幕間④
インターミッション 大嶺舞
私は、自分で言うのもどうかと思うけどちょっとした有名人だった。祖父は芸能プロダクション、イナンナの取締役社長。母親の違う、年の離れた兄は既に次の社長に指名されていて、私自身芸能人と顔を合わせるのは日常になっていたし、部活は演劇部、将来は女優になれたらいいなー、なんて思ってた。
でも、私に近付いてくる人間はみんな、私と同じことを考えているタイプばかりだった。
私──
けれど。葉月だけは、下心を隠そうともせずに近付いてくる連中とは毛色が違っていた。まず葉月は演劇部じゃなかった。学年は同じだけど、帰宅部だった。同じクラスになったのは2年生の時だった。葉月は──体育の授業をサボって、図書室で本を読んでいた。私も、体育の授業は嫌いだった。運動はジムでしてるし、指導教諭が汗臭いのも嫌で、毎回何かと理由を付けてサボっていた。図書室に顔を出したのはほんの気紛れだ。祖父が新しく建てたという劇場の柿落とし公演──いちばん初めの公演の演目であるシェイクスピアの戯曲を読んでおこうかな、と思ったのだ。
葉月は窓辺の席に座って、新書サイズの本を読んでいた。その表紙を見て、「あ」と声を上げてしまった。探していたタイトルだったからだ。
「大嶺さん?」
葉月の黒目の大きな瞳が、私を見上げていた。真っ直ぐでつやつやの黒髪。薄っすらと赤いくちびる。「どうしたの?」と尋ねる口元から、形の良い小さな白い歯が見え隠れしていた。
「あ、ああ……野上さんも、授業、サボり?」
尋ねると、葉月は否定も肯定もせずにふわっと微笑んだ。そうして、
「読む?」
と手にしていた戯曲──ウィリアム・シェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』を差し出した。そうだ、このタイトルだ。祖父の、株式会社イナンナの、いちばん新しい劇場、シアター・ルチアの
「それ、すごい話だよね」
机を挟んで正面に座った私に、葉月が声をかけてくる。でも、私のことは見ていない。窓の外に視線を向けている。
「そうなの?」
「読んだことない?」
さも意外そうに問われ、少しだけ恥ずかしくなる。そうだよね、シェイクスピアの戯曲だもん。ロミオとジュリエットとか、お気に召すままとか、そういうのしか私は知らなくって。タイタス……なんとかかんとかを上演するんだよって兄の真琴に聞いた時も「それ、面白い話なの?」って質問して呆れられて。
「復讐の話なんだよ」
校庭を眺めながら、葉月が囁くように言う。
「復讐?」
恋愛の話とか、あとは──リア王みたいな悲劇じゃなくって?
「悲劇といえば悲劇かな。いっぱい人が死ぬし」
「そうなんだ」
ちょっとびっくりした。祖父は、どうしてこの作品を柿落としのタイトルに選んだんだろう。もっと明るい話にすれば良かったのに。
「それは──大嶺さんのおじいさんも、誰かに復讐されるかもしれないから、じゃないかな?」
「え?」
葉月の声が、妙に近くで響いた。戯曲の表紙から顔を上げると、葉月がすぐ隣の席に移動していた。
白い、長い指が、ミルクティー色に染めた私の髪をさも当然のようにかき上げている。
耳元に、葉月のくちびるが優しく触れた。
「復讐? うちの……おじいちゃんが? どうして?」
「誰だって、生きていれば誰かから恨みを買うものよ」
私の耳に直接吹き込むように、歌うように、葉月は続けた。
「大嶺さん、私、シアター・ルチアの柿落とし公演、初日に行く予定なの。チケットも買ったんだ。大嶺さんは、いつ見に行くの?」
「あ……」
何も考えられなかった。葉月は美しかった。葉月が美しいということに、私はその日初めて気付いた。
葉月の目の中には星がある。
「の、野上さんと、同じ日に、しようかな……」
本当は、別にいつ見に行ったって良かったし、なんなら見に行かないかもって思ってた。だって復讐の話でしょう? 戯曲のページをぱらぱら捲っただけでも、びっくりするぐらい大勢の人間が死んだり、酷い目に遭ったりしていた。
新しくできる劇場のいちばん初めの公演に、この作品はおかしいんじゃない? おじいちゃん。
帰宅した私はすぐに兄に連絡し、シアター・ルチア柿落とし公演『タイタス・アンドロニカス』の初日の関係者席を押さえてもらった。「興味なさそうだったのに」と兄はちょっと驚いた様子で笑っていた。
当日、葉月とは劇場ロビーで合流した。新しい劇場の最初の公演ということもあって、会場には芸能人や有名人、タレントにアイドル、それに有名な劇団の座長とか、演出家なんかがいっぱいいて、ちょっとしたパーティーみたいになっていた。
そんな中、葉月は奇妙に輝いていた。
小豆色の着物。黒髪を綺麗に結い上げて、足元は黒い革靴。小さなバッグを手にした葉月が、「
「楽しみだね。見終わったら、またここで会える?」
「う、うん」
舞ちゃん。だなんて。学校では一度もそんな風に呼ばれたことない。ドキドキした。こんな綺麗な子が、私の、友だちだなんて。舞ちゃんって、呼んでくれるなんて。
「ねえ舞ちゃん、私、お願いがあって」
「え、なに……は、葉月ちゃん」
私の声は震えていたと思う。くふふ、と笑った葉月は朱色のマニキュアが塗られた綺麗な手で私の手を軽く握り、
「あっ、もう始まっちゃう! 全部終わったら、ここで待ち合わせね!」
と言い残して、座席へと去って行った。
兄に押さえてもらった関係者席は、劇場の二階にあった。二階の最前列。身を乗り出して一階席にいるであろう葉月の姿を探したけれど、見付からなかった。隣の席に座る兄に「危ないから」と腕を引かれ、渋々席に戻る。
舞台は、面白いのか、そうでもないのか、よく分からなかった。
ただ、有名な演出家が参加していたし、主演の俳優も女優もそれに脇役もみんなテレビや映画にも出ている人気の人たちだったから、カーテンコールは4回あったし、周りのみんながスタオベしてるから私と兄も立って拍手をした。──そんなことより、私の頭の中は葉月のことでいっぱいだった。お願いってなんだろう。ロビーに戻ったら、本当にまた葉月に会えるのかな。
兄が楽屋に行くかと誘ってくれたけど、断ってロビーに戻った。有名俳優や女優より、今の私は葉月に夢中だった。
葉月は──いた。ロビーのチラシ置き場の前で、白い紙に何かを書いていた。
「葉月、ちゃん」
「あ、舞ちゃん」
顔を上げた葉月は、文字通り花が綻ぶように笑った。
「何書いてたの?」
「ん? ああこれ、アンケート。座席の上になかった? チラシの束。その中に入ってたから」
私の席にはチラシの束は置かれていなかった。関係者席だったからかもしれない。チケットを買って演劇を見て、ちゃんとアンケートにも答える葉月は真面目だな、と思った。すごく演劇が好きなんだろうな、とも。
「ちょっと待ってね、すぐ書いちゃうから」
「あ、いいよいいよ。全然待つよ」
白い紙の上にボールペンでさらさらと文字を書き記す葉月に、私は慌てて言う。そう、別に急いでもらわなくてもいい。だって私は、この劇場の関係者みたいなものなのだ。他のお客さんには適当なタイミングで会場を出てもらわないといけないけれど、私が追い出されるということはない。葉月だって、私の友だちなのだから、追い出したりしない。させない。
「ありがと」
と微笑んだ葉月はふたつに折り畳んだ白い紙をアンケート回収ボックスに入れ、それからゆっくりと私の方に戻ってきた。和装だから走れないのだ。とはいえ、葉月が大股で走ったりしているところなんて、学校でも見たことないけど。
「待たせちゃってごめんね。それで、お願いなんだけど」
「うん、なんでも言って」
たとえば今回の舞台の出演者に会いたいとかそういう系のお願いだったとしても、絶対に叶えてあげようと思った。だって葉月は──葉月なんだから。
小首を傾げて私の顔を覗き込んだ葉月が、「あのね」と口を開く。
「この劇場の中にね、──●●があるはずなの。一緒に探してくれない?」
10年前。高校生だったあの日。私と葉月は身も心もひとつになった。
そう思っているのは私だけかもしれなくて、ううん、きっと私だけで、葉月にとっての大嶺舞は便利に使える道具なんだって分かってる。
でもね葉月。私は葉月のためならなんでもする。
葉月。
だから教えて。
ここは。
どこなの。
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