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 シンガーはコンビニ店員だったが、その夢では派遣工場労働者の設定だった。その電話が掛かってきたのは夕食後のまったりとした時間帯だった。彼がその電話に出ると相手は彼が働く精密機械工場のリーダークラス社員だった。リーダークラスは激怒していた。彼はシンガーが所属する派遣会社の社員に彼と彼の妻が侮辱発言を受けたと主張しシンガーにその派遣会社社員に電話して怒ってくれと命令したのだった。リーダークラスの話の後は彼の妻も電話に登場しその侮辱発言がどれほど酷かったかを主張した。話が終わると仕方なくシンガーはその侮辱発言の主に電話した。

「実は〈リーダークラス〉さんから電話がありまして」

「はい」

「〈派遣会社社員〉さんの方からその問題発言があったってことでひどく怒ってたんですよ」

「ああ、やはりそうでしたか」

「いやあのそれでですね私の方に〈派遣会社社員〉さんを怒ってくれって言われましたんで、まあ一旦私が〈派遣会社社員〉さんを怒ったってことにしておいて貰って置いていいですかね?」

「分かりました」

「じゃあまあそういうことでよろしくお願いします」

 覚醒後この夢の意味を考えた所、これは現実に発生した出来事の再構成であるとの結論に至った。彼が働くコンビニにはコーヒーマシンがあるので彼はそれを毎日清掃しなくてはならない。そしてそれを清掃する前にはレジカウンター上に〈コーヒーマシン清掃中〉の紙を貼らないといけない。なぜならそれを貼らないとバイトの男子高校生が間違って清掃中に販売不可能コーヒーを販売してしまい面倒だからだ。〈おっかないおばさん〉は上述の工程を遂行する途中で登場した。レジカウンターに紙を貼った後で清掃自体はまだ開始以前の段階で彼女はコーヒーを買った。彼女はコーヒーマシン清掃中って書いてあるけど大丈夫なのかどうか訊いて来た。シンガーは大丈夫なので大丈夫と答えた。彼女はコーヒーを注いで退店した。それから彼はコーヒーマシンの清掃を開始した。それから約一時間後〈おっかないおばさん〉から電話が掛かって来た。

「お電話ありがとうございます。……でございます」

「店長はいますか?」

「店長はいません」

 彼女の主張は大体以下のように要約出来る。レジカウンターに〈コーヒーマシン清掃中〉の紙が貼ってあり、彼女の退店後シンガーがコーヒーマシンの清掃を開始したことから彼女はシンガーがコーヒーマシンを清掃中にコーヒーマシンを販売したという事実と異なる解釈をしコーヒーを捨てた。その事実と異なる解釈をさせた責任が全て彼にあるのでそれを店長に通報し謝罪して欲しいと要求した。最終的に彼女は再来店しどうのこうの大騒ぎし店長と電話で話してから帰った。実際に不条理だったかどうかは別としてシンガーが不条理であると判断した理由で他人から非難、罵倒、叱責されるというモチーフをこの事件とあの夢は共有している。アルベール・カミュによると社会は不条理で溢れておりカント的定言命法による管理統制能力の限界を超越している。であれば人間に出来ることは覚悟することのみであるとシンガーは仮定した。不条理が大陸合理主義的方法では解決不可能であるなら覚悟するしかない。ボクサーも見えるパンチであればそのダメージを覚悟し耐えられるが、見えないパンチは覚悟出来ない故に倒されるという。覚悟するかしないかでは意外と大きな差がある。覚悟し不安を克服、超越しアタラクシアに至り幸福を獲得する以外の道はない。

 致命的危機が切迫しつつある時ジタバタしても大した効果は無く最終的には完全な無駄に終わる場合も多いが、覚悟するにはそのパンチを見なくてはならない。つまり情報を収集し分析する必要がある。彼はベッドから出ると即座に携帯電話で最新ニュースを国内公共放送サイトで確認した。危機が発生した際最も迅速且つ正確な情報を得られるソースである。幸いまだそれほどの危機は発生してはいなかったので、とりあえずお茶を飲みながらギャング映画をPCで再生し歳取ってスーツ着た男達のいざこざをしばらく鑑賞した。お茶を飲み終えるとインスタント味噌汁を作って飲みながらマーティン・スコセッシ監督作品の鑑賞を継続しそれを飲み終えると再生を停止し、ヨーグルトドリンクを飲みインスタントコーヒーを作りベビーチーズを食べそれを飲みながらYoutubeで《NBCナイトリーニュース》を見てアメリカントレンドを確認する。危機が発生した際に国内公共放送サイトはかなり信用出来るが、ローランド・エミリッヒ級の通常では起こり得ないはずの危機が発生した際には国内有力メディアの情報だけでは不十分である事をシンガーは原子力発電所の原子炉がメルトダウンした時に知った。原発の建物が大爆発し高濃度放射性物質をバラ撒いた直後国内メディアは情報の正確性よりもパニック回避を優先したので《ニューヨーク・タイムズ》からかなりの情報収集を行なったが最近は無料では少ししか記事を読めなくなったのでタダの動画とかサイトの国外ソースにもアクセスするようにしていた。諜報活動を終えた高校時代スパイに憧れていたシンガーは緊急事態が発生した際にトム・クルーズのように対応出来るよういい加減なエクササイズを適当に済ませ、携帯電話で音楽を聞きながらチャールズ・ウィルフォードとレイモンド・チャンドラーとドン・デリーロの電子書籍を読んでから歌の練習をした。

 〈ファイアーマート〉での勤務を終え86前期型のドアを開ける頃にはさっきまで先月近隣のショッピングセンター内にオープンしたマクドナルドが提供する商品の高まりつつあるクオリティーが米飯の販売数に与える損害を分析していたことなどシンガーの脳の片隅にも無かった。米飯を含む調理済み食品群は業界では中食と分類され、その発注はトータルとして理想的とされる消化率85%に如何に落とし込むかを競うPCゲームである。勤務中はそのeスポーツプレーヤーとして廃棄金額ダメージを考慮しつつ唯一最適と思われる数値を入力し、その数値を組織内の重圧に苦慮する本部社員、SV(スーパーバイザー)がシンガーの許可無く勝手に追加修正した数値を更に取消修正し返す小競り合いを繰り広げていたが、一旦このクリスタルホワイトパール・クーペに乗り込みオーディオプレーヤーがUSBメモリー内のマイケル・ジャクソンのアルバム《デンジャラス》を再生すれば心はすっかりそれをカセットテープで初めて買った中三の頃にタイムスリップし、休日になればゲーム内では敵キャラだったマクドナルドのドライブスルーでチーズバーガーを買う敬虔なマクドナリストに改宗したのだった。

 昼下がりから午後23時45分までの勤務を終えたシンガーがステアリングを握るFRスポーツが片側二車線道路に躍り出る。この時間帯の地方都市幹線道路は完全なガラ空き状況なのでまばらに走るタクシーや一般車両等をブチ抜きながら車線区分線を無視してゆるやかなカーブを曲がり交差点を右折し片側三車線の国道に入ると最も内側の車線から立体交差点の下を通る片側一車線のトンネルで限界まで加速してから交差点の左折に備えアクセルオフで速度を落としつつつま先でブレーキを踏みながら踵でアクセルを蹴りつけ三速にシフトダウンし続けて同様にレブマッチしながら二速に入れ青信号の交差点を左折し片側三車線の国道から片側一車線の狭い道に入り二速のままアクセルをベタ踏みして立ち上がり勝負感を楽しんでからパクられない程度まで減速しいつも退勤後に寄るスーパーへ向かった。ヒール&トウの練習は確か去年の春先辺りから始めた。《ベストモータリング》を中心に様々な動画を見まくってやり方を研究したが、レースでレーサーがやる様子は動きが早過ぎでいまいちよく分からなかった中あるレーサーが改造した86をサーキット試乗する動画でスローモーションを発見しようやく何をどうすればいいのか発覚した。いきなりヒール&トウでコーナリングしたりは出来なかったので赤信号で停止する前で踵でアクセルを蹴って三速に入れて減速する練習を通勤中に繰り返した。練習を始めた辺りはまだZZTセリカ前期型に乗っていた。原因不明のエンジンのパワー不足が日々の悩みだったが、ある日突然パワーステアリングが故障し走行不能になってしまった。元々パワーステアリング液が漏れていてその所為で余計に電力を消費しエンジンに必要な電力が供給されず結果的に慢性的なパワー不足に陥っていたのだった。故障の翌日、JAFを呼んでトラックでディーラーまでセリカを運んで貰った後、そこのロビーでコーヒーを飲んでいたら入口付近に赤い後期型の86が停車したのが見えた。いいなあ。あれ、代車で貸してくんねえかなあと思っていたら、本当に貸してくれた。スリーペダルMTではなくパドルシフト付きのATなのでヒール&トウの練習は出来なかったがそれはそれで加速時のロスが無い上、後期型という事でファイナルレシオがローギアード化されていたので明らかに速く、パドルシフト操作で多少のフェラーリ気分になれて良かったからATだったら別にATでもいいかなと思ったほどだ。とにかく86だったら何でもいいから欲しい。死んでもいいから欲しい。そう思ったシンガーはまず新車価格をネットで調べた。ベースグレードでも高いし、それだとATにパドルシフトがない。パドルシフト無しのATだったら高い新車価格を出す価値は無くマニュアルだとしてもマフラーカッターが無くマフラー開口部外径が非常に小さくなり見た目が悪い。新車は無いな。そう思ったシンガーは中古に的を絞った。その頃の86中古市場はちょうど運良く絶好の買い時だった。ただ知らないディーラーに行って知らない人と商談して買うのは非社交的性格のシンガーには非常に困難だったので今のセリカを買ったディーラーのサイトの中古販売リストに86がアップロードされるのを待って毎日確認する作戦を実行に移した。クーペ自体一台も無い状況でそんな御あつらえ向きに出て来る訳無いだろうと思いながら期待しないで見ていたらたった一ヶ月ほどでマニュアルの86がアップロードされ、発見当日即座にオンラインで購買申し込みを行なった。アップロードされた日に申し込んだにも関わらず、申し込み順番は二番手だった。二番手だと当然一番手が先に買ってしまうからシンガーは買えなくなるリスクが高まったのだが、初回の商談で即刻購入決定をするとすんなり契約出来てしまった。それから地獄のように煩雑な事務手続きを終えるとただじっと納車を待つ渇望に押しつぶされそうな日々が続く。その期間はとにかくゲームで毎日86を運転し、寝ている時も86を運転する夢を数回見ながらその渇望に抗い続けたと言う。その熾烈な渇望との戦いも遂に終戦を迎える日が来たのだった。

 ネットのパッと見だけで購入を決めたが、納車してから実車を見ても一つも傷が無かった。セリカを買った時とは真逆だ。あの時は傷はもちろんあちこち故障していた。新車の半額で買ったにも関わらずペダル類は高級そうな金属製タイプに交換してあったし、マフラーもフェラーリF430と同じ両サイド四本出しの《TRDハイレスポンスマフラー》に交換してあったので《マイアミ・バイス》のコリン・ファレル気分になれたし、シートは全部白いレザー製に交換してあったので《カジノ》のジョー・ペシ気分も多少味わえた。最初乗った時半クラッチの感覚がセリカと違っててちょっと手こずるという失態を犯し恥ずかしかった。完全にシート高が高過ぎだったが時間が無かったので帰宅して仕事行って、終わってクルマに戻った時にグラブボックスからマニュアルを引っ張り出しシート高の調整方法を調べた。その瞬間は車体色が白かった事もあって「ここをこうするのか?」みたいなそれっぽいセリフを心の中で言って初めてガンダムを動かす時のアムロ気分を密かに堪能しつつシート高をセリカと同様に最低まで下げた。それは七月の事だった。セリカの黒から白になって夏の暑さが多少和らいだような気がした。タイヤは走り屋が読む雑誌の広告に載ってるようなトレッドパターンだったからかウエットコンディションでのグリップはかなり低いようだったのでコーナリング時に踏み過ぎるとスピンしそうになった。ドライではもちろんご機嫌だった。渇望との戦後、平和な夏が続く。だが秋を経ると新たなる敵は待ち伏せていた。手強き者、汝の名は冬。

 薄手のスイス風マントで冬のロシアに帰郷した《白痴》の主人公、ムイシュキン公爵の様な準備不足で苦しむのを回避する為最低でもスタッドレスタイヤは何としてでも買う必要があった。オンライン及び複数店舗来店で調査した結果一般的な価格の三分の二程度で購入可能な店舗を発見し昨年モデルを購入出来た。最終的にその店に行った要因はテレビのコマーシャルで、他の店で買ってからそこに行くと安過ぎて後悔するぞという警告の体裁をとったありきたりの内容だった。広告なんて全部嘘に決まってるだろうと思いながら試しに行ってみたら広告の主張通りだった次第だ。自動車学校の教習車が年代物のマークⅡでFRだったし教習時期も冬季だったので余裕だろうと舐めてたら思いのほか手こずる始末だった。昔のクルマに較べて現代のクルマはハイテク機器やら環境装備やらを詰め込んでいるのでフロントが重くなりリアのグリップが極端に不足してしまいトラクション・コントロールも思った程効果的でもない。ないよりはマシな程度だ。そこで昔ながらの手法、リアトランクにタイヤを一個入れるという先人の知恵を実行してみると明らかにトラクション・コントロールの百万倍程の効果を発揮した。発進時の安定感が抜群に向上する。それでも発進時は運転席がある右側に勝手に曲がるという現象が発生するので即座に左方向にカウンターを当てなくてはならない。毎日の凍結路走行でカウンターを当てまくったお陰でスキルが上り運転自体もウインタースポーツ感覚で楽しめるようにはなって行ったが。そうなる前、タイヤをトランクに入れる前にその絶望的な状況は発生した。その絶望は西暦1812年ロシア戦役で寒さと敵の焦土作戦に苦しめられたナポレオンにも匹敵する程だった。フランスの皇帝はロシア領土の広大さから想定外の損害を被ったが、シンガーの場合は月極駐車場の傾きと滑らかなアスファルト舗装が要因となり脱出不可能な緊急事態に陥ってしまう。

その夜は濡れた路面の水分が膜状に凍結するブラックアイス状態で月極駐車場に入った86はそこの傾斜とグリップの全くない路面状況で完全なコントロール不能状態になってしまったのだ。タイヤは空転し目的地点へは数メートルなのだが永久に到達しそうにはない。かくなる上は、生涯三度目のJAF通報か。しかし過去のバッテリー上り、パワーステアリング故障に較べるとこの状況、前後に他の車が駐車した狭い空間における制御不能からの脱出は難易度が高過ぎる。いくらJAFでも今回に限ってはどうにも出来そうにもないが、残された手段は他に無かった。

「はい、こちらJAF統合作戦本部でしたが、どのようなことでお困りでしょうか?」

「メーデー、メーデー。至急緊急脱出支援が必要だ。救援部隊を派遣してくれ。こちらの座標は北緯40・5015834、東経141・4784948。オーバー」

 《エイリアン2》のマイケル・ビーン風に救援要請をした三十分後、トラブル解決のスペシャリストが到着しちょっとしたマジックを使っていとも容易く危機から脱する事に成功したと言う。マジックのタネは塩化カルシウムだった。それをバラ撒いた事によって凍結路面を溶解させグリップを回復し近所のコンビニに避難した。スペシャリストはちょっとしたペーパーワークを端末で済ませると作業報告書をシンガーに渡し、颯爽とその場から立ち去った。シンガーはコンビニの夜間店員に水平な駐車場を確保するまでクルマを置かせてくれと依頼し、承諾を得た。その後、スペシャリストを待つ三十分間の間にネットで予約した不動産屋に数日後訪問し無事水平な月極駐車場の賃貸契約を済ませ事態は収束に至ったのだった。

 そんなこんなで降り続く雨もいつかは止み、全ての人間がやがてはあの世におさらばするのと同様にあれだけ積もった雪も日光のお陰ですっかり消滅し、春の足音は軽やかなビートを刻んでタップダンスを踊り始めた。既にすっかり夜間でもドライだった。プロのヒール&トウはまるでダンスのように軽快だが、シンガーのそれはその域には程遠いにも関わらずトムキャットを原子力空母「エンタープライズ」に着艦させるトム・クルーズ気分でスーパーの駐車場に到着すると酒とヨーグルトドリンクとカットキャベツを買いに行く。買ったらクルマに戻って例の水平な駐車場に向かう。そこはゲオの向かいだったが事実上既にそこに用は無かった。《トップガン》はDVDを持っていたので容量節約の為データを消したが、グーグルプレイとネットフリックスでダウンロードした映画は携帯電話のストーレッジに死ぬほど貯め込んであった。シンガーは一番安い9パー缶チューハイの三五缶の蓋を開け一口飲み文字通り生き返るとネットフリックスで《レヴェナント》を再生した。ネットフリックスに入ったのは《アイリッシュマン》を見る為だった。パチーノがアイスクリームを食うとこが大好きだった。《レヴェナント》ではディカプリオが川魚を手で捕まえて食っていた。一瞬結構うまそうに見えるが川魚を本当に生で食ってたらディカプリオは腹を壊しただろう。実際に食ったのはコストコで買って来た奴に決まってる。会話、戦闘、移動の三行為を終始反復するだけの最近のトム・クルーズ製スパイ映画と異なりメシ食ったりフロ入ったりと言った日常生活描写をふんだんに盛り込むことによって人物の人間味と現実感を増幅させている点に加えて評価したいもう一点は悪役だった。数年前に初見した時はこれより《スパイダーマン ホームカミング》の方が好きだったが今それ見ると全く楽しめないので即行でデータを消した。シンガーもすっかり歳取っておっさんになったので若造の青春には完全に興味を失い、おっさんが主人公で活躍する映画にしか興味を持てなくなっていた。ディカプリオもすっかりおっさんになり、トム・ハーディー演じる悪いおっさんとの宿命の対決に至る。その悪いおっさんは四六時中上司の計画に文句を言い人命よりもカネを優先する傾向が強い倫理的問題を孕んだ人物ではあったが緊急時に置いては有益な技能を備えた頼りになる面もあった。彼は主人公が瀕死の重傷を負い移動不能という絶望的状況に陥った際coup de grace(blow of mercy)を実行しようとする。主人公の同意も得ていたので法的問題は別にして倫理的にはギリギリ正当な範囲の行為ではあったがそれを阻止しようとした主人公の息子を殺害するという明白な違法行為を犯してしまう。彼は問題があるとは言え最初から悪党な訳ではなく過酷な状況下において悪党に段階的且つ運命的に変質していくが、その過程の描写に説得力があった点でエピソードⅢのアナキン・スカイウォーカーの欠点を修正した人物と評したい。先住民に頭皮を剥がれた傷を持つ特異な風貌による凄みに加えトム・ハーディーの大袈裟な芝居も悪役においては適切で面白く《ケープ・フィアー》のデニーロや《仁義なき戦い 広島死闘編》の千葉真一に匹敵するシンガー好みの悪役だった。

 熊に襲われ重傷を負う事態は一種の不条理であり、ある種の不条理には劇的な倫理的転換を伴う可能性がある。ヨーロッパへ旅行に行くのは平時においては倫理的に全く問題無いが、その時期はちょうど亡霊がヨーロッパに出没していた。十九世紀のマルクスの著作においてはその亡霊は共産主義だったが、その時期の亡霊は二十世紀のカミュの著作において予言されていた。疫病の亡霊だった。その亡霊はヨーロッパに出没するだけでなくそれ以外の全世界に蔓延し文字通り「全ての人々(パンデミック)」が感染の恐怖に怯えていた。そんな中ある旅行者は団体を率い爆発的に感染拡大するスペインへ旅行しその旅行者を含めた数人がウイルスに感染した。彼はシンガーの居住地域における感染確認第一号となる。旅行者は倫理基準が転換した世界において凶悪犯罪の容疑者として扱われ民間で自然発生的に組織されたゲシュタポ的捜査機関によって特定、名指し、拡散され、有罪を宣告され、社会的に逮捕投獄される。悪疫による倫理的転換は人種、国籍、出身地及びその他の差別、名誉毀損、嫌悪、憎悪、悪意、中傷、買い占めその他の民事訴訟対象危惧案件を正当化した。

 ある者はパンデミックが国家的陰謀によって製造された人工ウイルスによるバイオテロだと主張する。シンガーは宇宙人の陰謀かもしれないと思った。シンガーは大概の神秘的事象は亡霊ではなく宇宙人の仕業と考えた方が実存主義的及び経験主義的に考察すれば妥当であるという立場だった。なぜなら亡霊はシンガーによる論理検証の結果存在不可能と仮定されるが、宇宙人は確率的に考えると存在が確実であるとの見解が既に学会では一般的だからである。ワープ航法が実用化されていない外宇宙文明圏においては地球に来るのに二千年以上かかるので知的有機生命体自身が地球に訪れ何らかの違法行為を働いたと考えるのは無論困難ではあるが、彼らが製造した無人機および人工知能デバイスによるものだとしたら可能性は残される。遡ることそれから二年程前観測史上初めて太陽系外からの飛来物体が観測された。それは全長十キロに及ぶボールペン形状の物体でプロペラ状に回転しながら地球に急接近し離脱した。学会はそれをオウムアムアと名付けた。スティーブン・ホーキングはそれが外宇宙文明圏の建造物である可能性を主張した。であるとすればプロペラ回転は内部居住区において重力を発生させる為ではないかとシンガーは類推する。それを母艦と考えるとそれから発艦した小型シャトルに搭乗した特殊工作特務ロボットないしはドローンが人工ウイルスを拡散し地球から離脱し母艦へ帰還もしくは自己破壊を実行し証拠隠滅。人類侵略作戦の第一波を開始したと考えるのは無論無理過ぎだが、そうだと仮定して考察を進め今回使用されたウイルスを兵器だと見なせば、弾薬、燃料、電力補給を必要とせずに自己複製によって無限増殖し身体的損害に限らず精神的、経済的、更には倫理的損害をも引き起こしつつ混乱と不幸を拡散し続ける極めて優秀な兵器であると考えざるを得ない。それは西洋文明が新大陸を侵略した際、結果的に最も効果的だった兵器は銃や爆薬ではなく彼らが持ち込んだ感染症だった事実とも奇妙に一致する。外宇宙文明による生物工学的侵略による人類文明の滅亡後彼らは地球に彼らの文明を建造し殖民惑星として資源を採掘、食料生産などを実行し本国へ二千年掛けて輸送するのだろうか。それは気が長過ぎな話だ。我々にとっては侵略でも彼らにとっては単なる動物実験の一環に過ぎないのかもしれない。


 It's only human,

You know that's real

So why would you fight

Or try to deny

The way that you feel


 外宇宙文明の侵略ではないにしてもウイルスの侵略で人類文明が滅亡の危機に瀕していた真っ最中だったので大都会の地方自治体首長らは感染抑止を目的としナイトクラブ等への夜間外出中止を勧告していたが、シンガーは大都会とは実質的に外宇宙と同じくらい無関係な辺境地域に住んでいたのでその勧告も無関係だろうと類推し、完全なゼロリスクとは言い難いが毎日ネットフリックスだけだと人生に生きる価値も無かったのと、天気もいいしとにかく行きたかったので〈アルテミス〉へ行ってしまった。《レヴェナント》を途中停止し、ユーチューブでジョナス・ブラザーズの《Only Human》を練習しそのまま音楽鑑賞しながら水平な月極駐車場から帰宅し着替えを済ませトム・クルーズが《マイノリティー・リポート》で着てたようなバイカーズジャケットを羽織りかつて人類文明が建造し繁華街と名付けた区域へと徒歩で出発した。有史以来、都市構造、建造物、服装、テクノロジー、日常的に使う電子デバイスその他はその形状及び機能において大きく変容したが、その変容は人類文明において表面的でしかない。本質的には人類は全く変容していない。目で物を見、口で物を食べたり言ったりし、手で掴み、足で歩き、胃腸で消化し、脳で学び、楽しむ。であるとすれば本質的な変容を伴う次世代への進化においては物を言ったり食べたりしなくなったり、手足を使わなくなったり、脳を電子的代替物に置き換えたりと言った非肉体的存在が類推される。そうなれば当然、死は克服され、時空も超越し、外宇宙への探訪も目論まれ、更には外宇宙文明への侵略も開始されるかもしれない。ただ現時点において人間は所詮人間でしかなくシンガーも当然例外では無かったので感染のリスクでビクビクしながらも欲望へ引きずられラウンジへと辿り着いた。

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