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ピエール・マルコフはスターバックスの駐車場で話し掛けてきた悪党共とストリート・レースの条件等の話し合いを終えると二杯目のコーヒーを飲み干してから席を立ち駐車場のマクラーレンP1へ向かいその運転席に座った。レース開催日は来週の日曜日に決まった。集合場所とスタート地点はここなのでついでだからこれから指定されたコースを走ってみようか。そう思った彼はエンジンを掛け車道へ向かってステアリングを切った。時刻は午後三時で気温は低く空は曇っていたが、大通りの路面はドライで完全なトラクションを得られた。平日の日中で交通量は多く、飛ばしたところで一銭にもならない練習走行だし、パクられたり事故るリスクも考慮しアクセル開放量は程々に抑え大人しく走った。レースで勝つにはコースを全開で走り込んで、ブレーキングとシフトチェンジのベスト・タイミングをコーナー毎に暗記しなくてはならないがこんなにゆっくり走ってたらあまり参考にはならない。しかしながら、無論、コース自体の暗記も必須ではあるので全く無駄という訳では決して無い。幹線道路では結構余裕だったが、まだこのP1は貰ってから四、五回しか運転した事がなかったので海岸近くの狭い道に入るに従って、1946ミリの車幅から相当の緊張を強いられる事が発覚し始めた。リアス式海岸に沿ったワインディング路では道幅も限界まで狭くなりまともに走れたものでない。しかもブラインド・コーナーがしつこく連続するので対向車との衝突リスクも半端無い。更にだ、日中の午後だっていうのに日当たりの悪い部分は水分が残り凍結している始末だ。こんなコンディションじゃサイズの大きさからP1では逆に不利になるのではないかとさえ思えて来た。だが海岸道を抜けまた幹線道路に戻ればまた全開走行出来るし長い直線勝負もあるので、例え海岸のS字コーナーで手こずって差を詰められたとしてもP1の圧倒的な加速性能で簡単に引き離せるはずだと多少は安心した。彼は引き続き同じコースを四周走ってから自宅に向かった。自宅は父親のミハイル・ルシコフが建てた豪勢な邸宅で、彼はそこで父が母親と離婚した後に結婚した義理の母親、護衛やその他の使用人と共に同居していた。いつも家族と共に取る夕食までにはまだ時間があったので、PS4のレーシング・シミュレーションゲーム≪アセットコルサ≫を起動した。グーグルマップかなんかで自分で一般道からコースを設定しそれをゲーム上に再現して自由に好きなクルマで走らせられれば来週のレースを直接的に練習出来るのになと思いつつ、ニュルブルクリンク北コースを選択し、マクラーレンP1で全開走行した。一週目では慣れてなかったからか壁に激突しボディと窓ガラスにダメージを受けながら走行した。いくらレースに勝っても、こんなにあちこち壊してしまったら利益が大幅に減少してしまうなあ。まあ、勝つには勝たないといけないが、それでもなるべくぶつけないように完走したいもんだ。何週かするとすぐにP1に飽きてしまった。こういうハイスペック過ぎるマシンはゲームで走らせると意外と面白くなかったりもするので、ピエールは車種をRX-7 Tunedに交換し走行を再開した。他の高速サーキットだと違うかもしんないけど、ニュルとかだとこんな感じの改造車くらいが走ってて一番気持ちいいな。必死にタイムを削るうちにいつしか時は過ぎ去り夕食の頃合いになって来た。モスクワから連れて来たイタリア人シェフが専属調理人として住み込みで働いていた頃はメシがうまかったが、彼が〈ゴールドライト〉に転職すると共に新たに雇われたロシア人コックが調理を担当するようになってからすっかりメシがまずくなったという声が各所から殺到し、ピエールもほぼ同意見だった。〈ほぼ〉というのも、不味いってのはちょっと言い過ぎかなというのがピエール個人の正確な見解であった。スキルそのものは普通だった。そもそもプロって時点で逆に不味く作る方が難しいんじゃないか? 問題はメニュだった。日本人だってチーズバーガーを食うし、アメリカ人だって醤油ラーメンを食うのである。であるならロシア人だからって毎日ロシア料理ばっかりだったら辟易してしまうだろって話だ。そいつはとにかくロシア一点張りなのだ。その点、シェフは国籍を問わず新たなメニュを熱心に研究し、たまにアヴァンギャルド過ぎて個性的過ぎな味になることはあっても毎日のバリエーションが豊かで食事を娯楽として提供していた。そのような不満を父親に言ってみたところ。
「じゃあ、シェフの店に食いに行けばいいじゃないか」
「毎日?」
「ああ」
「賛成」
父親の専属運転手がベンツSクラスを玄関先に用意すると、ピエールが助手席へ、後席に父親と妻のエリザベータがそれぞれ乗り込み〈ゴールド・ライト〉へ出発する。もう一台のクルマで来た二名の護衛と共に入店した三人は店長のマリアに奥まった最上のテーブルに案内されメニュを渡された。父親夫婦は共に白ワインとシュリンプ・トースト、デザートにチョコレートラバケーキを注文し、息子はバドワイザーとダブルチーズバーガーとフレンチフライを注文すると、マリアは伝票にオーダーを書き込み、厨房へ行ってシェフにオーダーを伝えた。
シェフは調理を始めた。フライパンにエビ数匹を入れて、オリーブオイルと塩をかけて炒めてから370度のオーブンに入れる。フライパンをオーブンから出し、エビの頭を潰して出汁を出す。それにスライスガーリック、ライム汁、白ワイン、アルボン唐辛子のロースト、きざんだ玉ねぎ、潰したガーリック、バターを入れて炒めてからまたオーブンに入れる。別のフライパンでトーストを炒める。オーブンから出したフライパンにパセリとパクチーを入れて炒める。皿に置いたトーストの上にエビを置いて、出汁をかけて、レモン汁をかける。
肩ロースと肩バラ半分ずつの牛ひき肉に塩、つなぎ無しで作ったパティをグリルに二枚敷いて焼きヘラで四分の一部分ずつプレス、それぞれにクラフト社製アメリカンチーズを載せる。一方にオニオンを載せ、オニオンを載せたパティにもう一方のパティを載せてちょっと置いてからヘラで二枚重ねのパティを掬い取って皿に置いたバンの上に載せピクルスを盛ってからバンを上に置く。その横にフレンチフライを盛る。
マリアが料理を運んで来ると夫婦と息子はしっかりと出汁のしみ込んだトーストとチーズの水分が肉に行き渡ったジューシーなバーガーを堪能しながらワインとビールを楽しんだ。
「ところでピエール。お前あのマクラーレンでまさかレースなんかしないよな?」
「絶対しないよ、レースなんか」
「ならいいけどよ。最近ふざけたゴロツキ共が違法ストリートレースで金持ち騙して荒稼ぎしてるって噂だぞ。ひどい時はクルマまで取られるって話だ」
「へえ」
「お前もそういう連中に引っかからないようにしろよ」
「大丈夫だよ、パパ。僕をそこらのドラ息子と一緒にしないで欲しいな」
「だといいがな。しかしこのシュリンプ・トーストは絶品だな」
「このバーガーもね」
「やっぱシェフは腕が違うな」
その夜、ピエールはガールフレンドのナンシーと〈バウンシー〉へ飲みに行った。二人でカウンター席に座ると彼はトム・コリンズ、彼女はジャック・ダニエルズのロックをそれぞれ注文した。彼女はアメリカ人だった。ピエールは彼女と〈バウンシー〉で知り合いお互い好きだった銃の話で盛り上がり、家に彼女を招待し彼の銃コレクションを披露しながら仲を深め付き合い始めた。
「ナンシー」
「ん?」
「ストリートレースをすることになった」
「へえ、見たいな」
「じゃ、一緒に行こう」
「うん。勝てそう?」
「じゃなきゃやんないよ。こっちは900馬力オーバーだし、相手は古い日本車なんだ。余裕だよ」
「ふうん。相手のクルマってなんなの?」
「スープラ」
「A80?」
「ああ」
「2JZじゃない。その頃の日本車のエンジンって改造すれば1000馬力オーバーなんかザラじゃないの」
「だとしても、こっちはハイブリッド・ミッドシップでグリップと低速トルクでは上回るはずだし、スタートでは前に出れるはずだから、後はブロッキングで抑えられるさ」
「そう。じゃ、頑張ってね」
「楽勝だよ」
最後のセリフを余裕の笑みで言い放ったピエールだったがその実、内心はナンシーの2JZエンジンに関する解説で絶望のどん底に突き落とされていた。彼はカラカラに乾き切った喉にトム・コリンズを流し込んだ。
翌週の日曜日、シンガーはスターバックスの駐車場で86の運転席から降りると、違法レースを控えた関係者がそれぞれの準備作業に勤しんでいる様子を目にした。ナカムラは器用そうな細長い指で二台のドローンを組み立てている最中で、ツチオカはメンテナンスと改造を担当しているショップのメカニックと思しき人物とスープラのフッドを上げ中を覗いていていた。A80前の二人は大金の懸かったレースを控えたことから異様な殺気を放ちまくりで近寄り難かったので遠巻きに迂回しナカムラの方へと進んだ。ドローンを組み立てると言っても持ち運ぶ度にわざわざプロペラを外したりするような厄介なプロセスは必要なく折り畳んだ各部分をオスプレイ風に外側へ広げる作業をしていたというのがより正確な表現であった。スープラから響き渡る近所迷惑なアイドリング音や明らかに車検を通らない車底高等の狂暴なディテールと小型無人飛行装置のオモチャっぽい外観は鮮やかな好対照を成していた。
「ナカムラさん。おはようございます」
「おはようございます」
「そのドローン随分小さいですね」
「ええ。重さは198グラムです」
スープラとは単位から違うな。
「へえ。軽いけど、性能はすごいみたいな感じですかね」
「最高クラスです」
「ほお。どんな感じですか」
「最高上昇高度5000メートル。自動障害物回避機能。設定した飛行ルートをオートパイロット航行してロックオンした被写体を自動追尾撮影が可能です」
「ふうん。なんかかっこいいですね」
「一台ずつスープラとP1をそれぞれ自動追尾オートパイロット撮影して後からスープラの車内に取り付けた全方位遠隔操作撮影可能なカメラ映像と編集でつなぎ合わせる計画です」
「なるほど。頑張って下さい」
「はい」
こいつ随分とハイテク機器に詳しそうだな。これからはこんな感じのデジタルデバイスで撮影されたデジタルデータを人工知能で管理する電子的監視システムによって大衆は支配抑圧されていくことだろう。あんまり面白そうじゃないけど、安全そうなことは確かだな。シンガーはかつて読んだジョージ・オーウエルの小説で描かれた1980年代の描写を思い出しながらスターバックスの店内に入りカウンターでコーヒーを注文し、席に座ってそれを飲みながらスタンダールが1830年代のフランスを舞台に描いた情熱的な自由主義者が若くして華々しく死ぬ儚い人生の物語を読み始めた。封建主義下においては抑圧的な社会制度で大衆を従順な豚のように管理しようとした支配者層に自由主義者は反旗を翻したが、民主主義下においても発達したテクノロジーが安価に多大な恩恵をもたらす反面、抑圧的に機能し出す可能性もある。電子的抑圧が非常にマイルドならほとんど何の苦痛も与えないであろうから抑圧への抵抗の意志自体を消滅させるだろうが、そうでなければいつか誰かが反旗を翻すのかもしれない。マグカップのコーヒーを飲みながらジュリアンの民事訴訟リスクを伴う人妻との恋を堪能していると特権階級的エンジン音が耳に入って来た。マクラーレンではなくタケザキのポルシェだった。助手席にはマヤが乗っていた。久し振りだな。〈アルテミス〉を辞めてから全く会わなくなってしまった。タケザキの交際者になっていたのか。あるいはただ単にここまで乗せてもらっただけなのかもしれないが。二人はポルシェから降りると店内へと向かいカウンターでドリンクを注文した。店員がそれを準備している間、カウンター近くのテーブル席に座っていたシンガーに二人は近寄った。シンガーはマヤに会えて嬉しかった。余計なのがいなけりゃもっと良かったのに。
「よー、シンガー」
「どうも」
「お久しぶね」
マヤに声を掛けられたのでシンガーは彼女を見た。
「うん」
「俺たち付き合ってるんだ」
「そうか。そう思ったよ」
「近く結婚することにしたよ」
「そう。それはおめでとうございます」
「ありがとう」
「結婚式来てくれよ」
「もちろん。楽しみにしてるよ」
「じゃあな」
「またね」
「ああ」
タケザキとフィアンセはドリンクを取りにカウンターへ戻った。シンガーは読書を再開した。
ピエールがナンシーと共に到着し、それぞれスタンバイが完了すると、P1とスープラはスターバックスの前に横一列に並び、レースがスタートした。ツチオカのスープラはスーパーへの買い物にも使う普段使い仕様だったので元々は600馬力くらいしか無かったが今回、916馬力、トルク900ニュートンメートルのP1との対決にあたってエンジンを突貫作業で改造し、バルブスプリング、ヘッド、カムシャフト、タービン等をアップグレードした結果1100馬力、トルク1352ニュートンまでパワーアップ、加えてサスペンション、クラッチも交換していた。P1には最新の電子デバイスによるローンチコントロール機能は搭載されてはいたが、マニュアル車の場合、文字通り人間の手足で電子制御と同等もしくはそれ以上のパフォーマンスを再現出来る。ツチオカはスタート前にハンドブレーキを引きエンジンの回転数を適正値の2000から3000回転までの間に合わせながらアクセルを吹かし続けスタートの瞬間にクラッチを一気につなぐと同時にハンドブレーキを下げつつアクセルを更に吹かし続け軽くリアをホイールスピンさせながら爆発的なロケットローンチを決めた。パワーで圧倒する上、プロのスキルを習得したツチオカが駆るスープラはスタートから圧倒的加速で先行し、直線区間においてはその差を更に広げる展開でレースは始まった。A80スープラの場合、車重で100キロ程P1より重く設計的にコーナリング・スピードで大分難がありはしたが、そこはどうにかGTウイング等の空力パーツでダウンフォースを確保したこともあって追いつかれる程のタイムロスも無く、最終的にはスープラが完勝でゴールしレースは決着した。
旧式のスープラで英国が誇る億越えハイパーカーに圧勝か。やっぱ、レースはこうでなくちゃな。勝つ為だけに生まれて来たこの俺に相応しい最高の気分だぜ。スターバックスの駐車場に戻ったツチオカは歓喜のドーナッツ・ターンで白煙を巻き上げ、ギャラリーのアバズレとゴロツキ共の熱い視線と騒音公害に辟易する近隣住民の冷え切った視線の中悠々と車外へ降り立ち周囲の惜しみない喝采へ拳を突き上げて応えた。
そんなJDM礼賛パーティーが最高潮に盛り上がってた真っ最中に世界一場違いな敗者のマクラーレンはスターバックスの駐車場へ誰の邪魔にもならないようにこっそりゴールしひっそりと停車した。勝者が「Fuck, yeah!」と叫びながら仲間とハイタッチしまくってた中、敗者はダイヒードラル・ドアを申し訳なさそうに押し上げマクラーレンから這い出し周囲を見渡しナンシーを探した。しばらく探し続けたが彼女は見つからなかった。これから先、永久に見つかりそうにない予感がした。
関係者全員とハイタッチをし終え、一通りの喜びのセリフを叫び終えたツチオカはウロウロと徘徊するピエールを見付けると彼に近寄った。
「よお、惜しかったな。たった今からあのP1は俺たちのもんだぜ」
「ああ」
「キー出しな」
ツチオカはタケザキの方に行きピエールから受け取ったキーを渡した。
「ご苦労だったな」
「いえ」
「これ、今日の分だ」
「ありがとうございます!」
ツチオカはボスがくれた薄っぺらい封筒へ視線を落とした。歓喜の圧勝で手に入れたハイパーカーの報酬がこんなもんかい――俺は本当に勝ったのか?
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