食事処・川下川
戯男
ミックスフライ定食………………790円
「店長」
「なんだ。チャーシュー丼はさっきので最後だぞ」
「そうじゃなくて。あの。熊が来ました」
「え?」
「ですから、店に熊が来たんです」
「お前馬鹿か。何をのんきに。早く逃げるぞ」
「いや、でも、ちょっと様子がおかしくてですね」
「おかしいのはお前の頭じゃないの」
「とにかく一回見てもらえませんか」
調理担当の渡部に促されて、店長は厨房から顔を出した。
なるほど、確かに。一番奥の座敷席には熊――残念ながら種類まではわからないが、人の背丈は優に超えるだろう大きな熊がいた。
熊はあぐらをかいてお茶を飲みながら、机に広げた新聞を捲っている。
「ちょっとちょっと」
店長はバイトの加代ちゃんに手招きした。
「あの、熊がいる机に、お茶とおしぼりがあるけど」
「はい」
「あれは君が出したの?」
「そうですが」
「……なんで?」
「駄目でしたか?」
「いや、駄目っていうか……ちょっと詳しく話聞かせてくれる?」
加代ちゃんの話では、熊が来たのは五分ほど前らしい。常連の中川さんが出て行ったのと入れ替わりに、暖簾の端を片手でちょっと持ち上げるようにして、のそっと店に入ってきたそうだ。
ぎょっと硬直した加代ちゃんに、熊は指――というか爪を一本立てて見せた。
一人客ということだろう、と加代ちゃんは判断した。
「座敷とテーブルどちらにしますか、って聞いたら、黙って座敷の方へ行かれたんで」
「君の順応力ってすごいね。それで?」
「お茶とおしぼりお持ちして」
「新聞は?」
「たぶん朝日と思いますけど」
「じゃなくて。君が持っていったの?」
「いえ、自分で棚から取って行かれました」
「なるほど」
店長は厨房に戻ると、調理台にもたれ掛かって腕組みをした。
「どうしよっか」
「ね?困るでしょ」渡部が言った。
「他にお客は?」
「テーブル席にいつものチャーシュー丼のサラリーマン二人と、あと岩瀬のばあちゃんがカレーうどん食ってますね。かれこれ二時間くらい」
「うーん。今はとりあえず大丈夫みたいだけど、やっぱり危ないよね。もしってこともあるし。通報って警察でいいのかな?消防?」
するとそこへ加代ちゃんが入ってきた。
「あの、ミックスフライだそうです」
「なにが?」
「オーダーです。ミックスフライ定食一丁」
「誰が?」
「熊が」
店長は渡部と顔を見合わせた。
「熊がミックスフライ定食を食うの?」
「わかりませんけど、注文されたんで」
「どうやって?」
「あの、こう、こっち見ながら片手を挙げられたので」
「うん」
「注文かなって思って、近づいていったら」
「ほんと凄い根性してるよね。で?」
「メニュー立ての、ミックスフライのところをトントンって、爪で」
「ああ。なるほど」
「『ミックスフライでよろしいですか?』って聞いたら、うんって」
「頷いたの?」
「たぶんそう思いますけど」
シュワーという音がして、店長はフライヤーの方を振り返った。
「渡部。なにやってんの?」
「え?ミックスフライですよね?」
渡部は続いてメンチカツとエビフライを油に入れた。
「出すの?」
「なにがですか?」
「だから。熊に。ミックスフライ定食」
「いや、でも、オーダーされた以上はやっぱり」
「てことは何?あの熊は客なの?」
「そうなんじゃないですか」
「うちの店は熊を客扱いするの?」
「しないんですか?」渡部は菜箸を手に持った。「それはまあ、店長のお店ですから、最終的な判断はお任せしますけど」
店長はまた腕組みをした。
「いや、でも、熊よ?」
「熊は嫌いですか?」
「好きとか嫌いとかの問題じゃなくない?」
「じゃあどういう問題です?」
「……どういう問題なんだろうな」
店長は再びホールの加代ちゃんを呼び寄せた。
「曖昧な質問で悪いんだけど、その……近づいてみて、どうだった?」
「なにがですか?」
「あの熊。その……雰囲気というか感じというか。ざっくりした印象でもいいんだけど、何かこう」
「はあ。別に普通ですけど」
「普通に何?」
「普通に熊です」
「……一応だけど、着ぐるみってことはなさそう?」
「ちゃんと確かめた訳じゃないのでわかりませんけど、だとしたら凄いリアルですね」
「うん。確かにリアルだよね。……いや、でも、やっぱりそうなんじゃないかなあ?うん。だってね。熊があぐらかいて新聞読みながら、定食来るの待ってるって、よくよく考えたらあり得ないじゃんね。よく考えなくてもあり得ないけど」
「まあそうかもしれませんね」
「そうだよ。そうそう。きっと着ぐるみだって。あははは」
「でもお茶飲んでますけどね」
「……そうだったかあ」
店長はまた厨房から顔を出して熊の方を見た。
「あんまりジロジロ見たら失礼じゃないです?」
「うん。でも見るなっていう方が無理じゃない?」
すると熊が「ぶしゅん」と言って、左手で鼻を何度か擦った。
「ほら。店長が噂話するから」
「クシャミだったんだ、あれ。すごいね。よくわかるね」
「うち犬飼ってるんで」
「そういう問題?」
「フライ定一丁上がりましたー」
渡部の声に、店長と加代ちゃんは振り返った。
「じゃあ私ちょっと行ってきますね」
「大丈夫?」
「なにがですか?」
「いや……なんて言うか……。うん、じゃあ行ってきてくれる?悪いけど」
「はい」
加代ちゃんはミックスフライ定食の盆を持つと、伝票を前掛けのポケットに挿した。そして厨房から出て行こうとするところを「あのさ」と店長が呼び止めた。
「ランチタイムは食後のドリンクがサービスで付くんですけど、コーヒーか紅茶、どうします?って、あの熊に聞いてみてくんない?」
「そんなサービスやってましたっけ?」
「やってないけど、ちょっと試しに」
「はあ。わかりました」
出て行く加代ちゃんを見送って、店長は渡部に「どう思う?」と聞いた。
「やっぱり通報するべきかな?消防なり警察なりに」
「何て通報するです?」
「え?店に熊が来てるんです、って」
「それから、どう言うんです?」
「……それで充分じゃない?」
「普通はそうかもしれませんけど、この場合は客として来てるっぽい訳じゃないですか。いくら熊でも、客が来たから通報するって、ちょっと変じゃないです?」
「そうかなあ」店長は首を傾げた。「てか、やっぱり客なのかなあ」
「客でしょ。少なくとももう料理提供しちゃったわけだし」
「あっ。こいつ。はめやがったな。お任せしますとか言ってたくせに」
「別にそうじゃないですけど。でも店長だって、コーヒーがどうとか言ってたじゃないですか。それはもう客扱いしてるってことでしょ」
「それはまあ、あれだけど。でも知りたくない?」
「なにがです」
「熊がコーヒーと紅茶どっちが好きか」
「それはまあ」
そこへ加代ちゃんが戻ってきた。「紅茶だそうです」
「紅茶なんだ」二人は声を揃えた。
「ていうか、どうやって指定したの?喋ったの?」
「いえ。コーヒーでよろしいですか?って聞いたら首を横に振ったので、では紅茶ですか?って聞き直すと、頷かれました」
「聞いちゃったか」と店長は残念そうにした。「どう答えるかも知りたかったのに」
「悪いですよそんな、お客さんで遊ぶみたいな事」
「まあそれもそうか。うん」
「で、どうするんです」
渡部がティーバッグを用意しながら聞いた。
「やっぱり通報するんですか」
「そんなこと言いながら、紅茶の準備してるじゃん」
「これはまあ、一応ですよ」
「うーん」
店長はまた店の方に首を伸ばした。
「あっ。食べてる。食べてるよ」
「ほんとですか」
渡部が店長の脇にから顔を出した。
「本当だ。箸使ってる。器用ですね」
「味噌汁もちゃんと蓋取って……あっ、ちょっと熱かったかな」
「おお。食ってる。やっぱ肉から行くんですね」
「……客だよなあ。見た感じ。熊だけど」
「そうですねえ。普通に飯食ってますもんね」
「なんかさあ……これを通報したら、なんていうか、むしろ俺たちの方が野蛮ってことになりそうじゃない?普通に飯食ってるだけなのに、熊ってだけで騒いだんじゃ」
「熊が人の食べ物の味を覚えると大変だって言いますけどね」
「そうだけど、でもあれはもうそういう次元でもないでしょ。ミックスフライ定食注文して食ってんだから」
「まあそれは確かにそうですね」
「うん。そうだね。じゃあそういうことで」顔を引っ込めると、店長は決心したように言った。「あれは客。熊だけど客。そういうことにしよう。うん。でももし何かあったらあれだから、今のうちに他のお客さんには出て行ってもらおう」
「それがいいですね。あ、じゃあ僕、岩瀬のばあちゃんにそう言ってきますよ」
「いや、岩瀬さんはいいだろ。別に。そもそも気付いてすらなさそうだし」
店長は厨房から店に出ると、窓際のテーブル席で向かい合っている二人のサラリーマンのところに向かった。チャーシュー丼の鉢はすでに空になっていた。
「お食事はお済みでしょうか」
店長は二人に言った。
二人は黙って店長を見返した。
「そのですね。別に急かしたりするつもりはないんですけども、その、お二人のために、できるだけ早くお帰りいただいた方がいいんじゃないかと思いまして」
店長は熊の方をちらりと目で示した。
「……なんでですか?」
片方が言った。その顔は少し青ざめているようだった。
「いやその。ご覧になればわかると思うんですが」
「熊がいるからですか?」
「ええまあ……そうなんですが」
店長は声を落とした。
「お客様、あまりそう露骨に仰らないように」
「熊を熊って言うのが何か問題ですか」
「でもその、あちらの方が不快に思われるかもしれませんので」
するともう片方が言った。
「いや、何言ってんですか?熊ですよ熊。早く通報するなり逃げるなりしないと駄目でしょうが。あんたらもすぐ客を誘導するとかしなさいよ。こっちはねえ、チャーシュー丼を夢中になって食ってたら、いつの間にか店の中に熊がいるんですよ。なんなんですかこの店は。いい加減にしてくださいよ」
「ですからお客様。そう熊熊と」
「じゃあさっさと出て行ったらいいじゃないですか」
いつの間にか背後に来ていた加代ちゃんが言った。
「食べ終わったくせにいつまでもダラダラして。あなたたちいつもそうじゃない。その上やけに偉そうな態度だし」
「なんだとこの小娘。客に向かって」
「あんたらなんかより、あの熊の方がよっぽどいいお客さんです」
「この……」
顔色の悪い方が唇を震わせながら言った。
「こっちだって、とっとと出て行きたいんだよこんな店。でもさっきから腰が抜けて立てねえんだよ」
「ふん。いい気味だわ」
茶碗を置く音に、四人は同時に振り返った。
奥の席では定食を平らげた熊が、割り箸を箸袋に仕舞っているところだった。それから熊は紅茶のカップを器用につまみ上げると、香りを楽しむように鼻をぴくぴく動かし、不意にぐるりと四人の方に顔を向けた。
「ひいい」
驚いたサラリーマン二人が椅子から転げ落ちた。
「ふわわわ」
二人はそのまま床を出口へ這いずり始めた。
「に、二度と来るかこんな店!でもチャーシュー丼は美味かったぞ!」
「金なんか払わねえぞ馬鹿野郎!ごちそうさま!」
そう言い残して、二人は匍匐前進で退店していった。
「いいんですか店長?お代貰わなくって」
尋ねる加代ちゃんに、店長は二人のお盆を下げながら「いいんだ」と言った。
「厄介払いができたと思えば安いもんだ。それに見ろよ、この器」
加代ちゃんは二人が残していった丼鉢を見た。
「こんなに汚く米粒を残して。俺も前々から、あの二人の態度にはムカついてたんだ。それに比べてあの熊はどうだ。ほら見てみな」
熊の茶碗は舐め取ったように綺麗で、汁椀の蓋はきちんと戻され、皿にはキャベツのひとすじすら残っていなかった。
「加代ちゃんが言ったとおりだ。あんな二人なんかより、あの熊の方がよっぽどいいお客さんだよ」
「店長……」
やがて紅茶を飲み終え、熊はのっそりと立ち上がった。そして綺麗に畳んだ新聞を棚に戻し、レジの前で立ち止まった。
「ありがとうございました」
加代ちゃんがにこやかに笑いながら言った。
「あ、伝票……いえ、結構です。ミックスフライ定食で、七百九十円です」
店長はどこか晴れやかな気持ちで、加代ちゃんの斜め後ろに並んだ。いつの間にか厨房から渡辺も出てきて、爽やかに笑いながらエプロンの前で両手を重ねている。
すると熊が口を開いた。
「君は何か?熊が人間の貨幣を持っているとでも思っているのか?」
「え?」
加代ちゃんは笑顔のままで言った。
「でも、お客様、ミックスフライ定食を」
「私がその、ミックスフライ定食とやらを注文したか?そもそも私は自分が客だと名乗ったか?」
「で、でも……」
と言いかけた加代ちゃんが不意にぱたりと倒れた。
店長は足下に横たわる加代ちゃんを見た。
加代ちゃんは右肩から左の脇腹までざっくりえぐり取られていた。内臓がはみ出した断面から、間欠的に血が噴き出していた。
どかん、と店の奥の方で音がした。店長がその方を振り返ると、壁にぶつかって落ちた加代ちゃんの腕と頭が床に転がっていた。加代ちゃんの顔は不思議そうな表情をしていて、しかしもちろんすでに事切れていた。
「これが対価だよ。我々のね」
ああ、熊が加代ちゃんの体をなぎ払ったんだ、と店長が気付いたのと、隣にいた渡部が厨房へ吹き飛んでいくのはほぼ同時だった。厨房を覗き込んで見ると、細切れになった渡部の肉が、奥の大型冷蔵庫いっぱいにこびりついていた。
「おおおおおおお客様。そんな。我々はその。別にそんな」
店長は崩れ落ちることもできず、立ったまま腰を抜かしていた。
「だって。やめてくださいお客様。だって。お客さま」
「だから」
咥えていた爪楊枝を吐き落として、熊が言った。
「熊だ」
○
三人を殺害した熊は地元の猟友会の山狩りにより、一週間後に駆除された。
熊の死体は焼却処分された――と、表向きはなっているが、あまりに立派な体格だったため、毛皮は猟友会の会長がこっそり自分のものにした。
肉は猟友会によってジビエ料理として地元住民に振る舞われたが、誰も気味悪がって手をつけようとはせず、岩瀬のばあちゃんが三十時間かけて全部食った。
食事処・川下川 戯男 @tawareo
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