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彼女は若く美しかった。ある種の美は人々の知能を低下させ破滅を誘発する。たとえそれを知っていたとしても知能が低下してしまえば、全てを忘れる。美はあらゆる防壁を突破しいかなる財宝をも略奪する。彼女はロシア人だった。シンガーは名前を訊いた。
「ナスターシャです」
ナスターシャはグラスのスーパードライを飲みながら答えた。若いと言っても何歳なんだろう。飲酒が合法かどうか怪しい年頃だな。そんなに若い女性と一体何を話せばいいのだろう。シンガーは〈アルテミス〉のカウンター席でジン・トニックを飲みながら少し考えた。結構なゲーマーでシューティング・ゲームもやるそうだから好きな拳銃でも訊いてみようか。
「デザートイーグル」
彼女は銃が好きだった。シンガーは個人的にイスラエリ・ミリタリー社製の50口径弾薬を使用する自動拳銃については装弾数が少な過ぎなのが不満だった。多ければいいのであればグロックだが形状が退屈過ぎる。多少耐久性に難はあっても美学的要求を満たした上で必要十分な装弾数を備える点でシンガーの選択肢はベレッタM92系に絞られる。その中で特に気に入ったモデルがセンチュリオンとエリートⅡだ。センチュリオンはコルトM1911で言えばコマンダーに該当するような銃身を短くしたモデルで特徴的なノズルの突起も取り除かれている。エリートⅡはそこから更に銃身とスライド部のみをシルバーステンレス製にして洒落た2トーンカラーリングにした上でグリップを細く握り易くしエリート専用に相応しく安全装置を排除している。シンガーはベレッタのセールスマンではなかったので以上の説明は省略し、シンプルな感想を述べた。
「いいね」
「シンガーさんは?」
「ベレッタM92エリートⅡ」
「へえ、どんなの」
「エリート専用だから、安全装置が無いんだ。写真を見せるよ」
シンガーは携帯電話でエリートⅡの写真を探してナスターシャに見せてから次の質問をした。
「長物系だと、何がいいの?」
「クリス・ヴェクター」
サイバーパンクだな。具体的なカラー名は不明だったが彼女のセミロングヘアーも何らかのサイバーパンクな色に染めてあった。クリス・ヴェクターはシンガーも大好きなサブマシンガンで近未来SF映画にも登場する未来的形状が特徴的だった。
「サイバーパンクだね」
「ハ?」
「あ、いや。気にしないで下さい」
「大丈夫。大体言いたいこと分かる」
「ひょっとしてコリン・ファレル
「え? ない」
「じゃ、ショーン・ペン
「ない」
「両方ともクリス・ヴェクター出てくるよ」
「ふうん。ねえ、煙草吸っていい?」
「もちろん」
「ヤベー、ライター」
ライターか。あれば貸したが、煙草をやめたシンガーは持ってなかった。
「ほら」
「ありがと」
シンガーの隣でクラブソーダを飲んでいた男がナスターシャにライターを渡した。彼女はセブンスターに火を点けるとライターを男に返そうとした。
「持ってていいよ」
「ウソー。ありがとう」
彼女はライターを小物入れに仕舞った。何か分からないが高そうなライターをナスターシャに上げた男をシンガーは知っていた。邪魔すんじゃねえよ、ツチオカ。シンガーは心の中で呟いてから彼に話し掛けた。
「あのライター、レースの賞金で買ったのか?」
「まあな」
「クラブソーダか。今夜もレースか?」
「ああ。シンガー、今日は話が弾んでるな。まだ歌ってないじゃないか」
「まあな」
「まあ、ゆっくりしていけよ」
ストリートレーサーはシンガーの肩を軽く叩くと席を立って歩き去った。ふう。余計なのが居なくなってスッキリしたぜ。
「ありがとうございまーす」そうライターをくれた男に言ってからナスターシャはシンガーにリモコンを渡した。
「どうぞ。ジャスティン・ビーバー歌ってよ」
「うん。ねえ、ここ、これから暫く休業だったよね」
「緊急事態だもん」
「その間に、どこか外で会わないか」
「いいよ。ねえ、歌って」
シンガーは密かに天にも昇るような気持ちでジャスティン・ビーバーの曲を検索したと言う。
スタイリッシュな髪型の首相が感染拡大防止を目的とし緊急事態宣言を発令した。最初は都会に限られたが数日後対象は全国に拡大した。それによってディズニーランドと〈アルテミス〉は休業を余儀なくされミッキーマウスとホステスはすっかり暇になった。シンガーは今頃ミッキーマウスの中に入ってた人が家で何してんのか考えながら近所のコンビニに駐車した86の中でナスターシャが来るのを待っていた。家で志村のコント見ながら缶チューハイでも飲んでるのかな。でも、ミッキーマウスになるくらいのエリートだと酒なんか飲まないのかもしれないな。自宅のトレーニングルームでベンチプレスをやりまくってるかもしれん。コンビニのWi-Fiで動画をダウンロードしながらいい加減な空想を膨らませていた真っ最中に彼女がバイクで到着した。ハーレーだった。ハーレーの何なのかはバイクに興味が無かったので全く分からなかったがハーレーなのは分かった。なぜならタンクに会社名が書いてあったからだ。書いてなかったら即座にハーレーと断定は出来ないような未来的な形状のモデルだった。実在車両中では最も《アキラ》に登場する赤い金田のバイクに近いかもしれないという印象を抱いた。そのハーレーも部分的に赤く、黒との2トーン配色でバイクに興味がないシンガーが見てもスゲーカッケーなと思わざるを得なかった。金田のバイクに乗る女性バイカーと言えば当然スティーブン・スピルバーグ
「何これ。スゲーカッケーな」
「ありがと」
「ハーレーの何なの?」
「FXDR114」
「ふうん……」
シンガーな全く何の知識も無かったので、ふうん、としか言えなかったしその次に何を言ったらいいのか皆目見当が付かなかったという。
「……」
その様子を観察していたナスターシャも当然、苦笑い以外の対応が出来なかったのでシンガーも自分自身に向けて苦笑いし二重の苦笑いが束の間続き時空が奇妙に歪んだ後、彼はどうにか言葉をひねくりだした。
「ところで、えーっと……」
「……」
「なんか、食いたいものとかある?」
「任せる」
ま、任せる?
「ああ」
まあ、普通だったらイタリアン・レストランとか行くのかな? ワインとか飲むのかな。確か一回くらいは行ったことあったっけ? だとしても緊急事態真っ只中で全国的な飲食店への休業要請が乱れ飛んでる中どこもやってないだろ、きっと。となるとやっぱり……
「マクドナルドでいい?」
「いいよ」
さすがはマクドナルド、即認可されたか。大衆的でありながらポップでオシャレな最近のイメージ戦略の全面勝利としか言いようがない。シンガーの働くコンビニでも安易にマックをパクッたどうしようもない新バーガーが続々と登場するがそんなもんはどうせマック行って買ったほうが安くて百倍旨いんだから無慈悲に全面カットしてしまった。チーズバーガー一択にしたら売り上げ数が伸び廃棄ダメージも激減した。シンガーもクルマでの食い易さ重視でマクドナルドで買うのはチーズバーガー一択だったが女性とのデートの時は食い易さを度外視し多少の食いこぼしリスクを冒してまでもビックマック的なのを頼まないといけないのかどうか慎重な検討を重ねつつこれからのデートプランを繰り出した。
「ドライブスルーでバーガー買って、クルマの中でネットフリックスの映画見ながら食べようか」
「うん」
全くロマンティックなプランでは無かったが、このパンデミック下においては多少のロマンティシズムは犠牲にせざるを得まい。シンガーは苦渋の決断を下した。とりあえず86で行くからハーレーをどっかに置いて来ないといけない。そのコンビニはシンガーの自宅の近所で自宅にはバイクを置けるスペースがあったのでそこまで彼女を案内し助手席に彼女を乗せ、フランチャイズ・チェーンへ向かった。
結局食いこぼしリスクを最優先したシンガーはチーズバーガーを二個とコーク。そんなリスクはどうでもいいナスターシャは濃厚なソースと水々しいレタスを堪能しようとビッグマックセット、飲み物はコークをそれぞれ注文した。ドレイクの何だかよく分からないアルバムのどれかの曲を聴きながら出来上がるのを待っていると話題はふと音楽へ移行した。
「何これ?」
「えーっと、ドレイクの何かのアルバムの何かかな」
「ふうん。アタシ、最近気に入った曲あるの」
「何? ジャスティン・ビーバーの何か?」
ホステスは全員ジャスティン・ビーバーが好きだというイタリア人が全員マフィアで日本人が全員忍者と同等の偏見に満ちた質問に彼女は期待を大幅に裏切る返答をした。
「ラナ・デル・レイの《ライド》って曲」
「へえ」
シンガーは音楽鑑賞時の音質の観点からなんとなく音質が良さそうなイメージで選択したソニーの携帯電話でユーチューブを開いてその曲を検索しブルートゥースでカーオーディオと携帯電話を接続して再生した。ビデオクリップではラナ・デル・レイがアリゾナかどこかの砂漠のど真ん中にある薄汚れたバーで歳取ったバイカーとイチャついたり外で大口径リボルバーをブッ放したりキャデラック・デビルかリンカーン・コンチネンタル・マークⅣみたいな古いアメ車を転がしたりハーレーで集団暴走したりするかなりCO2排出量が多めでグレタに怒られそうな内容だったが曲と歌詞は心に染み入る感じだった。最近は最近の曲でもこういうアンティークな曲調のアメリカ音楽が増えたなという漠然な印象を抱いていたらマスクをした店員がチーズバーガーとビッグマックを持って来た。
「見る映画だけど《レディ・プレイヤー1》なんかどうかな?」
「アタシが選びたい。ライブラリ見せて」
「うん」
例の水平な月極駐車場に到着すると普段はグレタに怒られないようにエンジンを切ってヘッドフォンで音を聞きながら缶チューハイを飲むのだが、今回に限っては地球温暖化リスクを度外視しエンジンをアイドリングさせ携帯電話をカーオーディにブルートゥース接続したままでネットフリックスを鑑賞せざるを得なかった。なぜなら携帯電話のスピーカーでは低音が弱過ぎで迫力が無さ過ぎだからである。チーズバーガーとビッグマックの包み紙を開き紙コップのコークをプラスティック製ストローですすりCO2を排出しまくりながらナスターシャがライブラリから選択した映画、《ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ》を再生させた。
大気汚染による地球温暖化と同様に深刻な問題である米国麻薬汚染阻止に立ち向かうCIA特殊部隊、FBI捜査官、元コロンビア麻薬カルテルの殺し屋らの活躍を描いた《ボーダーライン》の続編である本作は前作とはストーリー的には完全に隔絶されたパラレルワールド的スピンオフ作品で、前作で元殺し屋だった人物を主人公にして設定も元殺し屋ではなく元検事に変更されていた。テーマも麻薬汚染問題から離れテロ問題寄りに軌道修正されている。米国国防総省長官だったかがCIAのエージェントを演じるジョシュ・ブローリンにテロの定義を質問する。エージェントは質問には回答せず。それはそっちの仕事とだけ言う。それを受けて長官はテロについての定義を語った。政治的目的達成の為の暴力使用であると。シンガーはそれを不完全な定義だと思った。それだけだと通常の戦争行為もテロになってしまうので、攻撃対象を非軍事的組織及び民間人に限定しなければならない。悪そうなイスラム系がどっかで破壊工作したら何となくテロっぽいのでテロってことになっちゃうけど、厳密には攻撃対象次第でテロかどうかかは区別されるべきではあるが、多分めんどくさいから報道とかでは結構あいまいになってるのが実情ではある。こういう言語定義的問題に神経質だったシンガーだったのでそういうめんどくさい問題についてネットでめんどくさい書き込みとかしてしまうと大雑把で大らかな人生を謳歌しているおっかない女の人とかに「お前、めんどくせーよ」と怒られることが往々にしてあった。だからそのシーンを見ていた時もそういうめんどくさいこと言うとナスターシャにめんどくさいと思われそうだったのでただ黙ってたのだった。
イエメンからメキシコ経由で密入国したと思しきイスラム原理主義者かISISメンバーが米国のショッピングセンターで実行したと思しき自爆テロへの報復としてCIAはテロリストの密入国を仲介しているメキシコ麻薬カルテルのボスの娘を誘拐し敵対組織の犯行だと偽装しカルテル同士の抗争を引き起こし双方の弱体化を目論むが、自爆テロの犯人が米国人であったことが判明。政府上層部は誘拐作戦の証拠隠滅及びボスの娘の殺害命令を下す。上層部の理不尽な決定に末端のエージェントは反旗を翻し娘の命を救おうとする。以上のメインプロットと平行しつつ一人の地味な高校生がカルテルのゴロツキに誘われ闇稼業に関わり出し最終的にタトゥーまみれの極悪な犯罪者へと成長するダークな青春映画的要素がサブプロットとして描写される。ビッグマックを食べながら物語に惹き込まれていたナスターシャは前者よりも後者のプロットへ強い共感を抱かざるを得なかった。
ナスターシャ・ルシコフはロシアン・マフィア構成員の父とショーガールの母のもとモスクワで生まれた。それから八年後のある夕刻、組織内の小集団のリーダー〈ブリガディア〉として主に非合法薬物取引業に携わっていたニコライ・ルシコフはモスクワ中心街赤の広場とボリショイ劇場に隣接するショッピング・モール内の高級イタリアン・レストラン〈La Bottega Siciliana〉に招かれた。彼の事業における好成績を評価した組織全体のトップ〈パカーン〉のミハイル・マルコフが彼を食事に招待したいという話だ。実際はパカーンなど待っておらずそこで消されるかもしれないと多少心配はしていたブリガディアだったが来店しウェイトレスに最上のテーブル席に案内されしばらく待っているとチンピラ風情は中々お目に掛かることもままならないパカーンその人が現れた。高価なグレースーツを着こなした最高権力者はグレーの中折れ帽を取って側近に渡すと席に着く。その間ニコライは直立不動状態で待機していた。
「パカーン。お会い出来て光栄です」
「まあ、楽にしろよ。座ってくれ」
「ハイ」
「ワインは、シャトー・ディケムでどうだ?」
「申し分ありません」
「お前んとこの商売、調子いいんだってな」
「ハイ、お世話様で頑張らさせて頂いております」
「そうか。今日はな、ちょっとお前を見込んでな、任せたい仕事があって来て貰った訳なんだ」
「私に出来る事でしたら何なりと」
「うん。まあ、先に食ってからにしようか、な」
何か分からないが出て来たパスタを味わう余裕無く聞いたことない高級白ワインで消化器官に流し込む作業に従事していたニコライにミハイルが話し掛けた。
「どうだ、うまいか?」
「最高です」
「どういうとこが?」
「え?」
「え、じぇねえよ、あ?」
「ハイ」
「どういうとこが最高なんだって聞いてんだろ」
「ハ、ハイ……えーっと、こ、このナスの火の通り加減が抜群です」
「だろ」彼はフォークを皿に置き脇に寄せると、少しシャトー・ディケムを飲んでから続けた。「で、例の任せたい仕事なんだが」
「ハイ」
「ヤポーニャでカジノやろうかと思ってな」
「カジノですか」
「これを機に組織の拠点もそっち移して俺も移住する腹なんだが、そのカジノな、お前に任せるから、ヤポーニャに一緒に来てくんねえか?」
「……私にも妻と八歳の娘がいるもので、少し考えさせて頂いてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
「ありがとうございます」
「いい返事待ってるからな」
「ハイ」
「それとそのカジノな。もしお前やるんだったら、好きな名前。付けていいぞ」
いいの? エー、だと俄然やる気出てきたな。何にしよっかなあ。 ニコライが夢一杯の想像を膨らませていた最中そこへ大柄で肥満体のイタリア人シェフが挨拶に訪れた。
「ボナセーラ。本日はありがとうございます、パカーン。お食事はお気に召したでしょうか?」
「最高だ。特にこのパスタ、えーっと、何だっけ?」
「ナスとトマトソースのパスタ・アッラ・シチリアーナでございます」
「そうだったな。だが、最近ちょっとメニュが保守的過ぎやしないか?」
「ハ、ハイ……」
「前のアヴァンギャルドな方が俺は好きだけどな」
「そうでしたか……実はここのオーナーの指示でアヴァンギャルド禁止になってしまったものでして」
「そうか。なら仕方ないか。ただ、たまには好きなようにやって客の反応を確認してみてもいいんじゃないか?」
「ええ」
「昔のイギリス人はそれを経験主義と名付け産業革命の礎にもしたしな」
「分かりました。ありがとうございます」
「こちらこそ」
パカーンは立ち上がりシェフと握手すると側近から中折れ帽を受け取って被り出口へと向かう。ミハイル・マルコフとその取り巻き連中の後ろ姿を見送りながらシェフは人知れず呟いた。
「経験主義、か……いいかもな」
この帰納法的思想転換が今後の彼の人生に大きな軌道修正をもたらすことをこの時点の彼は知る由もなかった。
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