眼鏡
ガラスが割れた。
私はレンズの割れた眼鏡を掠れていく視界で見つめていた。
「どうしたんだい?こんなところに呼び出して」
大事な話があると公園に呼び出された直樹が私に尋ねる。
「歩きながら話しましょう」
そう言い私は歩きだす。何か言いたそうな直樹だったが私のいつもとは違う様子を見て黙ってついてきた。
ここは夜の公園である。冬の訪れを告げるかのような冷たい風が私たちを飲み込む。眼鏡が冷える。耳も痛い。
「なあ。どうしたんだよ」
どれだけ黙って歩いていただろうか。直樹がしびれを切らして口を開いた。
私は階段を背にして風よりも冷めた目を直樹に向ける。そして告げる。
「私たち別れましょう」
突然の私の発言に直樹はあっけにとられている。何か言おうとしているが思考がまとまっていないのだろう。魚のようにただ口をパクパクさせている。そんな直樹を放っておいて私は話を進める。
「あなたは変わってしまった。私の知っているあなたではなくなったの」
「何を言っているんだ」
直樹の声が震えている。
「あなたは誰よりも優しくて誰よりも誠実な人だった」
そう言いながら私は過ぎた日々に思いを巡らせた。
はじめて出会ったときのことを思い出す。大学生になり、上京してきて間もないころの私が迷宮のような駅でさまよっていたとき、いきなり声をかけてきたのが直樹だった。ナンパかと身構えたが、眼鏡の奥のこちらの様子をうかがう不安そうな目と震えている声でそうではないとわかった。彼は声を震わせながらも親切丁寧に道案内をしてくれた。目的の改札についたあと人込みに飲み込まれながら去っていった彼の後ろ姿は、今も目に焼き付いている。それが直樹との最初の出会いだった。
お礼をいうことができなかったと後悔しながら数カ月が過ぎたある日、直樹とまた出会った。あの時のお礼をしたいと私はいきなり彼を食事に誘った。今思うと連絡先も交換していないのにかなり大胆なことをしている。男性に慣れていなかったため距離のつかみ方がわからなかったのだ。いきなりの誘いだったが、直樹は少し微笑みながら首を縦に振った。あとから聞いたところによると、私の不安そうな様子と震える声で放っておけなかったらしい。
連絡先を交換し、後日食事をしようということになった。当日、食事に誘ったはいいがいいお店を知らない私が選んだのはファミレスだった。しかし、直樹は気にするそぶりを見せずニコニコとメニューを見ていた。ふたりで食事をしながらいろいろなことを話した。彼は私の一つ年上だった。どうして駅で私に声をかけたのかを聞いてみると、彼も大学生になり上京してきた口らしく、駅で不安そうにしている私を放っとけなかったのだと言う。しかし、彼も異性に慣れていないため声が震えてしまったということらしい。今日着ていく服を選ぶのにもかなり頭をひねらせたと彼は恥ずかしそうに語った。似た者同士だんだんと距離が近くなっていき、それからも何度か会う約束をし、ある時直樹から告白された。断る理由はなかった。
お互いに大学を卒業してもまだ私たちは付き合っていた。しかし、ともに社会人であるため会う回数は減った。そんなある日のことである。久しぶりに会うと彼は別人のようになっていた。少し長めだった髪は短くなり、眼鏡をやめてコンタクトレンズになり、服装も今までの彼なら絶対に着ないようなものだった。浮気だった。
私が咎めると彼は素直に謝罪し、浮気相手とは別れた。私は直樹を許した。許してしまったのだ。
浮気は繰り返される。そんな言葉を聞いたことがある。直樹はそうではないと思っていた。いや、信じていた。けれどもそれはただの希望に過ぎなかった。
直樹が一人暮らしをしているアパートに行ったときに、髪の毛が落ちていた。直樹とも私のとも違う長さをした髪の毛を。私は彼と別れることを決意した。
「あなたが別の女と付き合いたいのならば別にそれでいい。けれどそれをするのは私とはまるで関係のないあなたになってからにして」
「ごめん。もうしない。なあ許してくれ」
彼に肩をつかまれる。私は離れようとして彼を突き放そうとする。彼の手が私の肩から離れた。けれど、彼を押していた力の行き場がなくなり私は体制を崩し。足を滑らせ後ろに倒れた。
階段を転がり落ちる。体のあちこちに走る衝撃。視界がぐるぐると回り何もわからなくなる。ピタリと転がるのが止まった。一番下まで転がったらしい。首元が暖かいと感じるや否や寒くなってきた。目を開けるとレンズの割れた眼鏡が落ちていた。
「コンタクトにしないの?」
私はよくこう言われた。
「眼鏡が好きだから」
私はよくこう答えていた。私は眼鏡が好きなのだろうと自分でそう思っていた。けれどそうではなかった。本当は眼鏡が好きなのではなかったのだ。私はやっとわかった。それがわかったのと同時に眼鏡が見えなくなった。
頬には冷たい筋ができていた。
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