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パカーンから助言を受けた数日後のある日、シェフは通常より早く出勤し彼自身が立案した経験主義的実験計画を実行しようとした。主眼としては一般的な高級レストランでは馴染みの無い料理や食材を提供し目新しさを追究しマンネリズムの打破を目論んだ。まずはシビレの下ごしらえに着手する。シビレとは英語のsweet breadsを日本語化した物で直訳の甘いパンという意味ではなく、数種の食用哺乳類の主に胸腺と膵臓を指す料理用語である。今回シェフは仔牛肉の膵臓を使った。まずはそれを水洗いしてから酸性水に入れて血抜きする。ボウルに水を入れ、塩を入れて掻き混ぜながらレモン汁を入れる。その完成した酸性水にシビレを入れる。そのボウルを冷蔵庫に24時間入れるのだがその間に三回酸性水を交換する。一旦、シビレは置いといて次にカルネアサダの下ごしらえにも着手した。カルネアサダとは焼いた肉という意味のメキシコ料理でマリネした牛肉で作るステーキという説明もあるがここではマリネというよりもタレ漬けにする方法を採用する。まあ、タレ漬けもマリネの一種なのかもしれないけど、つまり牛肉で作るチャーシューとかやきとりみたいな庶民的な料理である。まずはまたボウルをどっかから持って来てそれに醤油を入れる。それからでもその前でもいいが香菜、パクチー、コリアンダーという名前の方が一般的だが英語ではサラントロと呼ばれる葉野菜を持ってきてまな板に載せてみじん切りにする。それからさっきの醤油にクミン(なかったらカレー粉)、黒砂糖、ラ・コスティーナ社製チポトレ缶(燻製唐辛子のソース付き)少々、細かくしたニンニク三粒、ライム汁、オリーブオイル、コショウを入れ、香菜を全部入れて掻き混ぜ、牛肉を入れてタレを絡ませ、それを冷蔵庫の中のシビレの隣に置く。翌日の新メニュ公開に先駆けた準備を終えたシェフは通常業務に移行した。
翌日、期待に胸を膨らませアウディのSUVで颯爽と出勤したシェフは冷蔵庫から酸性水入りのシビレを取り出し、鍋で十五分湯がく。冷水で冷やし手で膜を取り除く。皿にタオルを載せその上にシビレを置きタオルで包み、更に上に皿を載せ2・5キロ程の重さになるように缶詰を三個載せ冷蔵庫に送り返す。重さとタオルで余計な水分を排除するのが目的の作業を済ますと彼は通常業務へと移行した。開店準備の最中彼はホール係のリーダーを呼び出し例の経験主義的実験計画について説明を始めた。
「経験主義というと、つまり?」
「メニュを変える」
「あ、はい。で、どんな感じに?」
「本日のシェフおすすめコースの肉料理に新たに二つの選択肢を加える」
「何ですかそれ?」
「シビレのソテーとカルネアサダだ」
リーダーは手帳にメモしながら言った。
「承知しました」
リーダーはメニュの変更を手配する。開店時間を過ぎ客が入るとシェフは新メニュの調理を開始した。先にカルネアサダに取り掛かる。これはあと焼くだけだったが、それを焼く為だけに予めアウディのトランクからバーベキューグリルをこの厨房に運び込んでスタンバイしてあった。シェフはそれの炭火で肉を網焼きにした。次にシビレに移る。まずスキレットでシビレを油とバターで炒める。それからシビレを一旦取り出して置いといて、ベビーオニオンとベビーポテト、缶入りマッシュルーム、ベーコンの細切れを炒めて塩、コショウを入れる。小麦粉を入れて混ぜてから水と酢を入れてしばらく煮てからシビレを入れ更に煮る。それを皿に盛り付けスプルース・ティップとフラワリング・タイム、コリアンダーを上にいい感じに載せた。作っている最中、シェフは部下にカルネアサダとシビレを味見させ、彼らの好評を得たことからその実験は束の間成功したかにも見えた。
シェフがアウディでショッピング・モールの駐車場に到着したちょうどその頃、〈La Bottega Siciliana〉のオーナーはモスクワ市内郊外住宅地の高級コンドミニアムのペントハウスで快く目を覚ました。トレーニングルームでベンチプレスなどをしてからシャワーを浴び顎ヒゲの入念な手入れと前髪のセットを済ませ相当年下の妻とのヘルシーな朝食を優雅に味わい、新聞に目を通すとアタッシェケースを持って地下駐車場にエレベーターで降り、愛車の黒いメルセデス・ベンツのクーペ、C63Sで職場へ向かった。彼のこういった一連の行動選択は彼が漠然と抱いていた成功者のイメージを基本的に踏襲しており、それらは言わばアプリオリに疑念の余地の無い事柄であると認識されていた。そういった若干演繹法的態度は彼が向かっていた職場の運営方法にも必然的に反映されていた。それは常に一貫性を持って継続されるべきであるという信念から、今日も当然その一貫性に些細な動揺でさえも発生するはずは無く、たとえ発生したとしても決して許容されることなく即座に修正されなければならなかった。彼が職場に到着した直後に彼は何らかの動揺の予感をあいさつしてきた数人の従業員の表情から感じ取った。いつもと表情が違うという事はいつもと違う何かがその要因になっているはずで、だとすればそれが何であれ即座に修正しなければならない。彼はこのように警戒したのだった。
奥まったオフィスに入りノートPCでメールをチェックした後オーナーはホールへ向かいホール係リーダーに声を掛けた。
「お疲れ様です。オーナー」
「おお。何だ、この空気感は?」
「空気感?」
「いつもと違うだろ、空気っていうか雰囲気がさ」
「ああ、シェフがメニュを変えるからじゃないですか。ご存知ではなかったんですか?」
「いや」
「そうでしたか。私はすっかりご存知かと思っていました」
ふうん、それか。それでこう何か変に活気に満ちてんだな、みんなして。オーナーはリーダーから変更についての詳細を確認すると厨房へと歩を進めた。
そのレストランはオープン・キッチンだった。客席にオーナーが現れテーブルの準備をしているホール係リーダーに話し掛ける様子をシェフは野菜を切りながらアクリル板の仕切り越しに観察していた。声は全く聞こえないが内容は完全に想像出来、実際その想像の通りだった。何かみんな様子おかしくない? そうすか。何で? ああ、シェフがメニュ変えるからじゃね? なの? 聞いてないんすか? 聞いてねえよ。説明しろ。ハイハイ。くらいのもんか。何かやる時、やる前にやっていいかどうか一々聞いてたら、ダメって言われたら出来なくなってしまう。一旦、勝手にやってしまってダメって言われたらやめればいいじゃない。まあ、どうのこうの言われても適当にご機嫌とっときゃ何とかなるっしょ。
「よお、シェフ!」
厨房に入って来るなりオーナーは満面の笑みでシェフに声を掛けた。
「オーナー! 調子どうすか?」
「これ以上良かったらパクられるレベルに最高だ」
「俺もっすよ!」
「あのさ、俺の銃持って来てる?」
「もちろんです。ちょっと待ってて下さい」
シェフが銃を取りに控え室へ向かった途端オーナーは全校集会で不良共を監視する生活指導担当の暴力教師のような冷酷な表情に豹変し周囲を隈なく観察する。一体何だこの明らかに邪魔なバーベキューグリルは、どう考えても場違いだろ。シェフが彼から預かってメンテナンスを済ませたサバゲー用の東京マルイ製ガスブローバックガン、ベレッタM9を持って戻ってくると彼の表情は観光旅行の記念写真用の全力の笑顔に素早く切り替わる。
「スライドのグリースアップとバレルのクリーンナップしときました」シェフはベレッタを手渡した。
オーナーはピストルをホルスターから抜きスライドを引いてマガジンキャッチを押しマガジンを引き抜いてからまた押し込みスライドストップを下げてスライドを前に戻してからセイフティを下げてハンマーをデコックし、セイフティを上げ、銃を構え人の居ない方向に向けてからトリガーを数回引いて動作を確認した。
「完璧だ。ご苦労だったな」
「お安い御用でまたいつでも」
「よろしく頼む」
オーナーは親しげにシェフの上腕に軽く手を当ててから厨房の出口へ向かって歩き出した。
「そうだ、忘れてた。シェフ」
「ハイ?」
「メニュ、変えたんだって?」
「まあ」
「そうか。じゃあ、どう変えたのか説明してくれるか?」
「もちろんですとも、オーナー」
そう言った途端シェフは即座にスタッフの試食用に用意してあった二品の一方であるところのシビレのソテーを盛った皿をオーナーの目の前の台に置く。
「毎度毎度肉料理と言えばフィレミニョンにサーロイン、ロース、シャトーブリアン。その繰り返し一辺倒の一点張りではないですか。たまにはこう物珍しいヨーロッパの上流階級の食通気分を堪能したい。そんな好奇心溢れる優雅な人生を満喫したい人にお勧めなのがこれ、シビレのソテーです。どうぞ一口」シェフはオーナーにフォークを渡す。
訝しげな表情のオーナーが一口シビレを口に運ぶと途端に口元が緩み満足気な笑みをこぼす。シェフはスピーチを続けた。
「どうです? このしっかりとした歯応え。たまにはこういうのもいいもんでしょう、え? どこでも売ってるそこらの肉なんか食っても結局どこ行っても一緒でしょう。これはここらじゃここでしか食えませんよ。まあ、こういった上流階級の手の込んだ内臓料理と言った気取った料理をお好み連中もいるんでしょうがね。ただ、オーナー。一つ言わせて下さい。庶民の味をなめちゃいけませんよ。何も高い食材を素材の味を活かしたシンプルな味付けで楽しむだけがこの世で一番旨いとも限った訳でもないですよ。安い肉でも工夫次第で最高に旨くなる庶民の長年の知恵ってもんを馬鹿にしちゃ困りますね。そこでお勧めしたいのがこちら」彼はもう一方の試食用の皿を台に置いた。
「メキシコの伝統的な家庭の味、カルネアサダです」
オーナーはカルネアサダを口に入れるとまたしても満足気な笑みを浮かべ頷いた。シェフは彼に意見を求めた。
「さあ、どうです。行けると思いませんか?」
オーナーの表情は純粋に料理を楽しむ無邪気な客のそれから徐々に挑みかかるかのような計算高い経営者のそれに移り変わる。
「お前は最高のシェフだよ」
「それほどでも」
「だから俺はまだ若いお前をこの厨房のトップにしてやった」
「ハ、ハイ」
「問題はな、シェフ。お前はこの店全体のトップではない点だ。俺がここのボスだ。ボスとしての俺のお前のメニュへの判断はノーだ」
「何故ですか?」
「考えてみろ。俺は今、お前にカネを払ったか?」
「いいえ」
「俺は今タダでお前の料理を食ったよな。だが、客は違う。彼らがこれを食うにはカネを払って注文しなければない。これ自体のクオリティーに加えて客がこれを注文する確率からもその商品としてのクオリティーを判断しないといけない。上質で優雅な雰囲気を求める客がミュージシャンの生演奏を聞きながら、こんな得体の知れない内臓やメキシコの田舎料理なんかを好き好んで注文すると思うか? 旨さそれ自体にはそれほどの価値なんかないんだよ、シェフ。問題は華があるか、美学的な洗練があるかだろ。その観点から見ればこの二つは完全に失格だ」
「お言葉ですが、ボス。その考えには即座に同意致しかねます」
「何故だ?」
「まずは試しに出してみなければ、どうなるか分からないではありませんか」
「いや、違う。世の中には伝統的に構築された法則が存在する。それを熟知していれば試す必要はない」
「そういった考え方は私の主義に反します」
「何だ、その主義は?」
「経験主義です」
「なるほど。それか。だがな、ここは俺の店で、ボスは俺だ。俺に従えないのであれば、出て行ってくれ」
まだ若かったので、シェフは言われた通りにした。
イデオロギー闘争の結果、職を失ったシェフは次の仕事を探した。同様のシェフの職を求め職業安定所のPCで検索したレストランへ職員に連絡してもらいノコノコと向かっても
一向に採用通知は獲得出来なかった。次の仕事なんか簡単に決まるだろうと思って始めた就職活動だったが、案外思うように行かず、シェフは徐々にやる気を失い始めたのだった。大概昼過ぎ、それも大分過ぎたあたりにようやく目を覚まし、適当にテレビを見ながらコーヒーをすすり、死ぬほどゲームして、腹が減ったら近所のコンビニでフライドチキンを買い込んで缶ビールを飲みながらむさぼり食い、それから更にナッツをつまみにジャック・ダニエルズを飲みまくる自暴自棄的な日常が繰り返されるようになる。人生には生きる目的以前に仕事が必要だった。仕事が無ければ人類社会の理想や公共利益など詐欺師がカネ目当てで電話越しに老人に話す手の込んだ作り話程度かそれ以下の価値もない全くのたわ言過ぎなかった。無職は人類滅亡に匹敵する壊滅的危機を引き起こし、シェフの精神は真っ逆さまに崩壊へと転落し、遠くない将来の終局へ向かい自己破壊を伴いつつ突き進んで行った。そのような現状を自覚する知性さえ既に失いつつあったシェフだったが、それでもなお生きている以上、何らかの気晴らしが必要だった。だから彼は歩いた。日没後に寝ぐらを抜け出しあてどもなく彷徨い歩いた。街は幸福の灯に照らされ光り輝きこれと言った不都合も無く繁栄し続けていた。どうせなら全面核戦争でも起こってくんないかなあ。そうすれば幸福も不幸も活動も停滞もひと時のやすらぎでさえも全てを抹消しリセットし自然はまた与えられた環境からささやかな生命の営みを始めるかもしれないし、始めないのかもしれない。宇宙全体の中では俺の人生など何の価値も無い。そもそも生命一般に何らかの価値があるかどうかでさえ未だかつて誰にも証明されていないはずだ。ただ言わせて貰えば、俺個人にとっては逆に宇宙全体の運命に一切いかなる価値も無い。今、必要なのは価値では無く何らかの方法で精神に安らぎをもたらすくつろぎの時間なのではないだろうか。きっとそれはどこかにあるはずだし、探せば見つかるかもしれない。そう思いながら彷徨っていた旅人の視線の先に一軒の酒場が現れた。これかもな。そう思ったシェフは中へ入った。
そこは魔女が営む魔法使い専用の酒場だった。客は当然全員魔法使いで、何らかの謎めいた色調の生ぬるい酒を飲みながら難解な呪文を唱えまくっていた。いかなる魔力を持っていようとも彼らがそれによって成功し繁栄する気配は一切感じられなかった。もっと晴れやかな気分で気持ちのいい炭酸の入った酒を飲んだ方が人生は好転するに違いない。ビールでも飲んでロックンロールでも歌いたい気分になったシェフは魔女に生ビールを注文し、それを飲みながらカラオケのリモコンでボンジョビの曲を検索した。キーボードからリードギターへつながる≪バッド・メディスン≫のイントロがスピーカーから流れ出すと魔法使い連中は気が散って仕様がなかったので仕方なく難解呪文の朗誦を中断しシェフの歌声に耳を傾けた結果下した評価は完全なるボイトレ不足だなといったものにほぼ統一された。どうにかかすれ声を振り絞って歌い終えたシェフはこういう感じの歌う時は、きちっと家でボイトレしてから来ないとダメだなと一人反省会を開催しながら生ビールを味わった。けど、今ので結構いいボイトレになったからまたハードロック行っとくか。そう気分を切り替えたシェフはエアロスミスを検索してみた。するとそこへ随所へドクロマークが施された服を着たゴロツキが歩み寄り話しかけて来た。
「よう。調子は?」
「まあまあかな」
「どっかで会わなかったか?」
「そうは思わないな」
「そっか。で、何か悩みでもあるのか?」
「まあ、無いと言えば嘘になるかな」
「だろうな。だったらどうだ、ハイにでもなるか」
「ハイ?」
「ハイだよ。いいブツがあるんだ」
「ブツ?」
「最新の合成ドラッグで〈クリスタル・ドリーム〉って言うんだ」
「いいよ」
「何でだよ、大人気商品なんだぜ」
「今、職探し中でな、カネが無いんだ」
「そうか。待てよ、思い出したぞ。あんたあのレストランのシェフだろ」
「前はな」
「辞めたのか?」
「クビになった」
「あそこへはよくパカーンに連れて行って貰うんだが、あんたが居なくなって味が落ちたってパカーンも言ってたぜ」
「パカーンを知ってるのか?」
「そりゃあ、俺のボスだからな。そうだ、連絡先教えてよ。パカーンが力を貸してくれるかもしれないし」
「分かった」
シェフはドクロマークに連絡先を教えてから、そいつに訊いた。
「ところであんた名前は?」
「ニコライ・ルシコフ」
「よろしく。一杯奢るよ」
「それより、ヤク買ってよ」
「いいって、それは」
「分かったよ。じゃあな」
「ああ、またな」
シェフはニコライを見送ってからビールをすすり、リモコンでエアロスミスの検索を再開した。
それから数日後、ニコライから電話があり、パカーンが会いたがっているから是非彼の家に来て欲しいという話だった。シェフは即座に快諾したが、金欠でアウディは売ってしまったので出来れば迎えを寄越して貰えないかと頼まざるを得なかった。
「そんなのお安い御用だよ。俺が迎えに行くから」
「わざわざありがとうございます」
「いいって。けど、俺のクルマさ結構派手だから人に見られてちょっと恥ずかしいかもしんないけど大丈夫かな?」
「全然大丈夫です。よろしくお願い致します」
「分かった。じゃあな」
「はい、失礼します」
表敬訪問当日、ニコライがシェフを迎えに乗って来たクルマはGTウィング付きの赤いダッジ・バイパーだった。確かに派手で品はあまりっていうか全然無いから女子受けは悪そうだが、これ出たばっかの最新型でしかも最上級グレードのACRだろ、あのGTウィング形状から判断すれば。だとすれば確かこれ600馬力以上あるはずだから死ぬほど速いんじゃないか。
「バイバーか。出たばっかだろ、これ?」
「今月納車したばっかだ」
「600馬力くらいだっけ?」
「649だ」
「へえ。運転させてくれよ」
「マニュアル運転出来るのか?」
「マニュアル? じゃあ、いいや」
「じゃあ、乗ってくれ。そこのドアの後ろの下のとこにマフラーがあって、足に排気ガスが当たると熱いから気を付けて乗ってくれ」
「めんどくせーな。いくら効率重視って言ってもこんなとこにマフラーあったら邪魔だろ」
「けど、カッケーから好きだけどな」
「じゃなきゃ、買わないしな」
シェフが助手席に乗り込むとドクロマークの運転するバイパーは一目散にパカーン邸に向かう。こういうアメリカンな大排気量エンジンのマッスルカー乗るとやっぱ聞きたくなるのはアメリカのハードロックだよな。そう思ったシェフは自分の携帯をオーディオに接続させて貰い操作すると、スピーカーからボンジョビが大音量で流れ始めた。郊外の幹線道路を颯爽と走り抜けたアメリカン・マッスルは小高い丘の頂上に建造されたミハイル・マルコフの住居に通じる私道へと乗り入れた。誰かがそこを世界征服を企む悪の組織の秘密基地だと言ったら、当然そうだろうと納得せざるを得なかったであろう。頑丈な防壁で取り囲まれた広大な敷地に複数の建造物群が構成され一部は監視用の塔になっており、更には数か所の鋼鉄製タワー上部に緊急警報用のスピーカーも設置され周囲のいたる所をそれぞれ思い思いの小火器で武装した戦闘員が巡回警備していた。バイパーが玄関先に近づくとシェフの視界に二台のクーペが入り込んだ。両方とも色はブラックだったが価格帯には大分開きがあった。一台は最新型のマクラーレンMP4-12Cで、ロシアン・マフィアのボスに相応しい豪勢なスーパーカーだが、もう一台は現行フォード・マスタングの後期型だった。当然5リッターモデルなんだろうが、それでも大概のスーパーカーの少なくとも四分の一以下の新車価格なので多少の違和感を感じざるを得なかった。バイパーが停車し、やかましいエンジンが停止すると、近くから子供の叫び声が耳に入った。シェフはニコライと一緒にクルマから降りると声の方を観察した。そこでは防護ゴーグルを装着した十歳くらいの男の子が植木を遮蔽物にして護衛連中の一人と電動エアガンのアサルトライフルでBB弾をフルオート連射でばら撒きながら銃撃戦をして遊んでいた。
「よー、ピョートル! 元気か?」
ニコライが笑顔で子供に挨拶すると、ピョートルも「こんちは」と挨拶を返した。ニコライは歩きながら、あれはパカーンの息子だよ、と説明してくれた。あの子供が持ってる銃はきっと東京マルイ製のACRかSCARだな。遠くてどっちだかよく分かんないけど。しかし、子供にオートマティック・ウエポンで遊ばせてんのか。どう考えても危ないだろ。さすが、マフィアは違うね。そんな所見を秘めたシェフはニコライと護衛の一人に付いて行き、屋敷の内部へと進んだ。ギリシャ風の彫刻と高そうな壺が飾ってある玄関を通り抜け壁に立掛けた絵画を見ながら階段を上り広い居間に辿り着くと白いアディダスのジャージ姿のパカーンがカウチに体を広げてテレビで映画を見ていた。画面ではエレベーターの中でライアン・ゴズリングがキャリー・マリガンとキスしてる最中だった。護衛がパカーンに接近する。
「パカーン。客人がお越しになりました」
「おお」
彼はリモコンでDVD再生を一時停止してから立ち上がり、客人の方へ進んだ。
「お疲れ様です」先にニコライが挨拶してから、シェフが続いた。
「パカーン。お久しぶりです」
「よお、シェフ。なんだスーツで来たのか。気使わなくて良かったのに」
「いえいえ、お会い出来て光栄です」
「それにひきかえ、オイ、ニコライ。何だ、テメェ、そのドクロマークは。一体そんな服、どこで売ってんだよ。そろそろスーツくらい着ろよ、馬鹿野郎」
「すんません」
「ったく、しょうがねえな。それにさっきの聞いたか? お会い出来て光栄ってとこ。やっぱ人間が出来てるよな。こんなチンピラとは訳が違うよ。お前もちゃんと勉強しろよ」
「はい」
「そうだ、シェフ。この映画、スゲー面白いから見てみろよ」
パカーンはテレビからDVDをイジェクトし、ケースに入れてシェフに渡した。
「ほら、お前にやるから」
「ありがとうございます」
ケースを見るとタイトルは≪ドライヴ≫だった。随分気前いいな。ついでに外のマスタングもくれないかな。マクラーレンは維持費無理過ぎだから逆に困るが。
「まあ、座ってくれよ。何飲む? そうだ、最近買ったアイリッシュ・ウィスキー。滅法うめえから飲んでみろよ」
「はい、いただきます」
「で、どうなの、最近。何やってんの」
「すっかり暇してました」
「ふうん」
手下が酒の入ったショットグラス三個とボトルをトレーに載せて運んで来て、三人にショットグラスを配った。
「さ、飲めよ」
「いただきます」
「うまいだろ」
「最高です」
「おい、お前は」
「こたえられませんね」
「だろ。マジうめえな」
「ええ」
「さてと、シェフ。今日来てもらったのは、他でもない。お前にちょっと、新しい仕事、世話してやろうかと思ってな」
「ありがとうございます」
「どうだ、最近は料理してんのか?」
「いえ、すっかりコンビニ浸りです」
「そうか、じゃあ、久々に何か作ってくれよ」
「あ、はい」
「今日から俺専属の調理人になってくれよ。給料は前のとこと同額出す。どうだ?」
「喜んで」
「そうか。良かった」
「では、早速作ります」
「それからな、外にマスタングがあったろ。あれ、そのDVDの映画に出てきたの見て気に入って同じの買ったんだけどさ。お前、クルマ売ったって話聞いたんで、やるよ、あれ」
「マジすか?」
「ほら、キーだ」
「えー! ありがとうございます」
「いいからいいから。腹減ってんだ、メシの方急いでくれよ」
「はい」
彼は遂にキッチンへと舞い戻った。
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