 この国ではその頃既に戦争は歴史になり大学入試の暗記科目に変わり果てたが、ロシアは違った。ロマン・イブラギモフが大学で戦術・特殊訓練科に所属し二年目を迎えた冬、ロボットアニメで描かれた地球連邦とジオン公国との一年戦争を彷彿させる第一次チェチェン紛争がロシア連邦とチェチェン共和国との間で勃発する。アニメでは主人公がたまたま見つけたガンダムに乗りマニュアルをめくりながらザクと戦う出来事をきっかけに戦争に巻き込まれて行ったが、ロマンはガンダムを見つける事もなく紛争に巻き込まれもせず在学中に停戦を迎え無事卒業する。だが、もし彼が大学入試に失敗し、高卒で軍に入ってたら、間違いなく敵地に送りこまれていただろう。ソ連崩壊直後、エリツィン大統領率いるロシア連邦軍はその財政難からベテラン兵を解雇してしまっていた為、経験の無い新兵を派遣せざるを得ず、兵器物量においては圧倒していたが、戦術面においては想定外の苦戦を強いられた。市街地のビル群に潜む敵の巧みなゲリラ戦法に晒されたロシア兵らの中にロマンが加わっていたら、若くしてその命を落としていたかもしれない。

 第一次チェチェン紛争後、ロシアはチェチェンの独立を凍結扱いにした。独立を認めるのでも認めないのでもないって事だが、事実上は独立派が支配権を維持するという引き分けみたいな結果、あるいは実質的に独立を勝ち得たと見なせばチェチェン勝利と見なす事も可能である。それから三年後、チェチェンはロシアの属国への侵攻とモスクワでの爆破テロによって攻撃を再開。それに対する反撃という体裁でエリツィン大統領はチェチェン再侵攻を決定、側近のプーチン首相が軍事行動の直接的指揮官として剛腕を振るう。第二次チェチェン紛争が勃発したのはロマンが大学を卒業した二年後だった。

 戦闘終了後国民の圧倒的支持を得て大統領に就任した華々しい英雄のプーチンが実施した戦術は絨毯爆撃を含む空軍力を全面行使した民間人殺傷を厭わない紛れもない民族虐殺方式で一旦は敵勢力を大幅に弱体化させはしたが、その非倫理的手法への復讐心から無数のテロによって反撃される情勢へと転げ落ちる結果となる。かつて核で民間人を虐殺した国を含む西側諸国から非人道的と激しく非難された第二次チェチェン紛争へロマンはロシア空挺軍第98親衛空挺師団 第331連隊に基づく混成連隊戦術群所属として出征、与えられた命令に一切の感情的判断を付与することなく躊躇なく実行し輝かしい実績を上げ、戦闘終了後はFSB(ロシア連邦保安庁)アルファ部隊へ異動、西側欧米諸国へ亡命したチェチェン独立派残党の極秘暗殺任務に就くようになる。

 若い頃はマシーンとして敵を殺しまくり、一切の良心の呵責など抱かなかったが、年を重ねるに従ってそんな彼にも徐々に変化が芽生え始める。身分を偽りフランス、ドイツ、イギリス等の西ヨーロッパへ潜入し静かな生活を営む敵残党を追跡、卑劣な手段で殺害する日々の生活からストレスを溜め込み、毎晩あおるジャックダニエルスの量も増え、ソ連崩壊後合法化され乱立した各地のカジノでブラックジャックにハマってしまい借金が膨れ上がった。彼の堕落傾向はCIAに目を付けられ、ロシア国内で暗躍する秘密諜報員によってリクルートされるとカネ目当てに極秘情報を提供する〈コラボレーター〉としてCIAへ協力するようになってしまった。それが発覚しロシア警察に逮捕され裁判で懲役十二年を宣告されたロマンはヤバス移住地型収容所へ収容される。


 違法薬物所持の罪でヤバス移住地型収容所に収容されていたニコライ・ルシコフは受刑者らのコミュニティ内において〈カーディナートル〉と呼ばれる立場にあった。ロシアにおいて刑務所は矯正施設と呼称されそれは主に四種類あり、犯罪の性格と程度によって収容される矯正施設の分類が決定される。移住地型収容所は犯罪が軽微および中程度。重大であれば、一般規則矯正収容所。特に重大であれば、厳重規則矯正収容所。ロシアでの事実上の最高刑である終身刑受刑者及び特に危険な受刑者は最も厳重な特別規則矯正収容所へと収容される。移住地型収容所への収容者の犯罪が中程度までといっても、それには初犯の殺人罪まで含まれ、マフィア同士の抗争における殺人犯等が収容される。そこでは受刑者は警備ではなく監視のもとに置かれ、一定の時間内であれば内部を自由に移動出来る。だから全寮制の高校に近い感覚で受刑者は監獄ではなく宿舎の大部屋で複数名が共同生活し、産業施設で労働し賃金を貰い売店で食料品や煙草等を購入し、宿舎で自由に飲食、喫煙出来、テレビも自由に視聴出来る。そのようにかなり外界に近い社会生活が営われる訳だが、当然そこには一般社会とも共通する序列による支配体制、ヒエラルキーが形成されより安定的な秩序が志向される。上層にはマフィア関係者、中層には一般の犯罪者、そして下層は密告者、同性愛者となり、その上層でも最も特権的でリーダー的な役職が〈カーディナートル〉でありマフィアの幹部構成員であるニコライ・ルシコフがその役職に就任していた次第である。

 とある夕刻、ニコライ・ルシコフはカーディナートル専用の快適な個室で看守に賄賂を渡し手下に差し入れさせた赤ワインを嗜みながら≪ゴッドファーザー パートⅢ≫のDVDを鑑賞していると側近のマフィア構成員コーリャが駆け込んで来た。

「兄貴ッ!」

「違うだろ」

「あ、カーディナートルッ!」

「何だよ、うるせーな」カーディナートルは煙草に手を伸ばした。

 コーリャにライターで火を付けて貰ったニコライ・ルシコフは深々と煙を肺に送り込んでから少しワインのグラスをすすった。

「さっき若い衆から連絡があったんですが、食堂の幹部専用テーブルで勝手に座ってメシを食ってる奴がいたって話なんです」

「あり得無くね、それ? ったく仕方ねえな。そんなのはな、一々俺に連絡しねえで、お前が独自に処理しろよ」

「すんません」

「ま、いいよ。今回は俺が対応してやっから」

 カーディナートルは煙草を灰皿に置き、立ち上がった。二人は食堂へ向かう前に、居住区に立ち寄り十台ほど設置された二段ベッドの一つの下段に上半身裸で腰掛け読書していたタトゥーまみれのスキンヘッドの大男の方へ向かうとニコライは彼に話し掛けた。

「ウラジーミル、仕事だ」

「ちょうど暇だったとこです。道具は?」

「いや、ちょっと生意気なガキがいるみてえだから、そいつが拒否出来ないお願いをしようと思ってな」

「承知しました、カーディナートル」

 ウラジーミルが言った〈道具〉とは彼が密かに隠し持った武器のことだった。彼は人目を避けつつこっそり歯ブラシの柄の部分をテーブルの角で少しずつ削り鋭利に尖らせた物を準備していた。ただ、そんな物を実際に使ったらこんな快適な移住地型収容所ではなくより過酷な施設へ移送されてしまう。それは飽くまでも非常事態用の最後の手段だった。彼はシャツの袖に腕を通してから立ち上がり、二人に付いて行きながらボタンを何個かはめた。


その日の夕食は黒パンとシチーだった。ロシアでは警備の厳重度に関わらず全分類の矯正施設で調理は囚人が行う。産業施設では様々な工業製品、食料品を生産し利益を上げ、更に調理も囚人にやらせる事によって人件費を削減させた上で囚人らの技能向上も図られるという極めて合理的な運営理念が根付いている様子が窺われる。メニューもそれほど粗末な物が出る訳でも無く、囚人らを見渡すと肥満体系の者もおり栄養的にも充実している様子が垣間見れる。トレーに調理担当者から受け取ったシチーと黒パンを載せ、ケンタッキー・ウィスキーが無いのを多少寂しく思いながらロマン・イブラギモフは近くの空いたテーブルに向かい椅子を引き座って食事を取り始めた。シチーはロシアの伝統的なスープである。スープは一度に大量に作りやすいのでこういった大人数向けのキッチンでは仕事もしやすい上、おいしく、皆に好まれた。具はキャベツ、何かの肉、玉ねぎ、トマト、じゃがいも。それを塩、コショウ、油、バター、パセリ、サワークリーム、すりつぶしたニンニク、ローリエで味付けする。戦場で腹に詰め込む携帯食よりはかなりマシだし、監禁生活も軍隊での集団生活における厳しい規律に比べればそれほどの苦でもない。それほどの難も無くそれなりにこなせそうだなと言った楽観的観測に浸りつつシチーを食べ終えしばらく寛ぎ、席を立って食器を返そうと思い立ったその時だった。

「おい、チンピラ。テメェ、どこ座ってんだ、コラッ!」

 敵は三人。話し掛けて来た中肉中背の男、年上の首領格、長身の男。ロマンは反射的にそいつらをどのように殺すか自動的に考察したが、その考察を実行する代わりにより理性的に対応した。

「申し訳ありません、新入りなもので。直ぐ立ち去ります」

「まあ、そう急ぐなって」

 首領格が彼の隣に座った。

「あんた、何やらかしたんだ?」

「スパイ罪です」

「スパイ罪ね。外交官とかだったのか?」

「所属はFSBのアルファ部隊でした」

「ふうん」

 ニコライは分かったような顔をしてからコーリャの方を見た。コーリャは首を傾げていた。その様子を観察していたウラジーミルがカーディナートルの耳元で囁いた。

「カーディナートル、ちょっといいですか」

「え?」

「あっちに来て貰えませんか」

「おお」

 ウラジーミルは立ち上がったニコライを導きロマンから少し離れた位置で囁いた。

「奴はスペツナズです」

「スペツナズ?」

「それも相当なエリートです」

「エリート」

「非常に危険な男です」

「そうか」

 ニコライはロマンの方へ戻ると聊か調子を変えた。

「まあ、あれだよな。来たばっかだから勝手がよく分からないのは仕方無いよな」

「いえ、大変なご迷惑をお掛けしました。申し訳ございません」

「いやいや、全然。全く何の迷惑でもないし。そうだ、とてつもなく重要な用事思い出したわ、やっば、急がないと」

「もし良かったら、お名前を教えていただけませんか。申し遅れましたが私はロマン・イブラギモフと申します」

「ロマンか、よろしくな。俺はニコライで、こいつがコーリャ、それとウラジーミルだ」

「よろしくお願い申し上げます」

「じゃあ、急いでっからもう行くわ」

「そうですか。ところでポーカーはお好きですか?」

「ポ、ポーカー?」

「出来れば今度、ご一緒にどうかと」

「もちろん」

「お誘いをお待ちしております」

「分かった。じゃあな」

「では、また」

 ロマンは歩き去る一行を見送りながら思った。ポーカーか、久々だな。

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