chapter 23

 田利本が帰る頃には、もうすっかり夜になっていた。


 照明が絶えたアパートの廊下の暗がりで、何かにすれ違った田利本は、振り返り、持っていた懐中電灯をつける。


 すると、顔の前で左手をかざして眩しがるブルジョアの一人――佐々木と、彼の右手に左手を握られた常盤サクラが現れた。


 サクラは明かりが目に痛かったのか、睨んだような顔になっていた。


「どうしたんだ?」


「あ、ああ……散歩だよ」


「彼女の身体に負担をかけてもか?」


「……確かにね。けど、快楽と苦痛の二元論に囚われていてはいけないんじゃないかな? そう。例えば思い出のような――」


「思考や感情もすべて苦痛に変換されるって話はしたよな?」


「それは……」


「彼女にとっては装置に繋がれていた過去も、誰かと戯れた体験も、美しい景色も、性質的には変わらない。程度の差なんだよ」


「それは……分かってる。けど」


 佐々木は苦虫を噛み潰したような顔をすると、ぎこちない手つきで懐から拳銃を取り出して銃口を田利本に向けた。


「何の真似だ?」


「妻と娘が出て行って、僕はずっと孤独で、なにより空虚だった。けど、サクラちゃんのことを知って、こんな僕にもなにか出来るかもしれないと思って、彼らとともに君を訪ねたんだ」


「そうか」


「……けど、結局誰もこの子を幸せにしてやることなんて出来やしない。そのことを君に聞かされて、みんなも気づき始めてる。満たされたかっただけだったんだって。僕らが彼女のもとに集まったのは、そういう身勝手なエゴのはけ口にこの子を選んだだけだったんだって」


「そうだな」


「この子は誰にとっても特別だけど……それは本当の特別とは違ったんだ。みんな、本物が欠けてしまった虚しさを、偽物で紛らわそうとしていただけなんだ」


「家族が帰ってきたのか?」


「ああ……妻と話して、娘も会いたがってるって……ここでのことは話してないけど、でも、きっとやり直せる。だからケジメをつけるんだ。この幻想に」


「彼女を装置に戻すのか。家族との将来のために」


「――ッ! ……ああ、そうだよ。妻と娘の未来のために!」


 田利本は優しく笑んだ。

 佐々木にはそれが何を意味しているのか分からなかった。


「僕は生まれつき、目が光に弱くてね。それでずっとこういうのを掛けてる。だから目に映る世界はいつも単調な色をしていた。だから人が色味について口にする度、僕は「ああ、僕と彼らは違う世界を見てるんだな」って思ったんだ。人は世界を五感でもって知覚しているが、だとすれば違うものを見ている僕と彼らが全く同じ世界に存在していると言えるだろうか。君らは僕の世界にいるように見えるけれど、それはそういう風に現れているだけで、結局のところ、僕は僕の世界にただ一人なんじゃないかってね。けどやっぱり、視覚以外についてはそういうことはなかったし、ただ僕の場合は色のついたガラスが目の前にある、それだけなんだって納得していた。ただ、まあ、こういう性格だからね。学生のとき、時々僕のことを影で悪く言う人がいたんだ。けど、僕も地獄耳じゃないから、実際に何を言われてたとかは分からないんだけどね……いや、本当に何も言われていなかったのかもしれない。そうでなくても、僕が僕の悪口を言っていると思い込んだ場面のいくらかは、本当に無関係な会話だったろう。もしかしたら、僕に興味があってはしゃいでいたということもあったかもしれない……フフッ、まさかね。まあただ、僕が学生時代に誰にどう評価されていたとか言うのは、全くもってどうでもいいことなんだ。とにかく、僕はいくらかの誤った認識をもとにこの世界を認識している……いや、構成している。もはや僕に、なにが現実に起こったことなのかを確認する術はない。彼らを問い詰めたって真実が返ってくるとは限らないし、たとえ真実だとしても、僕はそれを認めないだろう。そう。結局のところ、僕は無数の可能性と、その総てに対する疑念に生きている。それは、いわゆる「現実の世界」ってやつとは違う。それでやっと気づいたんだ。あの時レンズの向こうにあると思っていた世界、どれが陰口で、どれがそうでないかが明確な世界……そっちの世界の方が幻想で、本当ってのは僕がいるこっちなんじゃないかって。シキシマ秀典といたとき、あの時だけは、僕はそんな悲しい本当を忘れていられた。シキシマ秀典が僕の前にありありと現れてきて、虚ろな世界から連れ出してくれたんだ。シキシマさんがいなくなって、温かい夢から覚めてしまった僕は、もう一度あの幻想に浸りたくて、あの人の代わりを求めた。それが常盤サクラだった……けど、やっぱり駄目だった。いくら彼女のために戦ったって、シキシマさんと一緒にアーマーの開発に没頭したあの頃のような心地よさは感じられなかった。苦しいだけで、これなら虚ろに酔っている方が余程楽だった。だから、もういいんだ」


 田利本の言っていることがほとんど理解できなかった佐々木だが、とりあえずは田利本が常盤サクラに興味を失っているらしいこと、それゆえに佐々木を見逃してやってもいいという意思を伝えようとしているらしいことを読み取り、銃を下ろした。


 田利本はサッと銃を取り出し、佐々木の頭を撃ち抜いた。


「ああ、だからもういいんだ。こんなごっこ遊びは……けど、この女は渡さない」


「た、田利本……くん……?」


 田利本が佐々木を撃ち殺す様を、ブルジョアたちは目撃した。


 彼らは全人類の未来を阻む目論見をしていながら、心のどこかでは、自分たちは正しい行いをしているのだと信じていた。

 だから、これまで田利本が銃を使ったらしいことを察しても、敢えて追求することはしなかった。


 しかし実際にその瞬間を目の当たりにすると、途端に彼らのそんな都合のいい幻想は崩れ去ってしまった。


 ブルジョアたちは皆どこか物悲し気な顔で、散り散りになって去っていった。


 誰も田利本を咎めることはしなかった。


 サクラを連れて行こうとする者、サクラを気にかける者もひとりとしていなかった。




 寂れたアパートに、田利本とサクラだけが残された。

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