SINGER Ⅱ

@shakes

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 このレースに勝ったら、この普段使いのA80スープラに加えデート用にレクサスの一番でかいSUVでも購入しておこうか。ツチオカがマクラーレン相手のバトルを目前に控えこのような完全勝利確信を抱いていた事に何ら不思議は無かった。発端は数日前に遡った。それはかつて彼の仕事仲間だったが組織のボスに成り上がったタケザキとのビジネスミーティングで中華料理店の〈クマハッチン〉と同様の頻度で立ち寄っていたスターバックス根城店でツチオカ、タケザキに加え新入りの舎弟と次のタタキについてホットコーヒーをすすりながら議論を重ね、ニューヨーク・チーズケーキを食べ終え、席を立ち、昼下がりの気持ちのいい日差しが穏やかに降り注ぐ駐車場へゴロツキ共が繰り出した時のことだった。エンジンパワーを優先し消音効果を無視したエグゾーストパイプから近所迷惑な轟音を轟かせつつそのマクラーレンはスターバックスの駐車場に乗り入れてきた。そのマクラーレンはただのマクラーレンではなかった。購入するには数億の資金に加え特権階級的地位も要求されるハイパーカーと呼ばれるカテゴリーに属するマクラーレンP1だった。すごいクルマだ。こんな極東の島国の発展から見放された北東北の地方都市でこんな貴族的なマシンを見るとは夢にも思っていなかったツチオカは心の中でそう呟いたが、彼とは対照的な肥満体型でご機嫌な丸顔の人懐っこそうな目を輝かせた彼のボスはダイヒードラル・ドアを斜め上方に押し上げたバットモービルのドライバーに同様の内容を口に出して言った。

「スゲークルマだな、アンちゃん。まるでバットモービルじゃねえか、え?」

 突然話し掛けられた西洋人の若造は多少驚きつつ照れ笑いを浮かべた。

「ああ、まあね」

「タケザキだ、よろしく」二人は握手を交わした。「こちらはツチオカ」

「よろしく」ツチオカは黒いマシンの運転席に座った若造に言った。

「どうも。俺はピョートル・マルコフです」

「ピョートル・マルコフ。どこの出身だい」タケザキはピョートルに尋ねた。

「ロシアのモスクワです」

「ひょっとして、あんたあのミハイル・マルコフと何か関係あるのか?」

「父親です」

「そっかあ。道理でこんなクルマ転がしてる訳か」

「まあ」

「どうだ、一緒にアイスコーヒーでも飲まないか? スイーツでも奢ってやるよ」

「喜んで」

 ピョートル・マルコフは口一杯にニューヨーク・チーズケーキを頬張りながら言った。

「レース?」

「そこに停まってる赤いスープラで、ドライバーはこのツチオカが相手だ。こっちが勝ったらP1を頂く。そっちが勝ったらスープラを渡す」

 若いロシア人は食い物をアイスコーヒーで喉に流し込んでから的確な感想を述べた。

「バランスが悪いな」

「なら、調整しよう。どうだそのケーキは?」

「トワロージニクの方がうまいよ」

「何だそれは? ロシア料理か?」

「ロシアのチーズケーキだ」

「食ってみたいな」タケザキは携帯電話を取り出しロシア料理レストランを検索し始めた。その様子をしばらく眺めつつアイスコーヒーをすすっていたマクラーレン・オーナーは話題を本題へ軌道修正した。

「で、調整って?」

「あ? ああ」携帯電話の液晶画面に目を向けたままでタケザキは言った。「あんたのクルマの購入価格とあのスープラの差額分を現金で支払うってのはどうだ」

「いいね」

「その代わりレースのコースはこちら側で設定させて欲しい」

「うーん……」

「そんくらいサービスしてくれても良くないか? 車両性能ではそっちの方が圧倒的に上なんだしさ。あのスープラなんか、見た目はああだけどエンジンはノーマルだよ」

 ロシア人は車高を下げ抜群のこけおどし効果を発揮するGTウィングと大きくフロントから張り出したディフューザーを装着した九十年代のJDMを見て思った。あれでエンジン、ノーマルな訳は絶対無いが、このレースに勝てばまとまった現金が手に入る。あのクルマはパパに買ってもらったクルマだから負けても多少、パパに叱られる程度の話だしな。それにパワーウェイトレーシオからコーナリング性能から何からあんな古いクルマで俺のマシンに適うはずはない。彼は熟考の後結論を出した。

「よし、その話乗った」

 聞くところによると、そのマクラーレンはピョートルの父親が新車購入した物を数年後誕生日プレゼントに貰ったとのことで、購入価格は9700万円くらいという話だった。思ったより安いな。ハイパーカーと言えば基本億越えが基準だと認識していたツチオカはそう思った。ただ世界限定375台で既にマクラーレン・オーナーでないと買えないとの条件を踏まえれば一旦マクラーレン・オーナーになるのに最低三千万弱は必要だから実質的には億越え基準は超過していると考えることも出来るしその後の調査で中古車オークション価格はプレミアが付いて新車の倍くらいに跳ね上がることも判明した。ハイパーカーの新車購入は投資対象として手堅い物件だ。イベントを仕切るタケザキとロシア人との交渉で、ロシア人へのスープラに加えた現金での賞金総額は九千万ということで落ち着いた。スープラの査定額が七百万という想定だ。国内ではもっと安く買えるが諸外国ではJDMスープラのマニュアル、ツインターボは最低でも一千万以上の価値はあるのでその辺のバランスを考えれば妥当な線だろうということで落ち着いた数字であった。

「じゃあ、コースはどうする?」

 タケザキはツチオカに尋ねた。ストリートレーサーはブラックコーヒーを飲みながらコースへ思いを巡らした。彼は想像の中で海岸沿いの曲がりくねった片側一車線舗装路を走り、一月の荒れる海に目を向けた。道は狭く対向車も来る上ガードレールも無く、海側にコースアウトすれば崖から砂浜ないしは防砂林へと即刻転落する。飛ばすには相当な勇気とテクニックが必要な道だ。走り屋は携帯電話画面上の地図で二人に説明した。彼の案はこのコーヒーショップの前の中央分離帯のある片側二車線道路、ゆりの木通りで平行に並んでスタンディングスタートしトンネルを抜けフェリー埠頭の手前で右折してから橋を渡り突き当りで右折、左折し交差点で左折し駅の手前で右折して種差海岸沿いの道を抜けてから国道に合流し、交差点で左折しゆりの木通りに戻りスターバックスのドライブスルーがゴールだった。

「この時期、夜間は完全に凍結してるから時間帯は日中でないと無理だ」ツチオカが補足した。

「けど」若者が反論した。「日中だと交通量が多過ぎて危険だろ」

「そうだな。それはお前の反射神経でどうにかしな。凍結路面はスピードを落とす以外の対処法が無い。ゆっくり走っても面白くないだろ」

「公道で日中にレースなんで正気じゃない」

「なら、やめるか?」

「夜間に実施可能な春まで待った方が」

「坊や」タケザキが口を挟んだ。「俺達はそんなに気が長くねえんだよ」

「へえ」

「この話は無しだな」

 タケザキは席を立った。ツチオカもそれに続く。ロシア人は残ったチーズケーキをフォークで切り口に運んでからアイスコーヒーを飲み、ゆっくり味わいながら考えた。危険だがやはりカネは欲しい。彼は出口に向かって走った。

 ツチオカは彼のボスが開いた運転席のドアのサイドウィンドーに手を掛けながら若造と話しているのを眺めた。あいつ、やる気になったな。タケザキのクルマはダークグレーのポルシェだった。以前のシボレー・カマロから数年前に乗り換えた。カマロはハチノヘの狭い道を走るには車幅が有り過ぎだし、FRなので凍結路面や雪道での走行は難易度が高い。80スープラもFRではあるが、カマロは6・2リッターV8エンジン搭載しているのでフロントが重くなり過ぎ難易度は更に上る。いくらグリップのある太いタイヤでも凍結すれば空転し役に立たない。使い勝手重視でAWDジャーマンスポーツに乗り換えた次第だ。ロシア側との通商交渉が終了すると舎弟を乗せたボスのカレラ4Sと、走り屋の赤いトヨタは〈ジュリアス〉へ出発した。

 〈ジュリアス〉はタケザキが所有するエレガントなイタリアン・レストランで、大概昼飯に〈クマハッチン〉で広東麺かチャーハンを食った後、ディナーで〈ジュリアス〉に寄ってコース・メニューを堪能してからタケザキが所有するラウンジ〈アルテミス〉で寛ぐというのが一同のお決まりコースであった。三人が入店し奥から店内を見渡す最上のブース席に腰を下ろした頃にはちょうどアン―ゾフィー・ムッターが演奏するモーツァルトの《ヴァイオリンコンチェルト第二番》がサウンドシステムから流れていた。いつもの様にボスは彼の舎弟のナカムラに注文を任せた。細身で長身の黒いメタルフレームの眼鏡を掛けたナカムラは彼の右手の細長い人差し指を上げ、視線でウェイターに合図を送るとそのウェイターがブース席に向かって歩き出した。舎弟はサラダとオッソ・ブーコ(仔牛肉の煮込み料理)、赤ワインを注文する。元バーテンのギャングのボスと近所迷惑な走り屋の二人はとにかく最初は生ビールの中ジョッキだったがこのテック関係に強い大卒のインテリを部下に従えてからは、一切躊躇無くワインを注文する彼の流れに何となく流されてしまっていた。選曲にしても以前はトレンドに沿ったビリー・アイリッシュみたいな洋楽が中心だったが、ナカムラの指導でロマン主義的な方向への修正が施され優雅な雰囲気が醸し出されるに至った。食事が始まるとナカムラはボスに話し掛けた。

「兄貴」

「何?」兄貴は仔牛肉を味わいながら応えた。

「例のレースなんですが、ドローンで撮影させて頂いてもよろしいでしょうか?」

「え? まあ、いいけど。どうするんだ、それ?」

「後でレースの様子を見たい人がいるかなと思いまして」

「そうだな。俺も見たいな。お前は?」

「見たいですねえ」ワイングラス片手にレーサーも同調した。

「後、女の子に見せても面白がりそうだな」兄貴は肉を切りながら想像を膨らませた。眼鏡の舎弟は追加の提案を行なった。

「スープラのリアビューミラーにもドライブレコーダーを設置して空撮映像とクロスカッティング編集したらもっと面白がられると思います」

「名案だな」フォークで肉を口に運んだ。「準備を進めてくれ費用も出すから領収書貰っておけよ」

「機材関係は私物があるので大丈夫です」

「いいねえ。頼んだぞ」

「承知しました、兄貴」

ミラノ風のディナーも終盤に差しかかった頃、細身の舎弟は体型にフィットしたスーツの内ポケットから携帯電話を取り出した。

「おお、コウダ。そろそろオワっから、クルマ回しとけ」

 彼の舎弟への簡潔な指示を終えると携帯電話を元の場所へ収めた。三人が建物から出ると通りにはブルカノ・ブラックのアルファロメオ・ジュリアが停車していた。彼らが乗り込むとそのラテン・セダンは最終目的地へと滑らかに発車した。

 数分後コウダの運転するジュリアが〈アルテミス〉へと到着すると彼は運転席から飛び出し余分な贅肉を震わせて右後部座席へ走ってそのドアを開けた。アルファロメオから降り立ったタケザキは雑居ビルの入口へと進む。彼とツチオカ、ナカムラはエレベーターで上階へと移動しラウンジへ入店した。一行が広い店内の奥のテーブル席へ向かい腰を下ろすとナカムラは人数分のジョン・コリンズをホステスに注文した。ウィスキーベースのカクテルを待っている間、ボスは細身の舎弟にカウンターでジャスティン・ビーバーを歌っている男を呼んで来いと指示した。ナカムラはカウンターへ向かいシンガーに話し掛けた。シンガーは《Boyfriend》を歌い終えるとマティーニのグラスを片手に犯罪者集団の居座るテーブルへ向かった。タケザキは彼に話し掛けた。

「よう、シンガー。調子はどうだ?」

「調子? 冬だからあんまり声が出ないねえ」

「そうかい。まあ、座れよ」

「ああ。何、飲んでるんだ?」

「ジョン・コリンズだ」

「へえ」シンガーはマティーニを一気に飲み干した。「ナカムラさん。私にも同じの頼んでよ」

「承知しました」

「で、タケザキさん」シンガーは言った。「何か面白い話でもあるの?」

「面白い話か。シンガー、実のところそんな話があるんだよ」

「へえ、じゃあ、聞かせてくれよ」

 ホステスがシンガーのジョン・コリンズを持って来た。

「ありがとう」彼はドリンクを受け取った。

「その前にまずは乾杯しようか」

 その後、タケザキはジョン・コリンズを飲みながらその面白い話を始めた。シンガーは同じカクテルを飲みながらそれを聞いた。ロシアン・マフィアのボスのガキがマクラーレンP1でスターバックスに現れ、交渉の結果、ツチオカがフルチューンド・スープラで日中にそいつとレースする事になった。しかも、それをナカムラがドローンと車載カメラで撮影編集し知り合い連中に配ると。まあまあ面白そうじゃないの。

「ふうん。じゃあ、私にも観戦させて下さいよ、タケザキさん」

「いいよ」


 サヤカはスープラに不満だった。彼女は夫の部屋に設置されたカーゲーム用の装置にも不満だった。つまり彼女はツチオカに満足していなかった。八年前に出会った頃は羽振りも良かった。多少カネ目当てで結婚してから家も建ててくれた。ただその羽振りの良さは一時的な物であるらしい事が段階的に判明し始めた。大きなビジネスを仕切っているのはボスのタケザキで彼女の夫は所詮その下働きでしかない。そういった組織の内情も夫との会話の節々から感覚的に認識していった。ボスは下品なアメ車からポルシェに乗り換えたっていうのに、夫はいつまでもあの下品な古い国産スポーツカーを大事にしている。彼女は朝食の支度に取り掛かる。その間、彼は私室でゲームをしている。総額五百万オーバーの装置で。彼にとってそれはそれだけの価値がある。ただゲームをしない彼女にとってはただの邪魔なガラクタだった。ゴミだった。ゴミで遊んでいる亭主の為に朝食を作るのが妻の役目なのかしら。義務なのかしら。そんな夫でも将来のステップアップの可能性さえあれば価値が無いとは言えないわね。彼女は目玉焼きを作りながらそう思った。


 イベント当日、ツチオカは目を覚ますと隣で妻が眠るベッドから抜け出し軽くランニングし私室でベンチプレスなどをしてからシャワーを浴び、私室に戻って自作のレーシング・シミュレーターを起動させた。それは複数の別個の装置を統合したシステムとして機能した。レーシング・アプリケーションを動作させるPC、三連液晶ディスプレイ、八軸モーションシミュレーターを搭載したコックピット、米国FANATEC社製ステアリング・コントローラー《Podium Racing Wheel Formula》、付属品のペダル、ハンドブレーキ、シフトスティック。PCで業界標準レーシング・アプリケーション《rFactor 2》を選択起動しウラカンGT3でニュルブルクリンク北コースを走る。今頃妻が朝食の支度をしているだろう。一周走り終える辺りで目玉焼きが出来上がるかな。そんな事を考えながら四百五十万で買ったコックピットでステアリングを操る。ダイレクトドライブ方式によるリアリスティックなフォースフィードバックをステアリングから感じつつ八軸モーションシムによって再現される車体挙動情報を全身で分析しながらコーナーでの最適なブレーキングポイントを弾き出す。実車であれば下手すれば死ぬようなスピードでタイヤ交換、その他消耗品交換、ガソリン等の費用を一切気にせずに思う存分走れる事を考えればその価格分の価値はあると彼は信じていた。

 朝の祈祷を終えた敬虔なシム・レーシング教信者が朝食の席に着く。存分にニュルブルクリンクを走った後、愛する美しい妻が作った目玉焼きを食べる。彼は勝者の気分を味わう。これ以上何を望めるだろう? SUVとかあってもいいかな。空気抵抗的観点からは無駄が多い非効率的形状だが、女性は視点と耐衝撃性の高さを好む。どこのメーカーにしようか。BMWか、それとも……

「ねえ」

「ん?」

「おいしい?」

「ああ」彼は半熟の黄身に浸したトーストを口に入れた。「とてもね」

「良かった。今日のご予定は?」

「仕事だ」

「どういう?」

「レース」

「現役引退したんじゃないの?」

「ストリートの方だよ」

「非合法レース?」

「ああ。勝てばまとまったカネが入る」

「ふうん。勝てそう?」

「まあな」

「じゃあ、勝ってね」

「もちろん。そうだ、そのカネで旅行にでも行こうか」

「いいわね」

「どこに行きたい」

「ラスベガス」彼女はオレンジジュースを喉に流し込んだ。「〈パークMGM〉でブリトニー・スピアーズとレディー・ガガのショーが見たい」

「ラスベガスか。シンガポールはどうだ? 〈マリーナ・ベイ・サンズ〉に泊まればカジノもあるし、屋上の〈インフィニティープール〉で泳げる」

「じゃあ、両方行こうよ」

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