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 シェフの再就職から数年後、極東の島国の北部地域におけるカジノ施設〈クリスタル・ドリーム〉開業に伴い、彼はパカーンやニコライらと共に現地へ移住する運びとなった。かつてはチンピラだったニコライも高級スーツを着こなすカジノの総合支配人へと昇格し、そのカジノ内においてギャンブル客が自由に行き来して飲食を堪能できるダイニングバー〈ゴールド・ライト〉の店長兼料理長にシェフが任命された。パカーンからその話を持ち掛けられた時、カジノなんかのギャンブル・ジャンキー相手に俺様の腕を振るうのは役不足ってもんだぜと思ったことはおくびにも出さず、「是非、やらせて下さい」とシェフはその申し出を即座に快諾したのだった。パカーン専属調理人の頃は専属と言ってももちろんパカーン一人分の食事を作ればいいのではなく、彼の家族や護衛、事務員、家政婦やなんかの為に毎日五十人前の食事をこしらえなくてはならなかったとは言え、レストランの客相手とは違い何の文句も言われず、大して感謝されもせずただ機械的に作業をこなす単調な日々であったが、これからは自ら売り上げを気にしつつメニュを作りオーダーを受けて調理するというシェフの本領が発揮される形になったことは素直に胸が高鳴る思いではあった。もちろんメニュには因縁のシビレのソテーとカルネアサダも盛り込まれ、かなりの年月を経はしたもののようやくあの経験主義的実験の続行も目論まれた。一応上司である総合支配人のニコライにメニュ案を予め見せはしたが、ダイニングバーは飽くまで付随的な業務で本業のカジノのハイテクかつ巧妙なイカサマで如何にギャンブル・ジャンキーを生かさず殺さず死ぬほどカネを搾り取るかが第一ターゲットだったので、そのメニュは形だけのチラ見だけであっさりと全面承認された。いざ開店してみると実験どころではなく、様々な機器の故障、発注忘れ及び過剰発注、不適格な従業員の不適切な言動へのクレーム、口が悪い生意気な女子学生のバイト、その女子学生を尾行し偶然を装って話しかけるストーカー、無断欠勤、バックレ、パワハラ、食材及び売上金の窃盗、その他のありとあらゆる不正行為等のドタバタの連続に終始しつつも、どうにかこうにか経営はようやく軌道に乗り始めるに至った。月日が流れるに従い、使えねえバイトもようやく仕事を覚え、口が悪い生意気な女子学生は看護学校を卒業してバイトを辞め、まんまと医者と結婚して旅行に行きまくり、何らかの法律に違反した奴らはクビ、何なら通報し、余計な発注を減らして作業と経費を効率化しつつ、休憩時間には仲間同士の愉快なおしゃべりを楽しみ、仕事中の無駄口を注意し、忘年会で調子に乗って飲み過ぎ、記憶が飛び、急性アルコール中毒で救急車を呼んで一命をとりとめるといったような〈後から思い出せばみんないい話〉が蓄積されつつあったある日、その惨劇の火蓋は切って落とされたのだった。

 ラストオーダーを片付け、最後の客の会計を済ませ、後片付けし、バイトを退勤させた後、正社員同士でこっそり高い肉でステーキを焼き、瓶ビールは空瓶の数で飲んだのばれるからグラスに生ビールを注いで飲みながら食うというささやかな不正による豪勢な晩餐がいつものように始まり、心地よいほろ酔いと寛ぎの時間はいつものように訪れたかに思えた。シェフが最初の銃声を耳にしたのは冷えたビールを喉に流し込み、ゆっくりと分厚いミディアムレアのフィレ・ミニョンを味わいながら店内に設置された大型テレビであんな女と結婚してえなあと思いながらブリトニー・スピアーズの≪ワーク・ビッチ≫のビデオクリップを見ている真っ最中だった。口に入れた肉を飲み込むま前までの短時間にその銃声は十回ほど繰り返された。発砲によって引き起こされたと思しき物体破砕音も含めると、それは何らかの拠点突入用ハイパワー・ウェポンによるセミオート連射攻撃であるとの公算が高まった。きっと、バーレットだな。シェフはアメリカ製対物破壊ライフルのモデル名を思い浮かべた。対物破壊ライフルは第一次世界大戦当時に登場した新兵器である戦車に対抗する為に開発された対戦車ライフルに端を発する。戦車の装甲強化に伴い、その後登場した様々な歩兵携帯用の兵器に取って代わられ姿を一時消しはしたが、対テロリズム用の武器として再注目され、ミサイルや無反動砲に比べそのコストの低さからも現代での需要が高まり機能及び携帯性も向上しつつある。攻撃の第一波に続いて何らかのグレネードと思しき破裂音、直後に襲撃者とそれに応戦する反撃者による自動小銃連射音が響き渡る。襲撃者の目標はカジノの事務所に設置されたAI金庫内のカネだろ。とすればここには用はないはずだからしばらく物陰に隠れていれば死ぬことはない。ただここでこうしているだけってのは人としてどうなんだ。何か対策は講じなくてはなるまい。そう思ったシェフはとりあえず携帯でロシアン・マフィア本部の緊急時連絡番号に救援要請を済ませ、バーの入り口から廊下越しのカジノのエンテランスを窺った。

 カネと銃を持った三人の襲撃者がエンテランスから現れ、階段を下りて逃走する。シェフは彼らを追った。表に出ると襲撃者とマフィアの戦闘員の交戦が開始していた。襲撃側はアリストとニコライの愛車バイパーの二台に分かれて逃走した。マフィア側は敵の攻撃で一名が戦死。シェフは戦死者の自動小銃を手にする。付近で交戦していた元スペツナズの戦闘員であるロマン・イブラギモフは彼に言った。

「おい、お前、運転してくれ!」

「ああ、分かった」

 シェフはそこに停車してあったダッジ・チャージャー・ヘルキャットの運転席に乗り、銃を後部座席に放り投げ、イブラギモフが助手席に座ると即座にアクセル全開で発車させた。先行する同車種のヘルキャットはアリストを追走したので、シェフはバイパーを追う。パカーンから貰って毎日通勤で乗ってるマスタング同様これもアウディみたいな欧州製高級車に比べるとインテリアの質感が若干チープだが、エンジン音は極上でセダンにしてはデザインも死ぬほどカッケーから次はこれ買ってもいいかなとちょっと思いながら運転するシェフの隣で元スペツナズは窓から身を乗り出し容赦無く最新型ロシア軍制式アサルトライフルAK-12をフルオート連射する。俺もあれ、撃ちてえな。代わってくんねえかな。そんな思いが駆け巡っている間に逃走するバイパーには抜群のコーナリング・スピードで一気に離され、瞬く間にまかれてしまったのだった。いくら719馬力でもこれほど重く、ホイールベースも長過ぎだとコーナーではバイパーに敵わないか。イブラギモフは溜息をついてから口を開いた。

「カジノに戻ろう」

「了解」

「あれ、あんた、前までパカーンの家でコックやってたろ」

「シェフはどうだ?」

「そうだったな。あんたが辞めてからメシがまずくなったって、不満噴出してんだぜ。知ってたか?」

「いや。そうだったのか」

「特にあれ、なんかの内臓料理、あれ良かったなあ」

「シビレのソテーだろ」

「そう、それそれ。あれまた食いてえなあ」

「機会があったら、作ってやるよ」

「楽しみにしてるぜ、シェフ」

「こっちも頼みがある」

「言ってみな」

「あんたの持ってるそれの使い方、後で教えてくれよ」

「こいつか?」イブラギモフは少しAK-12を持ち上げた。

「ああ」

「いいぜ」

 彼らはカジノの駐車場にヘルキャットを停め、建物に入り階段を上って金庫のある事務所へ向かった。案の定、金庫は破られ、近くでニコライ・ルシコフは死んでいた。死体は全身にフルオート連射の弾丸を浴びていた。シェフの口から声が漏れた。

「ニコライ……」

「惨いことしやがる」

 ロマン・イブラギモフはそう呟いてからダークスーツの上着を脱ぐとニコライの上半身に掛けてやった。

「煙草持ってないか」シェフが尋ねた。

「切らした」

 シェフは周りを見渡すとテーブルの上にピース・アロマロイヤルの箱とライターを見つけた。彼はテーブルの横のソファに腰を下ろすとそれに手を伸ばした。



 殺害された人員を補充し、備品と内外装の修理等を経てカジノが営業を再開してから数日後、勤務中のシェフにパカーンから電話が掛かって来た。

「もしもし」

「ミハイルだ」

「パカーン、お疲れ様です」

「どうだ?」

「大丈夫です」

「そうか。それでな、死んだニコライの嫁がいるんだが、その人にそこで働かせてくれないって頼まれたんだけどさ」

「はい」

「お前の〈ゴールド・ライト〉で使ってくれねえかなと思ったんだけど、大丈夫か?」

「はい、大丈夫です」

「そうか、じゃ、頼んだぞ」

「かしこまりました。で、その人の名前は何ていうんですか?」

「マリアだ」

 マリアの初出勤日当日、シェフはどんな人が来るんだろうとドキドキしながら待っていた。マリアは美人だった。それ以外の第一印象は滅法気が強そうな表情だと思った。ただ、話すと物腰が柔らかく愛想がいいので客商売には向いてそうだったが、やはり本質的には気が強そうな片鱗は随所に感じられ、シェフはそういった部分も含めて結構魅力的だと思い会った最初の日から不覚にも多少惚れてしまったという。基本事項だけを教えてからホールに送り出すとそつなくこなす姿を目の当たりにしたシェフは彼女に訊いてみた。

「結構、接客経験あるの?」

「ストリップバーでショーガールをやってました」

「ふうん」

 そうなのか。まあ、何でもいいや。仕事は出来るに越したことはない。綺麗で、話し易くて、役に立つ。言う事ないね。営業時間が終了し、従業員同士での食事の時間がやって来た。シェフは肉を焼きながらマリアに訊いた。

「ねえ、ビール飲む?」

「いいんですか?」

「ダメだけど、バレる訳ないじゃん」

「じゃあ、飲みます」

「酒は好きなの?」

「はい、毎日飲みます」

「ふうん」

 毎日飲むのか。なるほど。まあ、何でもいいや。こうして仕事終わりに美人と酒飲めるなんて言う事ないね。会話をしながらステーキを味わい生ビールを飲みまくるうちに徐々にうちとけお互いのことも知るようになった。へえ、娘がいるの。何歳? 小六。もう、煙草吸ってんの。ダメでしょ、どう考えても。普通は中二からだよね、ホステスに限れば。結構気が合うな。飲みにでも誘ってみようか。

「飲み行こうか?」

「いいよ」

「いいの?」

「どこ行く?」

「〈バウンシー〉っていうバーによく行くんだけど、そこでいい?」

「いいよ」

 休日の夜、マリアの家にマスタングで迎えに行った。繁華街の駐車場にマスタングを停め、〈バウンシー〉に向かう。店に入るとカウンターに座ってアサヒ・スーパードライを二杯注文し、シェフはそれを飲みながらボンジョビをカラオケで歌った。マリアは彼女の隣に座ってジン・トニックを飲んでた男とザ・チェイン・スモーカーズの≪クローサー≫をデュエットで歌った。聞きながらシェフは次来るまでに自分もそれを歌えるようにしておこうと心に誓ったという。帰りは運転代行を呼び、助手席にマリア、後部座席にシェフが乗った。ワンマイルシートとバカにされがちなクーペの後席だが、いざという時無いよりはあった方がいいものである。毎日お互いを助け合いながら働き、たまに〈バウンシー〉にマスタングで行き、スーパードライを飲みまくりながら歌いまくり、代行で帰り、また働くという日々が繰り返されるうちに二人の距離は徐々に近づき、最終目標地点を目指した恋の駆け引きが繰り広げられた。最初から不覚にも多少惚れてしまったシェフだったが、いつの間にかマリアと結婚出来るなら不幸になってもいいとさえ思うほど頭が完全にイカれてしまった。時折、死んでもいいと思った。ただ勤務中はそんな素振りは一切見せず意見の相違があった時は言い合い、更には口論になったりもした。しかし、そんな時に垣間見せる強気に挑みかかるようなマリアの激しい目にシェフは内心メロメロになっていた。そんなこんなで喧嘩しながらも≪トップガン≫風に仲は深まり、結局は狂気の沙汰、もしくは人生の墓場になるかもしれない結婚へと否応なく転げ落ちる有様であった。

 教会で神に結婚の誓いを済ませてから〈ゴールド・ライト〉でささやかな披露宴を催し、ニコライが建てた家にシェフが転がり込む形での共同生活は幕を開けた。元々マリアの家だった住居に転がり込んだ手前、何となく家では基本的には妻に服従するような空気感に流されてしまったシェフだったが、その空気感は徐々に職場へとその勢力の拡大が露見されつつあった。

「あなたもあれでしょ、経営とかよりも、シェフとして調理に専念したほうがクオリティも上がるし楽じゃない? どう、あたしに店長任せてみない? 心配しなくても大丈夫。実質はあなたが店長で、形だけだから、あたしがやるのは細々とした雑用程度のものよ」

 とかなんとかいう口車にまんまと乗せられ一旦、マリアに店長の肩書を明け渡した途端、彼女は専制君主として君臨し、絶対的権力を行使するに至った。例えばシェフが前のように気まぐれで経験主義的実験をしたくなってアヴァンギャルドなメニュに改変しようとするものなら。

「ねえ、もしあんたが1999年に開催されたプリンスのLive At Paisley Parkのチケット買って、プリンスが自身の超絶ギターテクのイントロで始まる≪Kiss≫を演奏しなかったら、どう思う? 満足する?」

「しないね」

「でしょ! 会場は暴動になるわ。メニュはこのままよ。全員が満足する」

「だが、今回は自信があるんだ」

「ねえ、あなた、ここの店長は誰なの?」

「それはもちろん君だが、それは形だけだって……」

「あたしは形だけの店長だってこと? 張りぼてだとでも言うの?」

「いや、そういう意味じゃ……」

「だったら、あんたも店長であるあたしの言う事に従うのが筋ってもんでしょう、え!」

「ハ、ハイ。すいません」

「ったくもう」

 そんな理不尽な横暴を前にしてさえ、シェフはマリアの挑みかかるような激しい目に未だにメロメロだった始末である。


父親が冷酷無比に殺害され、母親が他の男を術策巧妙に誘惑してから数年後、高校に進学したナスターシャは敵対するクラスメートを階段の上から問答無用に蹴り落とし退学処分になった。以前習ってたバレーダンスで鍛えた跳躍力を生かした華麗な飛び蹴りによる暴力行使以後の彼女は家でダイエットコークを飲みまくって死ぬほどPS4の≪スパイダーマン≫をしてるか、くわえ煙草でゲーセンをブラつく怠惰な日々を送っていた。そんなある日、居間のテーブルに置きっ放しになっていた新しい父親であるシェフの鞄を発見した彼女は好奇心に駆られ何の許可も得ず勝手にその中身を物色した。その日シェフが帰宅すると、彼女はこう切り出した。

「ねえ、パパ」

「ん?」

「あの鞄の中の何なの?」

「ああ、ガスブローバック・ガンだけど」

「ふうん。使い方教えてよ」

「いいよ」

彼は鞄からベレッタM9を取ると説明を始めた。ここをこうやって後ろに引いてな。ここを下げるとこれがガシャンって前に戻るから、それからここを下げて、また上げるだろ。これで準備完了だから。こういう感じに両手で構えてひじをちょっと曲げて。そう。それからあのターゲットの中心を狙って撃ってみな。いいね。どうだ? スカッとしたろ。

「うん、快感!」

「だろ。好きなだけ撃っていいぞ」

「うん」

「お勧めは二回連続でトリガーを引くダブルタップって撃ち方だな。そうそう。プロっぽくていいだろ」

こうして義理の親子は休日の昼下がり、自宅の庭でガスガンを撃ちまくり絆を深めたという。日が沈むとシェフは妻と娘にサンデー・グレイビー(ピザ。肉入りトマトソースを敷いた生地にバジル、チーズ、牛バラ肉、パルミジャーノを載せて焼いてから、パルメジャーノ・クリームを適量適所にトッピングし、飾りでバジルの葉を真ん中に載せる)とスカーレッツ・パスタ(スライスガーリックをたっぷりのオリーブオイルで炒めてから茹でパスタとみじん切りパセリを一緒に炒めた直後、熱々を即行で食べる)を振る舞い、食事と片付けを終えてからしばらくワイン片手にテレビでニュースを見てからおもむろに腰を上げ、二階のナスターシャの部屋へ向かった。彼がノックしてドアを開けると、ナスターシャはコントローラのホームボタンを押して≪スパイダーマン≫のプレーを中断した。

「何?」

「気晴らしにサバイバルゲームでも行くか? 家でゲームもいいが、たまには体を動かした方がいいんじゃないかと思ってな」

「うん、行く」

 それからシェフは一階の居間に戻るとワインを飲みながら携帯電話で娘用のサバゲー用品一式をアマゾンに注文した。サバゲー開催日当日になると必要な道具と装備品一式をマスタングのリアトランクに載せ、娘と一緒に開催地となる湖畔のリゾートホテルの廃墟へとクルマを飛ばした。現地に到着すると廃墟の前の雑草だらけの駐車場に数台の車両が駐車され、付近でサバゲー仲間達が輪になって集まり談笑していた。マスタングから降りたシェフはナスターシャを連れ一団の方へ向かった。

「おはようございます」

「おはようございます」

「今日は私の娘のナスターシャを連れて来たので、みなさんどうぞよろしくお願い致します」

「いえいえ、こちらこそ」

「それにしてもいい天気で良かったですね」

「ええ、絶好のコンディションです」

「おや、リーダーが到着のようですな」

 エンジン音とタイヤが砂利を擦る音のする方を見ると黒いダッジ・チャージャー・ヘルキャットが猛然と走って来て駐車場に停車した。運転席から現れたサングラスを掛けて煙草をくわえた中年男性は中背でミドル級に絞り込んでビルドアップされていた。一団に近づいて来た彼は無愛想なしゃがれ声であいさつする。

「おはよう、みんな」

「おはようございます、リーダー」

「ああ。彼女は?」

「私の娘のナスターシャです」

「ふうん」

「ナスターシャ。こちらはリーダーのイブラギモフさんだ」

「よろしく」イブラギモフは吸っていた煙草を捨てナスターシャに手を差し出した。

「よ、よろしくお願いします。イブラギモフさん。」彼女は握手した。

「ロマンと呼んでくれ」

「あ、はい。ロマン」

「ナスターシャ」ロマンは彼女の手を放し、続けた。「よし、ブリーフィングを始めよう」

その日のシナリオは≪ゼロ・ダーク・サーティー≫風拠点突入兼要人暗殺ミッションだった。攻撃側と防御側の二チームに分かれ、攻撃側は防御側に任意に設定されたビン・ラディン的な要人を殺害すれば勝利。防御側は敵全数殲滅か制限時間要人を守り切れば勝利というルール設定である。ナスターシャはシェフやロマンと共に一回戦では攻撃側で参加したが部屋に侵入する際、ルーム・クリアリングの基本事項を知らなかったので早々に殺害されてしまうというほろ苦いサバゲー・デビューであった。参加者は日が傾くまで数回戦ゲームを繰り返し、途中の昼食休憩ではシェフが前日からタレ漬けにした牛肉をバーベキューグリルで焼いて例のカルネアサダを振舞った。シェフは焼いた肉を人数分の紙皿に盛り付けながらナスターシャに言った。

「イブラギモフさんにも持ってってくれよ」

 彼女はプラスチック・カップにダイエットコークを注ぎ肉と一緒にロマンへ持って行った。ロマンはナスターシャが来ると、料理と飲み物を受け取って言った。

「ありがとう、ナスターシャ」

「どういたしまして、ロマン」

 ロマン・イブラギモフはダイエットコークを一口飲んでからテーブルに置き、立ったまま肉を食べ、立食パーティー風に会話を続けた。

「旨い」

「パパに言っとく」

「どうだった、ゲームは?」

「面白かったよ」

「デザートイーグル使ってたけど、好きなのか?」

「うん、一番好き」

「長物系は?」

「クリスヴェクター」

「へえ、じゃあ、デザートイーグルとクリスヴェクターの実銃を撃ってみたいだろ」

「そりゃ、まあ」

「だろ。じゃあ、今度撃ってみるか、本物」

「うん。それに、ルーム・クリアリング時のポジショニングも教えて欲しいな」

「もちろん」

 ロマンはシェフとカジノ強盗事件で知り合ってからサバゲー仲間になったが、シェフの希望で実銃射撃訓練もマフィアの秘密基地で行っていた。秘密基地とは郊外の廃業した工場跡を買い取って改築した場所で、そこではロマンのような元軍関係者がコーチとなってマフィア構成員に軍事訓練等を行っていた。ロマンは食事を終えるとシェフに話し掛けた。

「なあ、ナスターシャも銃撃ちたいって言ってるから例の秘密基地連れてこうかと思ったんだけど。いいか?」

「いいね。あいつ高校辞めて暇だし、ちょうどいいな」

「何で辞めたの?」

「クラスメートを階段の上から蹴り落としたんだ」

「へえ、やるね」

 その二日後、ロマンはヘルキャットでシェフの家にナスターシャを迎えに来た。元スペツナズの運転する悪そうなセダンの助手席に座った瞬間、ナスターシャは事の重大さを悟った。何だかよく知らない悪そうな男の悪そうなクルマに乗って謎の秘密基地に連れ込まれる。これは、最悪、襲われるかもしれないじゃない。あたし、一体、こんなとこでなにやってんのかしら。あの新しい父親も一応形だけの父親でホントのパパって訳じゃないのよ。あいつにとってはあたしなんかどうなってもいいどうでもいい存在で、あたしを本当に愛し心配し守ってくれるパパは奴らに惨殺されてしまったのだわ。決してそのことは忘れてはいけない。それを忘れたら、生きてなんかいけやしないのよ。ただ、ただよ。ある種これもこれから生き延びてゆくために克服しなければいけない試練の一つかもしれないわ。そう、きっとそうよ。だからあたしはそれほどの疑問も無くこんな悪辣なクルマに乗ってしまったのだわ。最悪、襲われたとしても、だとしても、それも人生なのかもしれない。いや、それが人生なのよ。ダメ、おかしくなってきた。あまりに過酷な試練に直面して完全に混乱してしまったわ。どうしよう。教えて、パパ!

「緊張してるのか?」

「え、いや、まさか、全然」

「ふうん、そう」

「ただ単にニコチンが欠乏して禁断症状が出てきたってだけ」

「じゃ、吸っていいよ」

「ありがと、お言葉に甘えるわ」

 ナスターシャはセブンスターのソフトパックをハンドバッグから出し、火を付けた。サイドウィンドーを下げ流れゆく景色に向かって白い煙を吐き出す。緑に生い茂る木々を見ながら神経性毒物であるニコチンを肺と血管を経由して中脳辺縁系へ供給し非合法ドラッグとも同質のドーパミン神経系の脱抑制による薬理効果から彼女は徐々に落ち着きを取り戻していった。いやいや何も襲われるだけが試練でもないし、必ずしも襲われるとも限らないじゃない。そうね、襲われない可能性の方が遥かに高いわ。なら、きっと大丈夫、無事に家に帰れるはずよ。心配しなくても大丈夫よ、ナスターシャ。

 ヘルキャットは片側二車線の幹線道路から物寂しい脇道に入ると、絶望と衰退を形にしたようなボロボロの掘っ立て小屋なんかを数件通り過ぎ目的地の秘密基地に到着した。堅固な塀で囲まれた敷地へと続く門はリモコンによる電子制御で開き、ヘルキャットは駐車場に進んだ。周囲の絶望と衰退から巡航ミサイルで空爆された瓦礫の山みたいなのを覚悟していたが、駐車場も廃工場の建物もきっちり改装工事が施されており案外小奇麗な施設だったのでナスターシャは一安心した。ヘルキャットから降り、結構豪華な来客用と思しき玄関から中に入るとまずは休憩室に案内され、ロマンがそこに据え置かれていたエスプレッソマシーンでコーヒーを作ってくれた。無論、そこを含めた建物全体の内装もきちんと補修されており、非常に居心地の良い空間が演出されていた。こんなに綺麗なとこだったのね。これなら毎日来てもいいし、何なら住んでもいいくらいだわ。ナスターシャは座り心地のいい椅子に座っておいしいコーヒーを味わいながらそんな風に感じた。

「お嬢さん、一休みもここまでだ。これから地獄の特訓が始まるぞ。覚悟はいいか?」

「ええ。望むところよ」

「いい答えだ。じゃあ、まず、訓練場へ移動しよう」

「はい」

 訓練場に入るとロマンはナスターシャに装填されていないデザートイーグルを渡し、自らは最新式のグロック17Mを手にした。それを見て彼女は質問した。

「グロックが好きなんですか?」

「当然だ」

「何でですか?」

「軽いからだ。軽さはハンドリングを向上させ、高いハンドリング性はエイミングスピードを速くする。速くエイム出来れば、こっちが死ぬ前に敵を殺し、生き延びて旨いビールが飲める。いくら威力が有っても先に撃たれたらそれで終わりだろ。俺の言ってることは間違ってるか?」

 彼女はデザートイーグルを差し出して言った。

「あたしもグロックがいい」

「生存可能性を最大化させる選択だ」

 その訓練場は元々精密機械製造用のクリーンルームで外界とは完全に遮断されていたが、更に防音工事を施した上、訓練用に模擬的な敷居と壁が設置されていた。その敷居の前でロマン・イブラギモフはルーム・クリアリングの実践講義を開始した。敷居で隔たれた脅威への対処は四つの角度に区分される。60度、90度、150度、180度。数字が大きくなるに従って脅威への対処は困難になる。拳銃もそうだがライフルは特に前に突き出したまま前進すると敵にマズルの先端を見られて位置バレしてしまうのでなるべく体に密着させ更にライフルの場合はマズルを下に向けたまま前進する。拳銃はコンパクトなのでマズルは前方に向けたままでも位置バレリスクは低いから問題無い。銃を持った手の方の片足を前に出した状態で前進し敷居の手前でまず壁の向こうの音を聞いて最初の脅威確認をする。三人の会話が聞こえたら戦術的に翻訳すれば単独制圧不可能を意味するので退却せざるを得ない。そうでなかったら更に前進し進行方向と同じ側の敷居の向こう60度の脅威を確認する。自分の後方の脅威確認してから更に90度、敷居正面の脅威確認。後方確認から150度の脅威確認、後方確認から180度、つまり進行方向の真逆のコーナーの脅威確認。即座にその真後ろのコーナーを確認。180度の脅威確認時は、銃を持った方の片足だけを室内に入れて脅威発見時に即座に全身を室外に脱出可能状態にしておく。こんな感じだ。以上がルーム・クリアリングの基本事項だ。質問は? ナスターシャはロマンのお手本通りにルーム・クリアリングの動きを反復練習し、一応基本は習得した。

「次はお待ちかねのメインイベントだ」

二人は実弾射撃練習場へ移動し、ターゲットを狙ってデザートイーグルとクリスヴェクターを景気良く撃ちまくった。

「どうだついてに護身格闘術の練習もしとこうか」

「うん。それからそれ以外も全部練習したい」

「そうか。それだと今日だけだと無理だな」

「じゃ、明日も来たい」

「好きにしろ」

「しまーす」

 その日から始まった三年に及ぶ猛特訓はナスターシャを高度な戦闘技能を習得した〈絶望的な悪夢〉へと変貌させていった。

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