第2話 渋谷区、シアター・ルチア④

 シアター・ルチアという建物がどういう場所に建てられているのかについては、仕込みに参加するスタッフ全員に周知されていた。宍戸は参加者全員に新しい市岡神社の札を渡していたが、昼休みに入る前にチェックした時点で既に幾つかの文字がかき消されていた。鹿野ときさらぎ優華ゆうかがポケットに入れていた札も同様だ。まだ「」という文字は浮かび上がってきていないけれど、


「なに岡神社か分からんようにされとんな……」

「っすね」


 来客があると聞き楽屋を出た優華と鹿野は、お互いの札を見せ合って溜息を吐く。シアター・ルチアには、かなりの大物が根を張っているらしい。


 問題の来客とは──檀野だんの創子つくるこ和水なごみ芹香せりかのことだったのだが、当の檀野が「」と言い出した時には驚いた。鹿野も不田房も、檀野、和水にはこの件をあまり詳しく伝えていなかった。和水はさわりを受けやすい体質だし、檀野はシアター・ルチアの持ち主である株式会社イナンナの所属だ。イナンナが工事前に奉遷ほうせん──神社のご神体を別の場所に移す儀式──を行わなかった、(断言はできないが、推察は可能だ)ためにこのような事態になっていると、檀野に伝える気は鹿野にも不田房にも、そしてもちろん宍戸にもなかった。

 だが本人が、乗り込んできてしまった。何もかもを承知の顔で。


「スタジオに出てきたあの女でしょ」

「だ、檀野さん」

「あんたたち、私に気を遣ってるつもりなの? だったら迷惑。今すぐやめて」


 長身の檀野が、顎を上げて不田房を見下ろす。ロビーのソファ、鹿野の隣に腰を下ろしていた不田房がしおしおと肩を丸める。


「なして──」


 鹿野は、思わず声を上げていた。


「なんで、檀野さんが、そのこと」

「何言ってんの? あんな不気味なもの見たらいくら私だって『おかしい』って思うけど?」

「いや、その、そうだけどそうじゃなくて」


 原因がここシアター・ルチアにあると、どうやって気付いたのか。なぜ、気が付いたのか。


 シアター・ルチアも、それに最初の稽古場だったスタジオが入っているイナンナが所持しているビルも、どちらも『野上神社』の跡地に建っている。そこに建てると決めたのはイナンナの前社長・内海うつみ清蔵せいぞうで、彼の息子に当たる今回の公演のエグゼクティブ・プロデューサー・灘波なんば祥一朗しょういちろうも事情を知ってはいるはずだ。だが、イナンナ所属の檀野創子、それにオーディションで出演が決まった和水芹香、鬼優華、そして窪田くぼた広紀ひろきは何も知らなかった。今日ここにはいない歌唱指導を担当する穂崎ほさき星座せいざも同じく。更に仕込み前日に大道具担当の薄原すすきはらカンジを含む各部署のスタッフたちと飲み会を開き、事情を説明したという宍戸によると、シアター・ルチア専属スタッフである照明担当・六野むつのあずさ、音響担当・戸坂とさかゆずも口を揃えて「野上神社なんて聞いたことがない。幽霊や化け物が出るという話も知らない」と断言したのだという。舞台美術を専門としており、一年契約でルチアに所属しているユカリトクマという男性も「そういった話は何も知らされていない」と首を横に振った。シアター・ルチアの専属スタッフで、イナンナと野上神社の悪縁について知るのはどうやら、舞台監督の鈴井すずい世奈せなだけだ。ちなみにだが、外部からの参加になる大道具担当薄原カンジとその部下や同僚たちも、イナンナには縁が薄く、この劇場での仕事は初めて、という者も少なくなかった。当然、奇妙な女が劇場内に現れるという噂を知る者はいない。


に聞いた、って言えば納得する?」

「ちょっと、檀野さん」


 沈黙していた和水が、初めて声を上げる。二の腕をぐっと掴む和水を振り返った檀野は、


「もういいって。だいたいがまともにオーディションもしてないメンバーで、イナンナの希望だけで、この規模の公演を打とうとするのが間違いだったんだよ」

「間違い……」


 不田房が両目を大きく開いて繰り返す。「どういう意味ですか?」と宍戸が尋ねた。その場にいる全員を代表して問いかけだった。ヒールを履いた足でロビーの床を踏み締めた檀野創子は、迷いもせずに言った。


「イナンナの今の社長、分かる? 内海真琴まこと

「会ったことはないですけど、まあ」

「あれ、私の大学の同期」


 えっ、とか、マジで、という驚きの声がロビーのそこかしこから上がった。和水は困り果てた様子で眉を下げている。


「全員知ってる前提で話すけど。私、大学の頃は劇団怪獣座の研究生だったの。こっちの」


 と和水を顎で示し、


「和水芹香が10年正劇団員をしてた、怪獣座」

「知ってますよそれは。有名な話だし、檀野さんもバラエティ番組なんかで良く話題にしてますよね? 主宰の──ケモノザキさんと喧嘩したせいで正劇団員になれなかったって」

「そう。あれ、

「やめようよ」


 和水が再び、檀野の腕を引いた。檀野は静かに首を横に振る。


「いいよ。私もあのネタで笑い取るの疲れた。全部喋る。私には、劇団員になるための演技力も覚悟も足りてなかったんです。だから研究生止まりだった。正劇団員になるための試験には3年連続で落ちて、年齢的にも──、怪獣座に拘ってたら勿体無いって思った」


 この子は、と和水を示した檀野は、


「年齢は同じだけど、私が研究生になった年にはもう劇団員だった。きみ、大学行きながら怪獣やってたんだよね?」

「……そう。だけどさ、檀野さん」

「正直癪だったよ、私の大学も和水この子の母校も学生演劇ではそこそこ有名だったし。私は高校生の時に歌劇団からスカウトされたこともあったけど、ストレートプレイがやりたくて、怪獣座の研究生になった。和水が目の前で助演、助演、遂には主演に選ばれるのを見て、もうやめようって思った。役者をやめようって」


 話の筋が見えてきた。鹿野だけではないだろう。宍戸も眼鏡の奥の瞳を大きく見開いている。


「で、怪獣の研究生を辞めて……私はまあ、あんまり真面目な大学生じゃなかったから、留年もしてたし。でももう演劇は辞めるから就活しようって思ってたところに──真琴が声をかけてきた」

「内海真琴さん。彼も当時は学生……?」


 宍戸の質問に、檀野は首を横に振った。


「あいつはきっちり卒業していったから、もうとっくにイナンナの社員だった。で、自分の父親とか伯父──灘波さんのことだけど──を抜いて、イナンナの二代目社長は真琴だって、当時かなり話題になってた」


 まったく知らない情報に、鹿野は困惑する。知らない世界だ。小劇場界と芸能界は細い橋で繋がっているような関係だけれど、実情はかなり違う。鹿野には分からない世界の話を、檀野はしていた。


 10年。


 イナンナが、野上神社の跡地にシアター・ルチアを建てて10年。

 和水芹香が劇団怪獣座で正劇団員として活動していたのが10年。

 鹿野と不田房が知り合って、10年。

 それぞれの10年があり、それぞれの重みがある。


「簡単に言うと、真琴が私を辞めさせなかった。大学卒業したら──中退でも構わないけど、イナンナに入ってくれって言われた」

「内海現社長の本心は?」

「さあね。でもまあ……宍戸さん、それに不田房さん。あなたたちの世代なら知ってるでしょ? 私が音楽番組で歌うたってたの」


 放り投げるように語る檀野の言葉に、宍戸や不田房の方が少々焦っているのが分かる。歌手、アイドル売り時代の話は、檀野としてはあまり触れられたくない部分ではなかったのか。


「アイドルで2年……3年? それからドラマとか映画に出るようになって……演劇も」


 肩を竦めた檀野が、そこで初めて自嘲気味に笑った。


「イナンナ所属っていう看板があれば、幾らでも主演になれた。私程度の演技力でもさ。嬉しくなかったって言ったら嘘になるけど、でもそれは、私の実力じゃない」

「話があっちこっち行ってます、檀野さん。ここシアター・ルチアの話をしましょう」

「ああ──そうだね」


 檀野創子は体ごと振り返り、背後に立っていた和水芹香の手を掴んだ。


「和水、隠しててごめん。私も知ってた、あのスタジオに、おはぎ食べさせようとするババアが出るってこと」

「えっ!?」


 和水が裏返った声を上げる。鹿野もまた、驚きを隠しきれずにいた。


「あのババアは野上神社の生き残り……っていうか、魂? 成仏できてない、もう神様じゃなくなっちゃった神様? とにかく化け物バケモンであることに間違いはない」

「檀野さん、それって」


 檀野より、和水の方がほんの少しだけ小柄だ。今日は檀野が高めのヒール、和水がスニーカーということもあってより身長差が強調される。戸惑った様子で見上げてくる和水を一瞥し、檀野は自身の上着のポケットに手を突っ込んだ。


「ええっと、こういうの誰が詳しいの? 素直? それとも宍戸さん?」

「あ、宍戸さんで」

「俺で」

「じゃあ見て。昨日、社長室で真琴を引っ叩いて全部吐かせた」


 檀野が放り投げたスマートフォンをキャッチした宍戸が、鹿野と不田房が並んで座るソファの前で片膝を付く。三人で、液晶画面を覗き込む。


「野上神社はたしかに芸能の神社。かつては多くの役者や芸人が通い詰めていた。でも──」


 何枚もの写真を宍戸が素早くスライドしていく。モノクロ写真に記録された、当時の野上神社の外観。お札。それに──おはぎ。


「おはぎじゃ!」

「名物だったらしい。芸事上達おはぎって」

「単に買って食えばいいって話じゃないですよね?」


 宍戸が尋ね、檀野が頷く。


「しきたりがあるわけ。神社の境内で半分にして、その場で半分食べて、残りは神社に返す。お焚き上げだかなんだかを毎日やってたらしくて。その半分を通じて、神様が芸事を上達させてくれる」

「……全部自分で食ったらどうなりますか」


 檀野が、ふ、と鼻で笑った。彼女の視線は、ロビーの片隅で震える鈴井世奈を射抜いていた。


「体の一部を持って行かれる。対価としてね。最初からそうだったらしい、ってことはつまり、野上神社なんてのは名ばかりで──」

「うわっ!」


 宍戸の手の中で、何の前触れもなく檀野のスマートフォンの液晶画面が割れた。熱を帯びることもなければ、煙も上がらず、ただ割れた。もう何も映らない。


「結局のところここも、イナンナも、化け物の巣。ねえどうする不田房さん、マジでここで演劇やる? やるんだったら、化け物退治してからじゃないと無理だよね」


 檀野は、和水の手を握ったままで放そうとしない。まるで放した途端、和水がここから消え失せてしまうとでもいうかのように。


 その瞬間。ロビーにいる全員が檀野創子に視線を向けるタイミングを待っていたかのように「うわああああ」という叫び声が響いた。鈴井世奈だった。鈴井は膝の上に抱えていた弁当箱を床に投げ捨て、足を縺れさせながら駆け出していた。


「鈴井!?」


 宍戸が声を上げた時には既に遅く、鈴井の姿は見えなくなっていた。あのまま、劇場の外に出て行ったのだろう──理由は分からない。ただ、マスクを耳から下げていた(昼食を摂るために)鈴井の左のくちびるの端が、奇妙な笑みにも似た形に引き攣れているのだけは鹿野にも分かった。

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