chapter 4
「そうか、所長に聞いたんだな」
サトルはハルカに彼女の自宅へ招かれた。
壁は白いレンガで、赤い屋根の小さな家。
白塗りのフェンスで囲われた庭(もっとも、周囲に他の家はないが)で立ち尽くすサトルは、しゃがんで弟や妹と戯れるハルカの姿を眺めていた。
「僕には……自分がどうしたいのか分からないんです……」
口に出して、ようやくサトルは気づいた。
善悪はサトルの葛藤の本質ではない。
もちろん、サクラの解放か大勢の未来かの二者択一に善悪の判断は決して無関係ではないだろう。
が、良心で自分を縛ろうにも、それは意思がなにかを欲してからでなければあり得ない。
シキシマは自分の欲に従って行動しろと言ったが……そもそもサトルは自分が何をしたいのわからないのである。
サクラを苦痛から解放したい理由は簡単だ。
彼女が苦しんでいることが自分にとっても苦痛だからだ。
では、SAKURAシステムを守りたい理由は?
自分の死、誰かの死、みんなの死……どれも怖いが、どれが一番怖いのかがよくわからない。
漠然としていて、一対多のシンプルな両天秤もなかなかどうしてどちらにも傾かいてくれない。
ならばいっそ、シキシマに協力してサクラを楽にしてやったうえで、飢えて死んでしまえばいいのではないかとも考えるのだが、しかし、なにかがそれを踏みとどまらせている。
それがなんなのか、サトルには分からない。
「へー」
「ハルカさんは、どうしてあそこを守るんですか?」
「私には、サクラちゃんの苦しみは解らん。所長は世界中の人間の苦しみを全部足しても足りないぐらいの苦痛を与え続ける必要があるって言ってたが、それでもあんまりしっくりこなくてな」
「それだけ、ですか?」
「人間なんてそんなもんだよ。遠くの国で紛争があっても所詮他人事だし、かといってじゃあ近所で通り魔が出たとなったら慌てふためいて大騒ぎする。カスピ海より琵琶湖の水だ」
ハルカは弟と妹の頭に手を乗せ、そっと撫でる。
確かにそうだ。
三億人の命と言っても、周りの誰の三億倍とも感じない。
今日初めて相対したシキシマと比べたってそうだ。
そもそも三億なんて数も、三の後ろに零が何個あって……なんてことは分かっても、その大きさは感覚的にはイマイチよくわからない。
「私はなによりこいつらが生きる明日を守りたい。どこかの誰かの苦しみよりもまずはこいつらの幸せが大事。他は全部二の次だ」
「僕は……」
しかし、今までただなんとなしに生きてきたサトルに、少女を永遠の苦しみの中に閉じ込めてまで生かしたい誰かなんているだろうか。
ハルカのことは好きだ。
けど、べつに付き合ってるわけじゃない。
二人きりでどこかに行ったわけでもない。彼女がサトルの女性の好みピッタリなのはそうなのだろうが、二人の間に何かがあるわけでもない……
「あれを飲みたくないなら、飲まずに野垂れ死ねばいい。私は別に止めないよ」
「僕は……」
サクラが苦しみから解放されるなら、自分ひとり野垂れ死にしたって構わない……と、思う。
だからってじゃあ、短刀を渡されてサクラを代わりにお前が自分の腹を切れと言われたらそうするかと言われたら、多分怖くてできないだろうが。
ただもしもこの世に自分とシキシマと、SAKURAシステムに繋がれたサクラの三人だけしかいなかったら、シキシマがSAKURAを破壊するのを止めやしないだろう……たぶん。
「でも、お前にもなにか守りたいものや成し遂げたいことがあるのなら……飲め、いや、喰え。戻したもん拾ってでも口に放り込め」
「僕はいったい……」
サトルは俯いた。
「はいこれ」
幼い声、そして視界に映る小さな足に気づき少し顔を上げる。すると、サトルの前にはハルカの妹が立っていた。両手で持った赤い紙パックを差し出しながら。
「今日は一本余ったの。だからお兄ちゃんにあげる」
「えっ、でも……」
「ほうら!」
少女はサトルの右手を引っぱると、握った拳をほどき、紙パックを握らせる。
彼は、少女の手の温かさと柔らかな感触とを感じ取った。
「あ、ありが……とう……」
少女は優しく微笑みかける。
サトルは笑顔で返そうと試みるが、引き攣った笑みにしかならない。
しかし、少女はさらにニッコリとして彼に応えた。
その晩、サトルは少女にもらったSAKURAを接種しようと試みた。
が、しかし、サトルは口に含んだところで全て吐き出してしまう。
こぼれた液体を何度も舌で舐めとろうと何度も床に舌をつけるが、より一層の吐き気を催す。
だが、胃の中には何も残っていないので彼の咽はひたすら掠れた音を出すのみだった。
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